小林秀雄「無常の思想の如きは、時代の果敢無(はかな)い意匠に過ぎぬ」

小林秀雄『平家物語』
小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫

「鉄斎の天才、小林秀雄の天才を思う」の掉尾で、晩年の鉄斎を、私は「無頓着で、無造作な、我が儘の」と形容したが、『平家物語』において、小林秀雄が、
「成る程、佐々木四郎は、先がけの勲功を立てずば生きてあらじ、と頼朝の前で誓うのであるが、その調子には少しも悲壮なものはない。勿論(もちろん)感傷的なものもない。傍若無人な無邪気さがあり、気持ちのよい無頓着さがある。人々は、「あっぱれ荒涼な(大口をたたく意)申しやうかな」、と言うのである。頼朝が四郎に生食(「いけずき」という名の名馬)をやるのも気紛(きまぐ)れに過ぎない。無造作にやって了(しま)う。」(143-144頁)
と、手心を加えることなく、集中砲火を浴びせかけているのはおもしろく、示唆に富んでいる。


「(『平家物語』の)一種の哀調は、この作の叙事詩としての驚くべき純粋さから来るのであって、仏教思想という様なものから来るのではない。「平家」の作者達の厭人(えんじん)も厭世(えんせい)もない詩魂から見れば、当時の無常の思想の如(ごと)きは、時代の果敢無(はかな)い意匠に過ぎぬ。鎌倉文化も風俗も手玉に取られ、……」(147頁)

 夏期講座の最中である。講師は小林秀雄先生である。たった一人の贅を尽くした聴講であり、おめでたい中学生のようにあくびをしている暇など、私にはない。年を古るごとに、「無頓着で、無造作な、我が儘の」、また「悲壮感もなければ感傷もなく、傍若無人で、気紛れ、無邪気に」なってゆく自分を感じているが、それも緒に就いたばかりのことで、その先行きはいぜんとして不透明である。
 近年にない熱い夏を過ごしています。私の夏です。邪魔立ては許しません