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7月, 2017の投稿を表示しています

「小林秀雄『西行』_この空前の内省家」

小林秀雄『西 行』 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫 「では美は信用であるか。そうである。」「真贋」(233頁) あまたの「西行論」のなかで、私は小林秀雄の繙(ひもと)く、懊悩する西行の「美」の変遷を「信用」する。「美」は真偽の判断を竢たない。ひとえに「信用」の問題である。 「如何(いか)にして歌を作ろうかという悩みに身も細る想(おも)いをしていた平安末期の歌壇に、如何にして己れを知ろうかという殆(ほとん)ど歌にもならぬ悩みを提げて西行は登場したのである。彼の悩みは専門歌道の上にあったのではない。陰謀、戦乱、火災、飢饉(ききん)、悪疫(あくえき)、地震、洪水、の間にいかに処すべきかを想った正直な一人の人間の荒々しい悩みであった。彼の天賦(てんぷ)の歌才が練ったものは、新しい粗金(あらがね)であった。」(97頁) 「彼(西行)は、歌の世界に、人間孤独の観念を、新たに導き入れ、これを縦横に歌い切った人である。孤独は、西行の言わば生得の宝であって、出家も遁世(とんせい)も、これを護持する為に便利だった生活の様式に過ぎなかったと言っても過言ではないと思う。」(100頁) 「『山家集』(西行の歌集)ばかりを見ているとさほどとも思えぬ歌も、『新古今集』のうちにばら撒(ま)かれると、忽(たちま)ち光って見える所以(ゆえん)も其処にあると思う。」(91-92頁) 日本文学を専修しながらも、こういった努力 を疎かにしてきたことに忸怩たる思いがする。 「  風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな  これも同じ年(西行 69歳)の行脚のうちに詠まれた歌だ。彼が、これを、自賛歌の第一に推したという伝説を、僕は信ずる。ここまで歩いて来た事を、彼自身はよく知っていた筈である。『いかにかすべき我心』の呪文が、どうして遂(つい)にこういう驚くほど平明な純粋な一楽句と化して了(しま)ったかを。この歌が通俗と映る歌人の心は汚れている。一西行の苦しみは純化し、『読人知らず』の調べを奏(かな)でる。」(106-107頁) 西行が、「自賛歌の第一に推したという」歌に接し、小林秀雄はたちまちのうちにすべてを理解した。最晩年の西行の目に映った此岸は、「平明」な地平だ った。「一西行の苦しみは純化し」、「『読人知らず』の調べを奏(かな)でる」。西行

「小林秀雄を書くということ」

 くつろいだ姿勢で、頭に浮かんでくる言葉を待つ。鎮まっている。メモは取らない。残る言葉は残り、消え去る言葉は消え去る。わずかな動きが静寂を乱しそうな気がする。語と語が結びつき、文をなすのはずっと後のことである。文といっても稚拙なものである。まだ書かない。書きはじめるのは、おぼろげながら全体像が形をとってあらわれてからである。しかし、この時期の全体像ほどあてにならないものはなく、書いてはじめて明らかになるものである。「小林秀雄」を書き継いでいるうちに、私の作文作法がかわった。  最近では、作文のすべてをブログ上で行っている。アップロードした後に、推敲した回数が閲覧数となって残る。40回を超えることも珍しいことではない。わずかな文字数の作文とはいえ、私にとって「小林秀雄を書くということ」は、こういうことである。

「小林秀雄を読むということ」

 「小林秀雄を読むということ」は、途中で何度か投げ出し、天を仰ぎ、そのままに惰眠を貪るということ。通り一遍に通読したところで、雲をつかむような話で、なすすべもなく、その不甲斐なさに三度四度(みたびよたび)眠りに逃げこむ。その後、いまだ覚めやらぬ、おぼろげなる頭のままに、拾い読みをしているうちに、視界が開け、一気に理解が進むのが普通である。部分部分が全体の内に位置づけられ、見晴らしがよくなるからだろうか。  うまずたゆまず、寝ては覚めては、以上が、私の「小林秀雄を読む」ということである。  見苦しくもあり、お恥ずかしくもあり、精神衛生上あまりよろしくなく、よろしくないことには嗜好性があり、困惑するばかりである。

「小林秀雄、梅原龍三郎と美術を語る」

「梅原龍三郎 美術を語る」 『直観を磨くもの ー 小林秀雄対談集 ー』新潮文庫(293-337頁) 梅原 (前略)それよりも新しい画の代表的なものはポール・クレーね、今日の新しいいろんな要素を、ほとんどあの人一人でやっているんじゃないか、といったような気がするんだけどもね。(後略) 梅原 しかし、あの美しい要素というものは、やはり自然からぬき出してるんじゃないかと思うけれどね、美しさというものは、やはり自然の美しさと並行したものであってね、背馳(はいち)したものじゃないと思うんだけどね。それがこのごろは自然を否定してかかるようなものがあるんじゃないかと思う。そういうものは発展の道がないんじゃないかと思うけどもね。 小林 そう。クレーなんていう人のほうが(ピカソより)徹底してますね。 梅原 そう。 (319-320頁)  お二人の闊達な会話はあちこちに飛び火して、障るものがない。一人私だけが蚊帳の外にとり残されて、新奇な会話に耳をそばだてていた。驚くのは、両雄の感性には、共通項が非常に多いということである。また、齟齬が生じた際には、自らの見解を披瀝しているが、これは並大抵のことではない。    人にはときに刺激が必要であるが、あまりにも強い刺激はあってなきが如しである。終始、目を白黒させていた。 以下、 小林秀雄「梅原さんの言葉は絵なんだ」 「小林秀雄、梅原龍三郎とピカソの腕力を語る」 です。

「拝復 P教授様_人生の主導権を取り戻せ!」

釣りにおいても、いったん魚に主導権を握られると、相手のなすがまま、したい放題、暴れたい放題で手がつけられなくなります。手なづけるのに時間がかかります。それは釣りの醍醐味でもあるのですが、それが対人(たいひと)、対子どもとなると、早々に見切りをつけ、見境もなく釣り糸を切り、後は我知らず、その場から立ち去るしかありません。相手の非は明らかで、即刻「さようなら」を告げるほかはありません。被害は最小限に抑えるに限ります。 「人生の主導権を取り戻せ!」、どうもありがとうございました。さすが、強者ですね。達人技ですね。 すてきな週末をお過ごしください。 FROM HONDA WITH LOVE.

「拝復 P教授様_『放っとく義務』の履行問題について」

おはようございます。 「真実は常に単純で」、そして美しくもあるならば、それに照らすのが本当です。倉本聰は、「知らん権利」と「放っとく義務」ということをいっています。どうか放っておいてください。私は世間に対して、これといってなにをする者でもありません。従兄弟の長男との一対一の夏期講習を断ることにしました。夏の百数十時間と、入試までに過ごすであろう数百時間は貴重です。常識も良識もわきまえない子どもと過ごすのは、まっぴらです。 早速、優先事項を「日常に落とし込む」作業に移ります。どうもありがとうございました。 時節柄くれぐれもご自愛ください。 TAKE IT EASY! FROM HONDA WITH LOVE.

小林秀雄「光悦_天才に裏附けられたこの職人の審美上の自得」

小林秀雄『光悦と宗達』 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫 「彼(本阿弥光悦)が年少の頃から修練した相剣(刀剣鑑定などをいう)の技術は、自(おのずか)ら古刀時代に赴く道を彼に教えたに相違ない。彼にとって、日本の美術の故郷とは、即(すなわ)ち日本人が空前絶後の名刀を作り得た時代であった。そして、彼は、それを、砥石(といし)の上で、指の下から現れて来るのを見たのである。天才に裏附けられたこの職人の審美(しんび)上の自得が、桃山期という美術史上の大変革期に際して、諸芸平等と観じもし、そう実行もした彼の生活の扇の要(かなめ)の如(ごと)き役を果した様に思われる。」(186頁) 「彼の指は、名刀に訓練された視覚に導かれ、当代の需要に応ずる為に、健康児の動きのごとく的確に鋭敏に、休みなく運動した。(狩野)探幽(たんゆう)の理想も(狩野)永徳の夢想も、彼を驚かすに足りなかったのである。」(186-187頁)  「相剣」、また「名刀に訓練された」光悦の眼は、ゆるぎないものだった。「形」をとって鮮やかに映じる眼に、虚実を過つことはなかった。そしてそれは、創造へと向かった。自身の仕事に最も厳しい目を向けるのが「職人気質」というものだろう。  本編においても小林秀雄の筆はさえわたっている。浮浪の輩である「観念」の内に夢遊することを一貫して拒み、これを退けている。小林秀雄の信用したものは、確かな「形」あるものだけだった。  光悦なり、また宗達なりの人品に接したことのない私に書けるのは、いかほどのものでもない。ただ小林秀雄の織りなす文章の「形」に見入っているだけである。本末が転倒している。かといって、やめられないのも、また事実である。

小林秀雄「無常の思想の如きは、時代の果敢無(はかな)い意匠に過ぎぬ」

小林秀雄『平家物語』 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫 「鉄斎の天才、小林秀雄の天才を思う」 の掉尾で、晩年の鉄斎を、私は「無頓着で、無造作な、我が儘の」と形容したが、『平家物語』において、小林秀雄が、 「成る程、佐々木四郎は、先がけの勲功を立てずば生きてあらじ、と頼朝の前で誓うのであるが、その調子には少しも悲壮なものはない。勿論(もちろん)感傷的なものもない。傍若無人な無邪気さがあり、気持ちのよい無頓着さがある。人々は、「あっぱれ荒涼な(大口をたたく意)申しやうかな」、と言うのである。頼朝が四郎に生食(「いけずき」という名の名馬)をやるのも気紛(きまぐ)れに過ぎない。無造作にやって了(しま)う。」(143-144頁) と、手心を加えることなく、集中砲火を浴びせかけているのはおもしろく、示唆に富んでいる。 「(『平家物語』の)一種の哀調は、この作の叙事詩としての驚くべき純粋さから来るのであって、仏教思想という様なものから来るのではない。「平家」の作者達の厭人(えんじん)も厭世(えんせい)もない詩魂から見れば、当時の無常の思想の如(ごと)きは、時代の果敢無(はかな)い意匠に過ぎぬ。鎌倉文化も風俗も手玉に取られ、……」(147頁)  夏期講座の最中である。講師は小林秀雄先生である。たった一人の贅を尽くした聴講であり、おめでたい中学生のようにあくびをしている暇など、私にはない。年を古るごとに、「無頓着で、無造作な、我が儘の」、また「悲壮感もなければ感傷もなく、傍若無人で、気紛れ、無邪気に」なってゆく自分を感じているが、それも緒に就いたばかりのことで、その先行きはいぜんとして不透明である。  近年にない熱い夏を過ごしています。私の夏です。邪魔立ては許しません 。

「拝復 P教授様_日の目を見る方法を模索します」

「まず、豊橋のタウン誌、ミニコミ誌の連載から始めたら如何でしょうか?」 「また、以前お話したアマゾンの『 Kindle ダイレクト・パブリッシング』への掲載を、是非検討してみて下さい。見える風景が違ってきます。」 父の受診のつき添いで、つい今しがた帰宅しました。 おほめにあずかり恐縮しております。 常にかわらぬご配慮、ありがとうございます。 卒論の活字化 が終わり次第、手はじめに、「 Kindle ダイレクト・パブリッシング」に載せようと思っていましたが、いまだにそのままになっています。気がつけば七月も末で、相も変わらず、奉仕活動にふりまわされています。ただ働きを強要され、かといって感謝されるわけでもなく、残るのは恨みつらみばかりです。どうして私ばかりにお声がかかるのか不思議です。私が招いているのでしょうか。 日の目を見る方法を模索します。 ありがたいお言葉に感謝しております。どうもありがとうございました。励みになります。励みにします。 暑さ厳しき折、くれぐれもご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE.

小林秀雄「大和三山に健全な古代人を見附けた」

小林秀雄『蘇我馬子の墓』 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫 下記は、『蘇我馬子の墓』の最終段落の引用である。最終章は、それ以前の文章とは、たちまちのうちに様相をかえ、一気呵成に終息に向かった。その幕切れはあっけなく、その潔さに驚かされた。空疎な言葉を並べ立てることの愚かさを、徒労を思ったのであろう。  「私は、バスを求めて、田舎道を歩いて行く、大和三山が美しい。それは、どの様な歴史の設計図をもってしても、要約の出来ぬ美しさの様に見える。「万葉」の歌人等は、あの山の線や色合いや質量に従って、自分達の感覚や思想を調整したであろう。取り止めもない空想の危険を、僅(わず)かに抽象的論理によって、支えている私達現代人にとって、それは大きな教訓に思われる。伝統主義も反伝統主義も、歴史という観念学が作り上げる、根のない空想に過ぎまい。山が美しいと思った時、私は其処(そこ)に健全な古代人を見附けただけだ。それだけである。ある種の記憶を持った一人の男が生きて行く音調を聞いただけである。」(163-164頁) 小林秀雄は、「大和三山」の美しさに歴史の息吹きを感じた。人事はそれに倣うほかない、という思いにかられた。小林秀雄における歴史とは、個別的、具体的な体を成すものであって、思いをはせたとき、いつでも人の心を動かす用意のあるものである、と私は解釈している。 1996年の春、P教授のお供をして、『蘇我馬子の墓』であろうとされている「石舞台古墳」を訪れました。そっけない石組みだなと思い、なんの規制もなく、開放されているのが不思議でした。菜の花が盛りでした。大和三山は目にとまりませんでした。今思えば情けなく、お気楽な物見遊山でした。

「拝復 M様_静謐の秋にお合いしましょう」

暑中お見舞い申し上げます。 秋は私の最も好きな季節です。喧騒の夏はやかましく、やりきれません。ひと夏をこすと、老いも進行し、呆けにもさらなるみがきがかかることと思われますが、遠く人事のおよばぬこととあきらめています。静謐の秋にお合いしましょう。楽しみにしております。 故あってアルコールとは縁が切れました。紫煙にて人を煙に巻くこと、珈琲は節度なくあいかわらずです。 「五十になったら明日はあっても、明後日はないと思え」と、K大のP教授に釘を刺されましたが、どこ吹く風で、明日があれば、とのん気にかまえています。 ご丁寧なご挨拶、どうもありがとうございました。 暑さきびしき折、くれぐれもご自愛ください。 GOOD LUCK! FROM HONDA WITH LOVE.

「『待ったなし、出たとこ勝負』という真理」

 学生時代から河合隼雄の著作を読み継いできました。そのつど「待つ」ことの意義を思い、「待つ」ことを自分に課してきました。そのかいあってずいぶん悠長になりました。しかし今、ひたひたと忍びよる老いを前にして、舵をきることにしました。  「待ったなし」です。  「待つ」という粛々とした行為をも含めて、「待ったなし」です。「待つ」とは「待ったなし」に「待つ」ということです。気迫がちがいます。  人生「出たとこ勝負」です。  「歳月は人を待たず」とは、人には過去も未来もなく、人は常に時の最前線に立たされていることを意味します。    「待ったなし、出たとこ勝負」は真理であり、「待つ」とはその下位に位置するものです。  順位を誤っていました。

「拝復 P教授様_世事にまぎれ溺死寸前です」

「塾長の随筆のファン」のお言葉に接し感涙しております。どうもありがとうございます。夏休みに入ると、とたんにブログの質が落ちました。読書にいたっては皆無です。世事にまぎれ、溺死寸前です。 私の最も頭のあがらない伯母から、先ほど電話がありました。予定通りです。 「本心をいえば、夏期講習はやりたくありませんが、よく考えて八月にはいったら連絡します」と伝えて、電話を切りました。 「子守り」の時間が長すぎます。我知らず、あちこちからベビーシッターの仕事が舞いこんできます。泣く子にはなかなか勝てません。 ご丁寧なご返信、どうもありがとうございました。 くれぐれもご自愛ください。 TAKE IT EASY! FROM HONDA WITH LOVE.

「拝復 P教授様_授業中面前にて漫画にふける中学生」

おはようございます。 長テーブルをはさんでの一対一の授業中に、うつむいてばかりいるので不思議に思って見ると、漫画の本を読んでいた、という珍事もありました。早速退室していただきました。 その後、留守中に手紙を添えた菓子折りが届けられていたり、留守番電話に伝言があったりしましたが、今後受験までに共に過ごすであろう数百時間を思ったとき、ハイそうですか、とかんたんにはいえません。 「常識も良識」もわきまえない中学生に、節度ある態度を求めるのは、本末が転倒しています。昨今では、保護者にしてもしかりです。 不愉快な思いをしないためには、遠ざかること、遠ざけること、余計なものは背負わないことを、再び三たび痛感しております。 ご丁寧なご返信、どうもありがとうございました。 暑さきびしき折、くれぐれもご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE.

「拝復 P教授様_中学生におもねるのはたくさんです」

今冬急逝した従兄弟の、中三生になる長男と一対一の夏期講習を今日からはじめました。泣く泣く引きうけました。ところが、あろうことか、授業中にあくびばかりしているので、早速お帰りいただきました。無給の、また豊橋駅まで送迎アリの至れり尽くせりの奉仕活動です。中学生におもねるのはたくさんです。私にとって「ストレスをパワーに転換する」ことは至難のわざです。 暑さ厳しき折、くれぐれもご自愛ください。 TAKE IT EASY! FROM HONDA WITH LOVE.

「拝復 M様_明日から不定休の夏期講習です」

暑中お見舞い申し上げます。 一昨日から夏休みになり、明日から夏期講習です。お子様たちのご都合次第の不定休の夏期講習です。いつの頃からかこんな馬鹿げたことが慣例になってしまいました。主客が転倒しています。今の子どもたちは悪びれることなく、容赦無く予定を入れてきます。まとまった時間がなかなかとれないのが現状です。厳しさをくぐり抜けたことのないお子様方に、受験生の自覚などといってもどこ吹く風で、また周囲への配慮などあってないようなものです。それなりのおつき合いをするしかない、と言い聞かせていますが、ストレスはたまる一方です。 そんなこんなで、夏休み中は予定が立ちません。度々のことで申し訳ありませんが、ご容赦ください。 遠くないいつか、お合いできます日を楽しみにしています。 ご丁寧なご連絡、どうもありがとうございました。 暑さきびしき折、くれぐれもご自愛ください。 TAKE IT EASY! FROM HONDA WITH LOVE.

「未練がましくも、女々しくも、南北海道大会決勝です」

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ともあれ、北海高等学校に優勝していただかないことには気が納まらず、心穏やかでなく、撤退を決めたはずの 2017/07/02 以降も、未練がましくも、女々しくも、その行方をチラチラとみていました。札幌南高校が惜敗を喫した、北海高校が南北海道大会を制するのは責務であり、もし甲子園出場を逃すようなことがあれば化けて出る、とまで思いつめていました。気がつけば、我知らず、にわか北海ファンになっていました。 慶祝!甲子園出場!! これで怨念は晴れました。どうもありがとうございました。また、お疲れさまでした。甲子園でのご健闘をお祈りしております。 そして、私の関心はといえば早速、早稲田実業高等学校にうつりました。甲子園球場に早大の応援歌「紺碧の空」がこだまする日を楽しみにしています。清宮、野村両主砲のホームランの競演に期待を寄せております。例年になく、移り気な、欲張りな夏です。 追伸:早稲田佐賀高等学校については、まったくのノーマークでした。初出場おめでとうございます。まず一勝を、と応援しております。

TWEET「今夏の読書感想文」

「小林秀雄を読んで」 最近では、今夏自らに課した、夏休みの読書感想文を書くつもりでブログを書き継いでいます。題目は小林秀雄とそ の界隈に限り、よそ見はしないことと心に決めました。夏期講習の間に間の出来ごとです。いくつの感想文を提出することができるのか。小林秀雄を読む間に間に、夏期講習です。子どもたちと過ごす夏は、気が重く、厄介です。足枷になります。大ブレーキがかかります。

小林秀雄「絵を見るとは、一種の退屈に堪える練習である」

小林秀雄『偶像崇拝』 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫 『偶像崇拝』は、多くの話題から成っている。絵画に題材をとり、惜しげもなく展覧された作品群は、どれ一つとってみても秀逸で、瞠目するばかりである。 「絵を見るとは一種の練習である。練習するかしないかが問題だ。私も現代人であるから敢えて言うが、絵を見るとは、解っても解らなくても一向平気な一種の退屈に堪える練習である。練習して勝負に勝つのでもなければ、快楽を得るのでもない。理解する事とは全く別種な認識を得る練習だ。現代日本という文化国家は、文化を談じ乍(なが)ら、こういう寡黙(かもく)な認識を全く侮蔑(ぶべつ)している。そしてそれに気附いていない。」(218頁) けっして他人事(ひとごと)ではなく、小林秀雄の達観である。達見である。

「小林秀雄『真 贋』_神さまに、たとえ誤りがあろうとも」

小林秀雄『真 贋』 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫(226-242頁) 「研究者には欲はないが、美は不安定な鑑賞のうちにしか生きていないから、研究には適さない。従って研究心が欲の様に邪魔になる事もある。」(230頁)  小林秀雄の文章に真偽を問うのは愚かである。日本語が、これほど精緻な「美」を成すことにまず驚く。「美」は、詮索に堪えない。  『真 贋』を読みつつ、「真贋一如」ということを思った。「真贋」は、相補的な関係にあり、混然一体となっているところにおもしろみがある。「贋」なくして「真」はたちまちのうちに姿を晦(くら)ます。これほどつまらない世界はない。

「明日の大暑を前に、ただ今模索中です」

きっぱりとした物言いの、すくっと立つ文章を書くべく、ただ今模索中です。五十六の手習いです。晩年の「無頓着で、無造作な、我が儘の鉄斎」に倣います。

「小林秀雄の文章の美しさ」

小林秀雄の文章の美しさは、語の配列の美しさにある。ときに配される落ち着きを欠いた語に、はっとさせられる。破調の美である。「神さま」の適材適所に狂いはない。 白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫(57-58頁) おそらく小林(秀雄)さんも、陶器に開眼することによって、同じ経験(沈黙している陶器の力強さと、よけいなことを何一つ思わせないしっかりした形を知ったこと)をしたのであって、それまで文学一辺倒であった作品が、はるかに広い視野を持つようになり、自由な表現が可能になったように思う。小林さんが文章を扱う手つきには、たとえば陶器の職人が土をこねるような気合いがあり、次第に形がととのって行く「景色」が手にとるようにわかる。文章を書くのには、「頭が三分、運動神経が七分」と言い切っていたが、それも陶器から覚えた技術、というより生きかたではなかったであろうか。 運動神経のなせる技である。

TWEET「梅雨明け宣言」

梅雨明けが宣言されました。 暑中お見舞い申し上げます。 当地では、今年は全くの「空梅雨」で、雨が降ったという記憶は、なん日もありません。「梅雨寒」は、私の好きな気象ですが、今年はみられませんでした。「梅雨寒」用にしつらえた長袖のTシャツ、薄手のトレーナーも、結局袖を通さないままに夏をこすことになりました。直接には天候に左右されない生活をしていますが、それは、不自由で、窮屈で、意気地なく、不健康です。 暑さきびしき折、くれぐれもご自愛ください。

「小林秀雄の文章は難解か」

 小林秀雄の文章は決して難解ではない。  小林秀雄の文体は、美や思想を、思いや、ものやことを語るための抜き差しならぬ「形」であって、これをおいては表現できない、という自身の発明である。小林秀雄によって研ぎすまされ、提出された言語作品が、自身の眼に映り、心を動かした事実以上に難解であるはずもなく、では簡単か、といえばそうとばかりもいえず、厄介である。  小林秀雄の講演録である、 国民文化研究会『小林秀雄 学生との対話』新潮社 の帯には、 「批評の神様はかくも熱く、分かりやすく、親切で、面白かった。」 と記されているが、これは小林秀雄の著作全般についてもいえることである。   「『わかる』ということと、『苦労する』ということは同じ意味なんです。」( 『小林秀雄講演 本居宣長 新潮CD 第3巻』 )  要は労を惜しまないことといえよう。

「小林秀雄_神さまの眼識を信用する」

小林秀雄「当麻」,「徒然草」 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫(74-78頁,79-82頁) 今日も小林秀雄の二作品を読みました。白洲正子を読み、青山二郎を知り、小林秀雄への理解が深まりました。  「中将姫のあでやかな姿が、舞台を縦横に動き出す。それは、歴史の泥中から咲き出でた花の様に見えた。人間の生死に関する思想が、これほど単純な純粋な形を取り得るとは。僕は、こういう形が、社会の進歩を黙殺し得た所以(ゆえん)を突然合点した様に思った。要するに、皆あの美しい人形の周りをうろつく事が出来ただけなのだ。あの慎重に工夫された仮面の内側に這入(はい)り込む事は出来なかったのだ。世阿弥の「花」は秘められている、確かに。」「当麻」(77頁) 小林秀雄は形だけを信じた。対象と対峙し、美しい姿をとって現れないものを、絵空事として、打ち捨てた 。 「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失(う)せぬところをば知るべし」。(世阿弥「風姿花伝」)美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。彼(世阿弥)の「花」の観念の曖昧(あいまい)さに就いて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされているに過ぎない。 肉体の動きに則(のつと)って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥(はる)かに微妙で深淵(しんえん)だから、彼はそう言っているのだ。」「当麻」(77-78頁) 「では美は信用であるか。そうである。」「真贋」(233頁) 私は、小林秀雄の語る「美」を「信用」する。

小林秀雄「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。」

小林秀雄「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。」 「徒然草」 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫(81-82頁)  兼好は誰にも似ていない。よく引合いに出される長明なぞには一番似ていない。彼は、モンテエニュがやった事をやったのである。モンテエニュが生まれる二百年も前に。モンテエニュより遥(はる)かに鋭敏に簡明に正確に。文章も比類のない名文であって、よく言われる「枕草子(まくらのそうし)」との類似なぞもほんの見掛けだけの事で、あの正確な鋭利な文体は稀有(けう)のものだ。一見そうは見えないのは、彼が名工だからである。「 よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。妙観が刀は、いたく立たず」、彼は利(き)き過ぎる腕と鈍い刀の必要とを痛感している自分の事を言っているのである。物が見え過ぎる眼を如何に御(ぎょ)したらいいか、これが「徒然草」の文体の精髄である。  彼には常に物が見えている、人間が見えている、見え過ぎている、どんな思想も意見も彼を動かすに足りぬ。評家は、彼の尚古(しょうこ)趣味を云々(うんぬん)するが、彼には趣味というようなものは全くない。古い美しい形をしっかり見て、それを書いただけだ。「今やうは無下に卑(いや)しくこそなりゆくめれ」と言うが、無下に卑しくなる時勢とともに現れる様々な人間の興味ある真実な形を一つも見逃していやしない。そういうものも、しっかり見てはっきり書いている。彼の厭世(えんせい)観の不徹底を言うものもあるが、「人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故(ゆえ)なり」という人が厭世観なぞを信用している筈(はず)がない。「徒然草」の二百四十幾つの短文は、すべて彼の批評と観察との冒険である。それぞれが矛盾撞着(どうちゃく)しているという様な事は何事でもない。どの糸も作者の徒然なる心に集まって来る。 以下、 白洲正子「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。」 です。

小林秀雄「自分が生きている証拠だけが充満し」

「無常という事」, 「雪舟」 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫(83-87頁, 190-202頁) 「自分が生きている証拠だけが充満し、その一つ一つがはっきりとわかっている様な時間が。」(「 無常という事」 85頁) 今日は、 「無常という事」と「雪舟」の二作品を読みました。最近では内容はもとより、小林秀雄の文章に感興を覚えるようになりました。陶然としています。文が「形」をとって現れます。それは「文体」とは似て非なるものです。

「鉄斎の天才、小林秀雄の天才を思う」

「鉄斎 I,II,III」 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫(165-182頁) 「鉄斎 II」 「志などから嘗(かつ)て何かが生れた例(ため)しはない。」(173頁) 「絵かきとして名声を得た後も、鉄斎は、自分は儒者だ、絵かきではない、と始終言っていたそうだが、そんな言葉では、一体何が言いたかったのやら、解らない。絵かきでないといくら言っても、本当に言いたかった事は絵にしか現れなかった人なのだから、絵の方を見た方がはっきりするのである。」( 175-176頁) 「鉄斎は画家を信じなかったが、画家の方で鉄斎を信じた。」(178頁) 「鉄斎 III」 「鉄斎の筆は、絵でも字でも晩年になると非常な自在を得て来るのだが、この自在を得た筆法と、ただのでたらめとの筆とが、迂闊(うかつ)な眼には、まぎれ易いというところが、贋物(にせもの)制作者の狙いであろう。例えば、線だけをとってみても、正確な、力強い、或(あるい)は生き生きとした線というような尋常な言葉では到底間に合わない様な線になって来るので、いつか中川一政氏とその事を話していたら、もうこうなると化けているから、と氏は言っていた。まあ、そんな感じのものになって来るのである。岩とか樹木とか流木とかを現そうと動いている線が、いつの間にか化けて、何物も現さない。特定の物象とは何んの関係もない線となり、絵全体の遠近感とか量感とかを組織する上では不可欠な力学的な線となっているという風だ。これは殆(ほとん)ど本能的な筆の動きで行われている様に思われる。最晩年の紙本(しほん)に描かれた山水(さんすい)などに、無論線だけには限らないが、そういう言わば抽象的なタッチによって、名伏し難い造型感が現れているものが多い。」(180-181頁) 「(八十歳の半ば頃を過ぎると)鉄斎の絵は、どんなに濃い色彩のものでも、色感は透明である。この頃を過ぎると、潑墨(はつぼく)は次第に淡くなり、そこへ、大和絵(やまとえ)の顔料(がんりょう)で、群青(ぐんじょう)や緑青(ろくしょう)や朱が大胆に使われて、夢の様に美しい。ああいう夢が実現出来る為には、自然を見てみて、それがいったん忘れられ、胸中に貯えられて了わなければならないであろう。(182頁)  我知らず、鉄斎は、思想を絵にする他なかった。鉄斎の絵に仮託し、小林秀雄が語るのは、宗(おおもと)の

TWEET「ユニクロで、Wさんと対面す」

 今夕 ユニクロで、伊藤若冲の絵柄の三枚のステテコの支払いを済ませ、このままで(レジ袋は)結構です、と断ると、そのすぐ後に、「本多先生、Wです」と声をかけられ、あわてました。あまりの変わりように、「そう言われてもよくわからないな」と失礼なことを口にしつつ、しげしげと見つめれば Wさんに相違なく、なんの前ぶれもなく突如女性となって現れた Wさんに混乱しました。  念願かなって保育士をしていることは耳にしていましたので、「いろんな人生を送ってます」の言葉は意外でしたが、「いろんな人生を送ればそれでいいんですが、またの機会にいろんな人生について聞かせてください」と言って、手をふって別れました。  「Wさんのいろんな人生」もさることながら、「伊藤若冲とご存知の上でのご販売かどうか」も気になるところでした。  ユニクロさんでは今日も、出会いがありました。発見・発明を求め、ユニクロ詣でを続けます。 以下、昨日のブログです。 TWEET「ユニクロで、伊藤若冲と対面す」 ユニクロで、伊藤若冲と出会うとは予想だにしなかったことでした。意表をつかれました。 「芸艸堂」 さんとのコラボです。粋なはからいです。ステテコです。五種類の絵柄があります。暑気払いに一枚購入しました。早速はいています。盛夏を前にして、さらなる暑気払いが必要かどうか、思案にくれています。私はといえば、ユニクロさんには滅法弱く、今回もみごとに手中に落ちました。危うきに近よらずは真理であり、危うきに遊ぶは高級です。 追伸:ユニクロで購入した衣類は、一年間寝かしておくことにしています。自分と同じ衣服を身につけている人に会うことほど気まずいことはなく、死んだふりをするしかありません。 以下、 伊藤若冲 「千載具眼の徒を竢つ」 です。

TWEET「ユニクロで、伊藤若冲と対面す」

ユニクロで、伊藤若冲と出会うとは予想だにしなかったことでした。意表をつかれました。 「芸艸堂」 さんとのコラボです。粋なはからいです。ステテコです。五種類の絵柄があります。暑気払いに一枚購入しました。早速はいています。盛夏を前にして、さらなる暑気払いが必要かどうか、思案にくれています。私はといえば、ユニクロさんには滅法弱く、今回もみごとに手中に落ちました。危うきに近よらずは真理であり、危うきに遊ぶは高踏です。 追伸:ユニクロで購入した衣類は、一年間寝かしておくことにしています。自分と同じ衣類を身につけている人に会うことほど気まずいことはなく、死んだふりをするしかありません。 以下、 伊藤若冲 「千載具眼の徒を竢つ」 です。

TWEET「服地を選ぶ」

一昨日は、空に鈍色(にびいろ)の厚い雲が立ちこめ、蒸し暑い日でした。外に出ると、熱をはらんだ長袖のTシャツから発せられた熱が、両腕を直射し、それは外気よりもはるかに熱く、ヒーターを前にしているかのようでした。熱は、Tシャツと肌との間にこもり、温室効果による温暖化が起こっていました。はじめてのことでした。こんな日には綿では対応できません。生地選びに慎重にならざるをえません。早速温暖化防止策を講じます。

TWEET「空梅雨」

当地では雨が降る気配はなく、今年はどうやら空梅雨のようです。「空(そら)」も「空(から)」も「空(くう)」も好きな言葉ですが、「空」と「梅雨」が結ぼれるといけません。異常といえば毎年異常気象でない年はありませんが、異常が恒常化し、正常になる日も近いのかもしれません。それは、人間界とて同じことで、「正常」と「狂(きょう)」との間に線を引くことは、他愛のないことではなく、揺れが生じます。今こそ節度ある気象、節度ある人間関係が望まれます。

白洲正子「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。」

白洲正子「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。」  白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫(130-131頁)  話はちょっと横道にそれるが、先日私は未知の読者から実にありがたい手紙を頂いた。「よき細工は少し鈍き刀を使ふといふ」ことについてで、いうまでもなくこれは『徒然草』の一節である。梅若実の手離しの芸とも、右のジィちゃん(青山二郎)の言とも関係があるので書いておきたいのだが、「鈍き刀」の意味を今まで私はその言葉どおりに受けとって、あまり切れすぎる刀では美しいものは造れないという風に解していた。  ところがそれでは考えが浅いことを、この投書によって知らされたのである。その手紙の主がいうには、鈍刀といっても、はじめから切れ味の悪い刀では話にならない。総じて刀というものはよく切れるに越したことはないのである。その鋭い刃を何十年も研いで研いで研ぎぬいて、刃が極端に薄くなり、もはや用に立たなくなった頃、はじめてその真価が発揮される。兼好法師はそのことを「鈍き刀」と称したので、「妙観が刀はいたく立たず」といったのは、切れなくなるまで使いこなした名刀の、何ともいえず柔らかな、吸いつくような手応えをいうのだと知った。そういう経験がなくてはいえる言葉ではない。奥には奥があるものだと私は感嘆した。  ジィちゃんの言葉を借りていえば、「九十年も研いで研ぎ上げると」幻の如(ごと)く煙の如く立ちのぼるものがある。そういうものが日本の精神なのであって、兼好はそれを妙観の刀にたとえたのだ。妙観がどんな人物か私は知らないが、その一行だけで日本の文化の真髄を語って余すところがない。 兼好の文章も、たしかに鈍き刀を用いているのである 。 以下、 小林秀雄「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。」 です。

白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』_特装本

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白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』 は、平成6年10月30日に、限定80部の「特装本」が「荻(萩?)生書房」から刊行されました。 「ヤフオク!」に 白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』特装限定80部 直筆署名入 田島隆夫特織太引玉糸地機布装・総手漉和紙本(越前三椏紙) の名で出品されていました。2017(平成29年)/06/04 に 4.4980円の値段で落札されています。 いま私の手元にあるのは、1995(平成7年)/11/25 に新潮社から発行された「普及版」(単行本)です。題字の字体と活字に、「特装本」名残をみてとることができます。「特装本」は精興社最後の活版刷によるものです。 白洲正子は、「あとがき」(210頁)に、 「精興社については、三宅菊子さんが『東京人』の一九九五年十月号にくわしく書いていられたが、平安朝以来、少しづづ姿を変えてつづいた日本の活字の、その中でも特に美しいとされている精興社の最後の活版刷で私の本ができる、ーーそう聞いただけで胸が踊った。」 と書いています。 「精興社書体」 「題字も装幀の布も、見返しの倭建命の歌も、田島隆夫さんの直筆で、一つ一つていねいに筆で書いて下さった。」 白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』_題字 白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』_見返し 01 白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』_見返し 02 「見返しの倭建命の歌」は、「普及版」には書かれていませんが、田島隆夫さんが書かれた文字は、いとけない乳児が、心のおもむくままに、手足を動かしているように、のびやかです。健やかで、笑みを誘われます。うれしくなります。 このような光栄によくした白洲正子は幸せです。当然天稟あってのことです。 以下、その他の画像です。 白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』_特装本

白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』新潮社_まとめて

◇ TWEET「雑味をおぼえる」 ◇ 白洲正子「福原麟太郎_大人の文章」 ◇ 白洲正子「短い生をたのしまずば如何せん」 ◇ 洲之内徹「セザンヌの塗り残し」 ◇ 白洲正子「西行と私」 ◇ 「行き着く先」 ◇ 「小暑の日に記す」 ◇ 「いま最も気になる、坂本睦子という女性」 ◇ 「いま最も気になる、坂本睦子という女性_参考文献」 ◇ 「拝復 P教授様_ヤクザよりもヤクザな世界です」 ◇ 河上徹太郎「沈黙は相手を選ぶ」 ◇ 小林秀雄「河上(徹太郎)の方が大事なんだ」 ◇ 白洲正子「美神は常に嫉妬深い」 ◇ 白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』_特装本

白洲正子「美神は常に嫉妬深い」

白洲正子「『ある回想』を読んで」 白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』新潮社(181,182,186頁) 野々上慶一の『ある回想 小林秀雄と河上徹太郎』を読んだ時、私は感動してすぐ電話をかけた。もしかすると、手紙をあげたのかも知れないが、それはどちらでもいい。その前に書いた『高級な友情』が、何となく歯切れが悪かったため、今度は身を張って書いたという印象が強烈で、人の心に迫るものがあった。男の友情とはナンテ美しいものだろう。しいて云えば、そのひと言につきるが、今時こういうものが書ける人は少い。 (中略) そんな抽象的なことをいっても意味がないが、『高級な友情』というのがそもそも抽象的な事柄なので、そんなものはこの地球上には存在し得ない。美神は常に嫉妬深い。それほど美しいものを人間に許してなるものか。 (中略)  まことの友情とはそうしたものであろう。何も高級である必要はない。読み了えて私は心の底からそう思った。 以下、 「いま最も気になる、坂本睦子という女性」 小林秀雄「河上(徹太郎)の方が大事なんだ」 です。

小林秀雄「河上(徹太郎)の方が大事なんだ」

小林秀雄「河上(徹太郎)の方が大事なんだ」 野々上 慶一『ある回想―小林秀雄と河上徹太郎』新潮社 (23-27頁)  身の廻りの整理や出発の準備などしているうちに春となり、初夏となった。私は、いよいよ東京を離れることとなり、小林秀雄、河上徹太郎、青山二郎の諸氏に、事情を話した。するとささやかでも、どうしても送別会をやろう、一晩飲み明そう、ということになった。そして場所は、まず銀座の寿司屋「久兵衛」、日時は、東京出発の前日と決まった。  その夜、私がすこし遅れて久兵衛へ行くと、既に小林、河上両氏は来ていて、傍にやはり当時親しくつき合っていたピアニストの伊集院清三(後に斎藤秀雄に請われて、桐朋学園音楽科の事務長になり、戦後の音楽教育に尽力した)がいた。青山は、急に用が出来て、来れないとのことだった。そこで伊集院は下戸だったので、三人で飲みはじめた。  私は、文学はじめ芸術一般に興味を持っていたが、文学に野心を抱いた文学青年ではなかった。だから文学の世界と縁が切れるということに、未練のようなものはなかったが、やはり心から親しくつき合ってもらい、雑誌発行につき一緒に苦労した小林さんや河上さんなど尊敬する文士とは別れ難い思いがあり、東京を遠く離れ、都会の灯とも縁切れになるかと思うと、妙に感傷的になり、久兵衛を出て馴染みのバーなど一軒々々ハシゴして飲み歩いているうちに、意識がなくなるほどひどく酩酊した。気が付くと、銀座から遠く品川遊郭近くの土手下の、夜明し飲み屋にいた。河上、伊集院の姿はなく、小林秀雄と二人切りだった。めっぽう酒の強い小林さんが私に、「オイ、大丈夫か、一杯どうだ」とお銚子を差し出し、「ボツボツ夜が明けるかも知れねえ、どうする?」と、酒を注いだ。私は、グッと一杯やったが、酔った頭で、もうどこも行きようもあるまい。インジュさん(伊集院清三のことを、親しいものはみなそう呼んでいた)のところ以外あるまい。私がそう言うと、そうしよう、ということになって、その頃目黒の旧競馬場の近くに住んでいた伊集院の家(彼は独身で、女中さんと二人で、かなり大きな家に住んでいた)に、円タクを飛ばして行った。ところが、ここでトンデモナイ事を目にするのである。  二人が伊集院家を訪ねた時、無論、寐静まっていたが、玄関の戸をたたくと、ややして伊集院が出てきたが、ひどく

河上徹太郎「沈黙は相手を選ぶ」

「友情と人嫌ひ」 河上徹太郎『詩と真実』 「饒舌に聞き手が必要であるやうに、沈黙にも相手が要る。そして恐らく饒舌よりも相手を選ぶものだ。私と小林秀雄との交友はそんな所から始まった。」 一人での沈黙の時間。相手を前にしての沈黙の時。沈黙を共有することは一大事です。 追伸: 野々上 慶一『ある回想―小林秀雄と河上徹太郎』新潮社 (27頁)からの孫引きです。近日中に確認します。

「拝復 P教授様_ヤクザよりもヤクザな世界です」

最近では、とみに永田町界隈へ出かけることが多くなりましたね。吹く風に誘われて、ということなのでしょうか。それにしましても、国立国会図書館での六時間とは、天晴れですね。 文学から足を洗えないままにいます。なんでもありのヤクザな世界です。なまじ分別がある方々がお相手だけに、厄介で、ヤクザよりもヤクザな世界です。人間の業(ごう)ということを思います。 お便りどうもありがとうございました。 時節柄くれぐれもご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE.

「いま最も気になる、坂本睦子という女性_参考文献」

「いま最も気になる、坂本睦子という女性」 _参考文献 ◇「銀座に生き銀座に死す」 白洲正子『行雲抄』(34-53頁) ◇ 「ある回想」 野々上 慶一『ある回想―小林秀雄と河上徹太郎』新潮社  (9-33頁) ◇『ある回想』を読んで 白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』新潮社(181-186頁) ◇白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫(111-123頁) ◇ 「ある回想」 野々上 慶一『ある回想―小林秀雄と河上徹太郎』新潮社  (9-33頁) は、この夏一番のお薦めです。 「大人の友情」です。「高級な友情」です。 以下、 「いま最も気になる、坂本睦子という女性」 小林秀雄「河上(徹太郎)の方が大事なんだ」 白洲正子「美神は常に嫉妬深い」 です。

「いま最も気になる、坂本睦子という女性」

「魔性の女」といえば、坂本睦子は、確かにその範疇におさまる女性だが、この世のスキャンダル、狐と狸の化かし合い、惚れた腫れたは、私の関心の埒外のことであって、しかしなお私が坂本睦子に魅かれる理由は、坂本睦子に「超然」としたものを感じるからである。「神々に愛された女性」をみるからである。 「むうちゃん(坂本睦子)は、李朝(りちょう)の白磁のように物寂しく、静かで、楚々(そそ)とした美女であった。若い頃の写真を見たことがあるが、私にいわせれば年をとってからの方がはるかに魅力があったように思う。」 白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫(118-119頁) 繊細な感性の持ち主である、昭和の文壇を華やかに彩った文士たちの嗅覚は鋭く、放っておくはずはなく、放っておかれるはずもなく、 「曰(いわ)く、直木三十五(さんじゅうご )、菊池寛(かん)、小林秀雄、坂口安吾(あんご)、河上徹太郎、大岡昇平 ect ect。」 「銀座に生き銀座に死す」白洲正子『行雲抄』(40頁) あまたの遍歴を重ねて、なお汚れなき坂本睦子は無邪気です。 「そういう意味では、昭和文学史の裏面に生きた女といってもいい程で、坂本睦子をヌキにして、彼らの思想は語れないと私はひそかに思っている。」 白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫(118頁) 坂本睦子は、自死という形で数奇な人生の幕を引いた。「神々に愛される」ということは、ときに非情です。 「いま最も気になる、坂本睦子という女性」_参考文献 ◇「銀座に生き銀座に死す」 白洲正子『行雲抄』(34-53頁) ◇ 「ある回想」 野々上 慶一『ある回想―小林秀雄と河上徹太郎』新潮社  (9-33頁) ◇『ある回想』を読んで 白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』新潮社(181-186頁) ◇白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫(111-123頁) ◇ 「ある回想」 野々上 慶一『ある回想―小林秀雄と河上徹太郎』新潮社  (9-33頁) は、この夏一番のお薦めです。「大人の友情」です。「高級な友情」です。 以下、 小林秀雄「河上(徹太郎)の方が大事なんだ」 白洲正子「美神は常に嫉妬深い」 です。

TWEET「昨夜は満月でした」

昨夜は満月でした。雲の向こうの月は、夜空ににじんでいました。

「畏む」

わずかばかりの道をはさんだお向かいさんのお宅で、男の子が誕生しました。と、私は確く信じています。 先月下旬が出産予定日だとうかがっていました。いつの頃からか、辺りが鎮まりかえっています。静寂に包まれています。人の誕生とは、こういうことだったのか、と今さらながらに感じ入っています。「生死一如」を盾に、転倒した書き方を許していただければ。喪に服しているかのようなしじま、とでもいえば、わかっていただけるかと思います。畏(かしこ)さを乱さないように、静かに生活しております。波風をたてないように畏れの中に身をおいています。

「小暑の日に記す」

私は、善悪には無関心です。私のもっぱらの関心事は、「相当」かどうかということです。「相当」とは、私にとって、善悪の範(のり)を簡単に超える情念です。

「この行き着く先」

白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』新潮社 を読んでいます。 「能の型について」を読み、 福原麟太郎『野方閑居の記―福原麟太郎・自選随想集』 沖積舎 を購入し、 「永遠の旅びと」 また、 「荒川さんを憶う  ー最期の時をたのしむー 」 を読み、 「セザンヌの塗り残し」 洲之内徹『セザンヌの塗り残し 気まぐれ美術館』新潮社(69-70頁) を手にし、 「『ある回想』を読んで」を読み、衝撃がはしり、 野々上 慶一『ある回想―小林秀雄と河上徹太郎』新潮社 を早速求め、 「西行と私」を読んで、 小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫 をひっぱり出しました。 また、 高見沢潤子『兄 小林秀雄』新潮社 を注文しました。 行き着く先は、いつも決まって「小林秀雄」です。奇しくも今日は七夕ですが、小林秀雄の文章には常々艶を感じています。

「思いがけずも、いつになく『七夕』でした」

「めがねのエフ・バイ・ジー」 さんにあつらえた、「中近」の老眼鏡を受けとりに行ってきました。そして、帰路目と鼻の先にある 「料理 うえむら」 さんで、「旬彩」をいただいてきました。海鮮料理です。一人でお邪魔したのははじめてのことでした。人気のないカウンター席の片隅で、過去に二度、二人して出かけた思い出にひたりながら、一人ですごした時間は貴重でした。思いがけずも、いつになく「七夕」でした。

TWEET「七夕の日に」

「いかにかすべき我心」

白洲正子「西行と私」

「西行と私」 白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』新潮社  西行の名前を私が知ったのは、まだ物心もつかぬうちであった。神奈川県の大磯に、「鴫立沢」の旧跡がある。   心なき身にもあはれは知られけり 鴫たつ沢の秋の夕暮    の歌によったもので、海岸の松林の中に、かやぶき屋根の「西行庵」が建っており、門前に小さな沢が流れている。  その隣に私の祖父の隠居所があったので、小学校へ入る以前から、週末には必ず訪ねるしきたりになっていた。もちろん西行が誰だか知らなかったし、昔の坊さんなどにまったく興味はなかったが、沢で蟹をとったり、松林の中で遊ぶことはたのしかった。  そうしている間に自然に「鴫たつ沢」の歌も覚えたが、鴫立沢は固有名詞ではなく、好事家たちがつくりあげた歌枕にすぎないことを知ったのはよほど後のことである。要するにそれは鴫の立つ沢なのであって、特定の地名に限定しない方が西行の歌にはふさわしい。とはいうものの西行の名をはじめて知り、歌に出合ったのもそこであったことを思うと、私にとってはやはりなつかしい地名なのである。  そういうふうにして、雨が土にしみこむように、いつしか西行は私の心の中に住みついてしまった。折にふれ、歌集も読んでみた。ここに一々あげることはできないが、出家はしても仏道に打ちこむわけではなく、稀代の数奇者であっても、浮気者ではない。強いかと思えば女のように涙もろく、孤独を愛しながら人恋しい思いに堪えかねているといったふうで、まったく矛盾だらけでつかみ所がないのである。  人間は多かれ少なかれ誰でもそういうパラドックスをしょいこんでいるものだが、大抵は苦しまぎれにいいかげんな所で妥協してしまう。だが、西行は一生そこから目を放たず、正直に、力強く、持って生まれた不徹底な人生を生きぬき、その苦しみを歌に詠んではばからなかった。   心から心にものを思はせて 身を苦しむるわが身なりけり   世の中を捨てて捨て得ぬ心地して 都離れぬわが身なりけり  新古今の歌人たちが金科玉条とした幽玄も余情もあったものではない。のちに藤原俊成は、前述の「鴫たつ沢」の歌について、「心幽玄に姿及びがたし」と評したが、それは結果にすぎないのであって、己が心を持てあましていた西行に「鴫立つ沢の秋の夕暮」の風景は、身につまされて悲しく、

「拝啓 P教授様_螢鑑賞の夕べです」

上弦の日から数えて四日目の月が、南の空高くにかかっていました。みごとな月でした。 池の堤を目的地へと向かいながら、二匹の螢の明滅を目にし、先を急いだのですが、夢か現か幻か、今宵の螢鑑賞の夕べは、空振りに終わりました。梨のつぶてです。過去の「蛍狩り」のブログの日付をみると、どうやら時期を逸したようです。梅雨らしくない梅雨に油断していました。空梅雨の気象に、螢は無頓着のようです。 FROM HONDA WITH LOVE.

「拝復 P教授様_逢瀬に邪魔はつきものです」

今夜螢狩にでかけます。七夕の前々日の今宵、一足早い螢との逢瀬、 螢の逢瀬の鑑賞 です。行き先は、立ち入り禁止、釣り禁止の、勝手知ったる P 池です。今春から警察が頻繁に巡回してきます。何ごともなく生還できるかが気がかりです。法の目をかいくぐる のは慣れっこですが、ときどき失敗します。警察官は情趣を解さない、とひとり勝手に決めこんでいますが、非常時にはやむにやまれぬ逢瀬の事情を説こうと思っています。逢瀬は常にスリリングです。逢瀬に邪魔はつきものと覚悟しています。 時節柄くれぐれもご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE.

TWEET「松翠」

昨夜来の雨にあらわれ、薄日さす松の緑がきれいです。今春芽吹いた、露の干ぬ間の翠です。

洲之内徹「セザンヌの塗り残し」

「セザンヌの塗り残し」 洲之内徹『セザンヌの塗り残し 気まぐれ美術館』新潮社  高松から帰って二、三日後に、私はクラさんに会い、はじめにビヤホールでビールを、次にコーヒー屋でコーヒーを飲んだ。クラさんを紹介すると長くなるから、いまは、ここ数年安井賞展に続けて出品している若手の画家ということだけにしておこう。そのクラさんが、コーヒー屋を出てから有楽町の駅まで歩く途中で、私にこう言った。 「この前の、セザンヌの塗り残しの話、面白かったですね」 「僕が言ったの? 何を言ったっけ」  いつも口から出まかせに思い付きを喋っては忘れてしまう私は、すぐには思い出せなかったが、言われて思い出した。セザンヌの画面の塗り残しは、あれはいろいろと理窟をつけてむつかしく考えられているけれども、ほんとうは、セザンヌが、そこをどうしたらいいかわからなくて、塗らないままで残しておいたのではないか、というようなことを言ったような気がする。  そして、言ったとすれば、こういうふうに言ったはずだ。つまり、セザンヌが凡庸な画家だったら、いい加減に辻褄を合わせて、苦もなくそこを塗り潰してしまったろう。凡庸な絵かきというものは、批評家も同じだが、辻褄を合わせることだけに気を取られていて、辻褄を合わせようとして嘘をつく。それをしなかった、というよりもできなかったということことが、セザンヌの非凡の最小限の証明なんだ。  というふうに言ったと思うのは、実は、この頃私は、しきりに、辻褄を合わせようとする嘘ということを考えるからである。嘘というもののこの性格は、日常生活でも芸術の世界でも同じだが、芸術では致命的なのではあるまいか。これも私の、十分に時間をかけて考えてみなければならないことの一つだ。しかし、クラさんに言われて思い出すようでは心細い。  私はまた、この頃、眼の修練ということを考えている。絵から何かを感じるということと、絵が見えるということとは違う。これまた、これだけでは到底わかってもらえそうもないが、私が身にしみて感じる実感なのだ。先刻の田中の芩ちゃんが、いつか私の画廊で、冗談ではあったが、私を指して傍の人に「こいつは絵がわからないから」と言ったとき、私はつい肚を立てるのを忘れて、ほんとうにそうだなと思った。  絵から何かを感じるのに別に修練は要らないが、絵を

白洲正子「短い生をたのしまずば如何せん」

「荒川さんを憶う」 ー最期の時をたのしむー 白洲正子『名人は危うきに遊ぶ』新潮社  その翌年の夏、荒川(豊藏、陶芸家)さんは亡くなられた。最後のころは寝たきりであったと聞くが、それにつけてもあの時お目にかかっておいてよかったと思う。おいとまする時、荒川さんは長い間私の手を握っていて、お互いに無言で「お別れ」をしたが、死を覚悟した人との決別は、悲しいけれどもどことなく爽やかな印象を与えた。一生土を練って練りあげた骨太の手は暖かく、今でもその感触は私の掌に残っている。  同じ年の秋には、私の夫も死んだ。つづいて加藤唐九郎さんも亡くなった。あの時いっしょに訪問した美術評論家の洲之内徹さんも、つい先逹て急逝された。そうしてみんな私の周囲から姿を消して行く。いずれは私もお仲間入りをするだろうが、せめて生きている間は、生きなくてはと思う。荒川さんが示して下さったように、短い生をたのしまずば如何せんと思うこと切である。 (136-137頁)

「拝復 P教授様_人生に意味を求めてはいけない」

「人生に意味を求めてはいけない。人生からの問いかけに応える生き方。何が与えられているかは、問題ではない。与えらているものを如何に活用するかが大切である」 起き抜けに、「人生の意味」を思うこと が習慣になっておりますので、朝は苦渋に満ちています。これを機に、悪習を遠ざけ、朝一番に味わう煩悶から放たれる思考を模索します。 ご箴言、どうもありがとうございました。 時節柄くれぐれもご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE.

「2017年 夏_札幌南高等学校 野球部」

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「2017年 夏_札幌南高等学校 野球部」です。 「2017/06/30_札幌南高等学校 vs 立命館慶祥高等学校」 「2017/07/02_札幌南高等学校 vs 北海高等学校」 「2017年 夏_札幌支部予選」

「前略 H様_高校球児として二年あまりをすごした感慨を胸に」

無念です。 勝負の世界はときに非情ですね。 魂の脱け殻のような心境かと拝察いたします。 高校球児として二年あまりをすごした感慨を胸に、納得のいくまで休養して、次へと歩を進めてください。 どうもお疲れさまでした。ありがとうございました。 FROM HONDA WITH LOVE.