星野道夫「ハント・リバーを上って」(全)


「ハント・リバーを上って」

精文館書店・本店で、星野道夫さんの『イニュニック [生命]』新潮文庫 を購入し、その足で、市内で唯一の山の専門店 モンタニアさんに立ち寄りました。昨年末新築オープンしたばかりのお店です。吟味された商品の置かれた店内には、店員さんをはじめたくさんの健全な人たちがいました。久しぶりに味わった感触です。この健全さを味わいにまたお邪魔しようと思っています。

ヤマをやる人とツリをする人たちは明らかに違います。ヤマをやる人は思慮深く寡黙です。折り目正しく節度があります。ツリをする人の中には感心しないたくさんの人たちがいます。たとえば、立ち入り禁止・釣り禁止の池で、巡回中の警察官に何度か注意されながらも、また警察署に連行されながらも、依然 懲りない面々ですとか、これだけ環境問題がやかましく言われるなか、ゴミを持ち帰らない面々ですとか、目に余るものがあります。

星野道夫さんの『イニュニック [生命]』新潮文庫 は、2015/06/19 付のブログ、「テンカラ『書籍編』」の頁で引用させていただいた、湯川豊さんの特集記事「山と渓流の図書館」を読んで知りました。「ハント・リバーを上って」をまっ先に読みました。とても大切なことが書かれています。すてきなことばで彩られた作品です。一編の詩です。


下記、星野道夫さんの『イニュニック [生命]』新潮文庫
「ハント・リバーを上って」
からの引用です。

 私たちは、この土地を波のように通り過ぎてゆくカリブーの神秘さに魅かれていた。その上でニックは、一頭のカリブーの死は大きな意味をもたないと言う。それは生え変わる爪のように再び大地から生まれてくるのだと…。「追い詰められたカリブーが、もう逃げられないとわかった時、まるで死を受容するかのように諦めてしまうことがあるんだ。あいつらは自分の生命がひとつの繋ぎに過ぎないことを知っているような気がする」
 僕はそんなニックの話を面白く聞いていた。個の死が、淡々として、大げさではないということ。それは生命の軽さとは違うのだろう。きっと、それこそがより大地に根ざした存在の証なのかもしれない。

 僕は以前から気になっていたことを急に聞いてみたくなった。
「ニック、オオカミは殺しのための殺しをすると思うかい? つまり獲物を食べるのではなく、生命を奪うためだけのハンティングのことさ。一度そんな場面に出くわしたことがあるんだよ」
 僕は何年か前、早春のツンドラで見た、生まれたばかりのカリブーの子を次から次へと殺しながら走るオオカミの姿を思い出していた。
「オレはあると思う。きっと、死はやつらにとって芸術なのさ。それは人間のもつ狭い善悪の世界の問題ではないんだ。そして、そのことは少しもオオカミの存在を低くするものではない。それがオオカミなんだ…」

◇クリアランス・ウッドは、「人々がまだ狩りをしながら動物のようにさまよっていた時代の、駆りたてられるような狩猟への思い」をもち、皆から「畏敬の念をもって」見つめられている「本物のハンター」、「本物の猟師」である。

 「クリアランスが今ここにいたら、オレたちのことを不思議な生きものを観察するような目で見るだろうな。クリアランスには考えられないんだ、なぜそんなことを心配するのかと。そしてその目は、徹底的に相手を見下した眼差しなんだ。なぜだかわかるか?… クリアランスは今に生きているからなんだよ」

 ニックが話していたように、一頭のカリブーを解体してゆくこの男の技はすばらしかった。そこに残酷さなど入り込む余地はなく、自分が殺した生きものをいとおしむかのようにナイフを入れてゆく、一人の猟師を僕は見つめていた。マイナス五十度まで下がる冬の狩りでは、クリアランスは凍えた手をカリブーの血の中に入れて暖めるという。腹がきれいに裂かれた瞬間、カリブーが最後の呼吸をしたかのように、吹き出すような湯気が晩秋の大気に立ち昇った。

 カリブーの身体が少しずつ離され、小さくなってゆくのを見つめながら、いつかニックと話した「おおげさではない死」のことを考えていた。オオカミに追われ、危うく逃げ失せたカリブーが、その五分後には何もなかったようにツンドラの草を食べている。死はあれほど近かったのに、カリブーはもうすっかり忘れているのだろうか。動物たちにとって、死はそれほど小さなことなのだろうか。そのことを、クリアランスは知っているような気がしてならなかった。獲物を追い、その死を奪い続けてきたクリアランスは、自分の命のことを想ったことがあるだろうか。この男は自分の死さえ考えないほど今に生きているのだろうか。僕はそのことをたまらなくクリアランスに聞いてみたかった。


下記、星野道夫さんの『イニュニック [生命]』新潮文庫
「ハント・リバーを上って」
を読んでの感想です。

クリアランスは未分化のままの世界を生きている。言葉によって細分化されていない世界である。「生と死」、「善と悪」といった二律背反した世界ではなく、すべてが未分化のままの混然として一つに溶け合った世界である。クリアランスは「自分の死さえ考えないほど今に生きているのだ」と思う。


2009年のことでした。私は、飼育箱という閉じられた空間の中で繰り広げられた命の明滅を見つめながら一夏を過ごしました。それは、星野道夫さんが身を置いたシベリアとは比べようもなく限られた小さな空間でのできごとでした。

下記、2009年夏の「ヤモリの観察日記」です。

 私は愛玩動物を飼ったことはないが、愛玩動物を飼う人たちの気持ちが分かったような気がした。人は、無為に生きることを意識した次の瞬間には作為的になるという逆説の中を生きている。しかし、ヤモリには無為も作為もなかった。その点で人は動物とは決定的に違っているのだと思った。愛玩動物のその無為自然さに人は魅せられるのだと思った。

 生きているということと死ぬということ。今生かされているということと今生きているということ。
 ヤモリは何匹ものクモを食べた。しかし、クモの命を奪ったヤモリには微塵の反省もなかった。我に返るということがなかった。何匹ものクモがヤモリに食べられた。ヤモリから逃げ惑うクモを見ると、クモに恐れがなかったとは言えないが、クモは自らの運命に従った。その運命の、その死の受け容れ方の潔さが私の場合とは異なってみえた。
 昨日梅雨が明けた。うって変わって、今日は夏空が一面に広がった。
 私は幼少の頃から空を見上げるのが好きだった。
 青空の青には何度も慰められてきた気がする。幾度も癒されてきた気がする。
 私にとって空は神々の領域である。
 刻一刻と変化する空はその折々の神々の表現であると、いつの頃からか私は思うようになった。
 “時薬”という言葉を知ったのはいつのことだったのだろう。
 青空の青と時を恃むしかない、と思った。


小林秀雄さんは、座談会にて、
「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」
とおっしゃられています。(『近代文学』昭和二十一年二月号)

自戒の意味を込めて…。

過去のできごとに拘泥して反省ばかりしていると、「今」という時間がないがしろにされてしまいます。「今」という時間が「過去」に置き換えられてしまいます。反省という、いつの間にか刷り込まれてしまった、つまらない悪癖はいいかげんにして、やめるのが賢明です。