須賀敦子「翻訳という世にも愉楽にみちたゲーム」(全)


須賀敦子「翻訳という世にも愉楽にみちたゲーム」

 「本があったから、私はこれらのページを埋めることができた。夜、寝つくまえにふと読んだ本、研究のために少し苦労して読んだ本、亡くなった人といっしょに読みながらそれぞれの言葉の世界をたしかめあった本。翻訳という世にも愉楽にみちたゲームの過程で知り合った本。それらをとおして、私は自分が愛したイタリアを振り返ってみた。」

須賀敦子さんは、『ミラノ 霧の風景』白水uブックス  の「あとがき」に「翻訳という世にも愉楽にみちたゲーム」と書かれています。以来ずっと、この言葉が気になっています。

翻訳には当然原書があり、そこから逸脱することは許されないことを、決められたルールの下で行われるゲームに見立てて、須賀敦子さんはこう表現されたのでしょうか。一定のルールに従いさえすれば、あとは自由です。自分の裁量で動くことができます。

学生時代に、『ソクラテスの弁明』を新潮文庫で読みはじめ、そのあまりにも難解な、日本語の体をなしていない日本語に音をあげて放りだし、久保勉さんが翻訳された岩波文庫で読んだことがあります。これも学生時代のことですが、当時読売新聞社から出版されていたエリザベス キューブラー・ロスの『死ぬ瞬間』を読んだときにも同じような経験をしました。『死ぬ瞬間』については、その十数年後に鈴木晶さんの翻訳で中央公論社から出版されましたが、時すでに遅く、当時は日本語もどきの日本語で我慢して読むしかありませんでした。翻訳の功罪ということを思うと同時に、また原書で読めない自分を悲しく思いました。生半可な翻訳は、著者にとっても読者にとっても迷惑この上ない話です。

 「 では、その(翻訳の)職業倫理とは何か。本書に倣って強引に要約すれば、それは、「訳文に対する“結果責任”をまっとうすること」なのではあるまいか。実例を交えた翻訳の考察、歴史上の翻訳者たちの足跡紹介、翻訳技術論…。本書を貫く記述のすべてが、この基本の延長線上にあると思えるのだ。(今野哲男)

大学二年時の英語の講義のテキストは、George Robert Gissing『The Private Papers of Henry Ryecroft』でした。一般教養の英語のテキストとしては大分なものでした。ギッシングの『ヘンリ・ライクロフトの私記』は、平井正穂さんの翻訳で岩波文庫にありましたので、こんなにありがたいことはありませんでした。

Amazon さんの内容説明には「繊美この上ない自然描写」という言葉が使われています。ギッシングの「繊美この上ない自然描写」に適当な日本語をあてることができるはずもなく、前・後期の試験前には、平井正穂さんの訳をただただ感心して見入っていました。貴重な時間でした。日本語訳が文学の体裁をとるまでの長い道のりを思いました。翻訳の世界を垣間見た気がしました。

一語一語に目配りをし、気を配り、一言一句を丁寧に丁寧にひもとき、日本語に置きかえていく翻訳という読書は、同じ「精読」という範疇に属する読書法の中でも、その最たるものだと思います。お気に入りの作家のお気に入りの作品を微に入り細にわたって味わい尽くすわけですから、そこに自ずから「愉楽」が生じることは容易に想像がつきます。翻訳には、原文に添ってという制約こそありますが、あとは翻訳者の裁量如何であって、翻訳者の表現の自由度は、その制約をはるかに超えるものです。主導権は翻訳者の手にあって、翻訳の如何が作品の出来を決めるのであって、そこにはゲーム性が認められます。そして何よりも、お気に入りの作家のお気に入りの作品を翻訳することによって、日本の読者のもとに届けたい、日本の読者と感動を分かち合いたい、感動を分かち合える、と想像しただけでも、翻訳という読書は、じゅうぶんに「愉楽にみち」たものになり得るのだと思います。

翻訳とは無縁の世界にいる私が、想像して書いたものです。何かありましたら、そのときにはまた手を加えたいと思っています。



追伸:
「みずみずしく語る翻訳の『精神史』」
 「翻訳家が、情熱家の別名であることを知った。ときには死罪を受けるほどの反逆児にもなることを知った。翻訳史とは文化と文化のはざまで苦戦する者たちのヴィヴィッドな精神史にほかならないことを、辻由美『翻訳史のプロムナード』で知った。
 いい本だ。翻訳という見すごされがちな営みの実質を、翻訳史という知られざる歴史の局面を、じつに明晰でリーダブルな文章によって明かしてみせた。」


門外漢の私が、須賀敦子「翻訳という世にも愉楽にみちたゲーム」というタイトルの文章を書いたことを、今恥ずかしく思っています。翻訳とはただならぬ行為です。



西江雅之『「ことば」の課外授業』洋泉社(106-108頁)
 翻訳とは「演奏」である
(前略)
言語は互いに「置き換えられる」という話と「翻訳」の話とは大いに違うんです。
 翻訳というのは、ある言語で表現されたことを、意味の上でも形の上でも原文に近い形を保ちながら、ほかの言語に置き換えることです。その置き換えは、制約の中での一種の「演奏」なんです。つまり、本来の文章をいかに訳すかは、翻訳者の腕によるわけです。

須賀敦子「翻訳という世にも愉楽にみちたゲーム」(全)を書きました。「翻訳とは『演奏』である」と、西江雅之先生に、こんな風に上手に表現されてしまうと、ぐうの音も出ません。脱帽です。白旗です。降参です。

「翻訳」は「演奏」です。創造的な行為によって、楽譜は音に昇華され、立ち上がっていくわけですから、それは「愉楽にみち」ていることでしょうし、またそれは、楽譜から逸脱することはできないという、一定のルールの下で行われる「ゲーム」にも似ています。一定のルールにさえしたがえば、あとは自由です。自分の裁量で動くことができます。

西江雅之『「ことば」の課外授業』洋泉社 は、2003/04/21 に出版され、時を同じくして読んだのですが、全く記憶にありませんでした。うかつでした。お恥ずかしい限りです。が、そのかいあって、再び喜びを味わうことができました。