「新聞の自由を生きた男 深代惇郎」(全)
「新聞の自由を生きた男 深代惇郎」(全)
2015/10/01
昨夜深更 秋の夜長の戯れに「古今亭志ん生 遊戯三昧」のキーワードで、自分のブログを検索してみました。見事 検索エンジンのトップに表示されました。その二つ下のサイトが気になりましたので、クリックすると、すてきな文章が待ちうけていました。
天声人語を書かれていた深代惇郎さん、と言われても存じ上げないばかりか、名前の読み方さえ調べなければ解らないありさまでした。とにかく、「ふかしろじゅんろう」さんが、「昭和48年9月の『天声人語』」に書かれた古今亭志ん生さんについてのコラムの全文が読みたくて検索すると、何のめぐり合わせか 2015/09/30 に、
が出版されたばかりでした。この文庫の「内容紹介」には、
「朝日新聞1面のコラム「天声人語」。この欄を1970年代半ばに3年弱執筆、読む者を魅了し続けて新聞史上最高のコラムニストとも評されながら急逝した記者がいた。その名は深代惇郎 ― 彼の天声人語から特によいものを編んだベスト版が新装文庫判で復活。」
と書かれていました。が、なにせ、「ベスト版」ですので、志ん生さんのコラムが載っているかどうかはわかりませんでしたが、早速明日買おうと思いました。そんなこんなをしているうちに眠れなくなってしまいました。
ごく稀に新聞で驚くような名文に出くわすことがある。その代表例を挙げよう。昭和48年9月の朝日新聞『天声人語』である。
〈ェェ、考えるッてぇと、なんでございますな、やっぱり、どうしても、しょうがないもんでしてな、オイ、目のさめるようないい女だよ、まるで空襲警報みたいな女だよ」▼落語の古今亭志ん生が語り出す「まくら」の奔放さは、天下一品だった。意味をなさぬような語り口から、次第にかもし出す味わいは、だれもマネができない。円生が、このライバルを評したそうだ▼「私は志ん生と道場で仕合いをすれば相当に打ちこむことができますが、野天で真剣勝負となると、だいぶ斬られます」(中略)▼その志ん生が紫綬褒章をもらったことがある。「シジュホーショーってなんです」と人にきいたら、「世の中のためになった人にくれる勲章だ」というので、びっくり仰天した。「ほかのことならともかく、そんなこと、あたしは身に覚えがねぇ」といったので、まるで罪人を捕まえるような話になってしまったという▼(中略)彼の話は、やるたびにちがったものになったが、その逆に、寸分の違いもなくみがき上げた芸を披露したのは、桂文楽だった。二年前、その文楽が死んだときいて、頭からフトンをかぶって泣いた志ん生も、きょうが自分の葬式となった〉
紙幅がないのでだいぶん削ったが、それでも、志ん生の人柄と芸風を鮮やかに描いた文章だということはおわかりいただけたろう。
筆者の名は深代惇郎。昭和48年から『天声人語』を2年9ヵ月にわたって書き続け、昭和50年12月、急性骨髄性白血病のため46歳の若さで亡くなった。
その深代の評伝『天人 深代惇郎と新聞の時代』(後藤正治著・講談社刊)を週末に読んだ。彼の死が日本の新聞界にもたらした損失は計り知れない。もし彼が早世しなかったら、新聞のありようは今とはかなり違っていたのではないか。そんな思いに駆られた。
それは、単に深代が稀代の名文家だったからではない。彼が新聞の命である自由な批判精神を体現した人だったからだ。たとえば昭和48年10月の『天声人語』では「大きな声ではいえないが、ふとしたことで盗聴テープが筆者の手に入った」という書き出しでこんな閣議の模様を描いている。
低迷する田中内閣の支持率回復のため「ゴルフ庁を新設してはどうか」という話が出た。参院選前に1000万ともいわれるゴルフ人口を放っておくテはない。
〈▼「尾崎将司の立候補打診をすべきだ」という人もいた。ゴルフ減税、総理大臣杯などの案が出た。「長官をだれにするかね」「やはりホールインワンの総理兼任でしょう」「いや、本場のイギリスでのスコアがお恥ずかしい」と、首相はめずらしく反省の様子だ▼「石原慎太郎君はどうだ」「彼は飛ばしすぎだ」〉
読めばすぐ架空の閣議と分かる話なのだが、このコラムは内閣を怒らせ、官房長官から厳重抗議がきた。深代は翌日こう書いた。
〈政府が迷惑をこうむったというならば、申し訳ないことだが、冗談が事実無根であることを確認するには、やはり「あの冗談は冗談でした」というほかはない〉
鮮やかな切り返しである。権力に屈しない深代の反骨精神が光り輝く。この輝きが朝日から失せて久しい。あの時代に深代のような記者が現れたのはなぜだろう。
そう考えながら本田靖春の『警察回り』(ちくま文庫)を読み返してみた。本田は元読売新聞記者で、数々の名作を著したノンフィクション作家だ。彼は昭和30年代前半、上野署の記者クラブで深代と共に青春時代を過ごし「深ちゃん」「ポンちゃん」と呼び合う仲だった。
以下は本田の回想である。記者クラブでは夕刊時間帯の暇潰しに麻雀や花札をするのが常だったが〈そうした遊びにほとんど加わらず、暇さえあれば汚れたソファに横になって独り読書にふけっていた男がいた〉。
それが深代だった。
〈ソファも汚れていたが、暑い時季を除いて彼がいつも身につけていたダスターコートも、それに負けず劣らず汚れていた(中略)身支度はそういう風であったが、彼自身は透き通った白い肌をしていて、それが清潔感につながっていた。白皙といえば、皮膚の色の白さばかりでなく、知性を思わせる。彼の場合はまさにそれであった〉
〈彼の死を知らされたとき私は、クラブのソファに横たわっていた姿と、活潑とはいえない身の動き、それに、あまりにも白かった顔を想い浮かべて、短命は警察回り時代にすでにして宿命づけられていたのか、などと考えたりしたが、そのようなことであきらめきれるものではなかった〉
本田は競馬でいえば「深代は何十年に一度出るか出ないかの名馬」で「知識や教養の面でも、また人間性においても、彼は飛び抜けていた」と語っているが、私に言わせるとサツ回りとしては深代も本田も落第生だった。本田は大井競馬場や浅草のストリップ劇場の楽屋に入り浸り、深代は読書三昧で、二人とも受け持ちの署をこまめに回る取材をしていない。
夜は夜で上野署裏のバーで酒を飲む毎日だったから二人とも事件ネタを抜かれ続けたはずだ。後の世代の常識では、こんな役立たず記者はやがて地方に飛ばされる。
ところが二人はそうはならなかった。本田はストリップ嬢やコメディアンの人生を描く区版の連載企画などで認められ、やがて本社の遊軍記者のエースとして頭角を現す。深代は昭和34年に30歳という異例の若さでロンドンに語学練習生として派遣され、特派員としての記者人生を歩みだす。
むろん二人の能力がしからしめたのだろうが、私はサツ回りとしての職務怠慢に目をつぶり、二人の中にキラリと光る才能を見つけ出した上司らの慧眼と度量の大きさに目を瞠る。こんなふうに若い記者たちを放し飼いにして、大きく育てようとする当時の新聞の風土が戦後ジャーナリズムを代表する知性を育てたのだと思う。
11月25日の朝日朝刊にまた1ページぶち抜きで「信頼回復と再生のための委員会」の模様が報じられていた。朝日が今回の一連の問題を重大な危機と捉え、さまざまな読者や外部識者の声に耳を傾けるのはとてもいいことだ。
しかし、それが、あれをしてはいけない、これをしてはいけないという規制ばかりで、記者たちの個性や冒険心を圧殺する方向に向かうとしたら、朝日の未来は危うい。上司の命令に素直に従い、ネタ欲しさに役人の機嫌を取る記者ばかりになったら新聞は死ぬ。
かつての深代や本田を育んだのは、自由と希望と熱気をはらんだ「戦後」という時代の息吹であった。もう一度、記者たちを広々とした野に放ち、伸びやかに活動させなければ、組織の再生はありえないと思う。
『週刊現代』2014年12月13日号より
「ブラックバス_’15 釣行後の反省会です」
2015/10/01
釣りを切り上げ、帰路モスバーガーさんで、ひとり反省会をしながら、精文館書店 三ノ輪店さんの開くのを待ち、開店と同時に店内に入りました。そして、店員さんに頼み、深代惇郎『深代惇郎の天声人語』朝日文庫 を探していただきました。「志ん生一代」が載っていることを確認し購入後、帰宅しました。
「深代惇郎と私は、同期だった。
深代は四十六歳で亡くなり、私はいま、深代が書いた『天声人語』のゲラの一ページ一ページを丁寧に読んでいる。まだ若いころの彼の姿をしばらく追って時を過ごすこともあった。
彼が亡くなった直後、ある会合でお会いした作家の有吉佐和子さんは、こういっていた。
『深代さんはものすごく勉強していたわ。もう、オドロキでした』
深代の作品の中で一印象に残るのはどれか、私は「夕焼け雲」(五〇三頁)をあげたい。(後 略)」
深代惇郎『深代惇郎の天声人語』朝日文庫 「解説 辰濃和男」(525頁)
深代惇郎「夕焼け雲」
夕焼けの美しい季節だ。先日、タクシーの中でふと空を見上げると、すばらしい夕焼けだった。丸の内の高層ビルの間に、夕日が沈もうとしていた。車の走るにつれて、見えたり隠れたりするのがくやしい。斜陽に照らされたとき、運転手の顔が一杯ひっかけたように、ほんのりと赤く染まった。
美しい夕焼け空を見るたびに、ニューヨークを思い出す。イースト川のそばに、墓地があった。ここから川越しに見るマンハッタンの夕焼けは、凄絶といえるほどの美しさだった。摩天楼の向こうに日が沈む。赤、オレンジ、黄色などに染め上げた夕空を背景にして、摩天楼の群れがみるみる黒ずんでいく。
私を取りかこむ墓標がある。それがそのまま、天空に大きな影絵を映し出しているように思えた。ニューヨークは東京と並んで、世界でもっとも醜い大都会だろう。その摩天楼は、毎日のお愛想にいや気がさしている。踊り疲れた踊り子のように、荒れた膚をあらわにしている。だが夕焼けのひとときだけは、ニューヨークにも甘い感傷があった。
もう一つ、夕焼けのことで忘れがたいのは、ドイツの強制収容所生活を体験した心理学者V・フランクルの本『夜と霧』(みすず書房)の一節だ。囚人たちは飢えで死ぬか、ガス室に送られて殺されるという運命を知っていた。だがそうした極限状況の中でも、美しさに感動することを忘れていない。
囚人たちが激しい労働と栄養失調で、収容所の土間に死んだように横たわっている。そのとき、一人の仲間がとび込んできて、きょうの夕焼けのすばらしさをみんなに告げる。これを聞いた囚人たちはよろよろと立ち上がり、外に出る。向こうには「暗く燃え上がる美しい雲」がある。みんなは黙って、ただ空をながめる。息も絶え絶えといった状態にありながら、みんなが感動する。数分の沈黙のあと、だれかが他の人に「世界って、どうしてこうきれいなんだろう」と語りかけるという光景が描かれている。(50・9・16)
深代惇郎「ハイボール」
この夏、中国で日本の「野球チーム」と中国の「棒球隊」が相まみえることになった。彼は「棒球」といい、われは「野球」というが、こうした大衆スポーツを通じ、いっそう理解し合えるのは喜ばしいことだ。
中国の棒球規則の前言に「友好第一、試合第二の精神を貫き、チャンピオン主義に反対せよ」と書かれているのは、いかにも中国らしい。覇権を求めず、覇権を許さず、という原則は、野球にまで及んでいるのだろう。
日本の野球史は百年を超えたが、最初の国際試合は一高対横浜在留アメリカ人だった。無敵を誇る一高チームが、アメリカ側に他流試合を申し込んだが「まあ、やめておきましょう」と相手にしてくれない。
明治二十九年五月、ようやく念願がかなって、横浜公園で対戦となった。結果は二十九対四で一高の大勝となり、日本野球史の輝かしい一ページとなったが、このとき日本側は捕手以外は素手でやったというからすさまじい。
日本でも野球の草創期は、チャンピオン主義の風潮はそれはど強くなかった。体育とか娯楽といった純な気分でやっていた。雨のはげしいときはミノかさをつけたし、頭に白はちまき、腰に越中フンドシ、ワラジばきといったいで立ちで、グランドを走り回った。
ある遊撃手がハカマを着用して出場したとき、礼節を知る選手として相手チームから絶賛されたが、実はゴロを後逸しないためだったという話も残っている。また当時は、ストライクゾーンが三つあった。
目から胸まではハイボール、腰まではフェアボール、ヒザまではローボール。打者は審判に向かい「余はハイボールを欲す」と予告し、そこに球がこなければ「ボール」になった。相手の弱点をねらわず、欲するものをあたえて勝負するのが正々堂々の試合とされたのだろう。
こんどの日中野球では、おたがいバッターボックスで「余は友好を欲す」と注文してほしい。このゾーンに外れた球はすべて「ボール」、ということにしよう。(50・4・21)
深代惇郎『深代惇郎の天声人語』朝日文庫(25-26頁)