小林秀雄「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。」

小林秀雄「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。」
「徒然草」
小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫(81-82頁)
 兼好は誰にも似ていない。よく引合いに出される長明なぞには一番似ていない。彼は、モンテエニュがやった事をやったのである。モンテエニュが生まれる二百年も前に。モンテエニュより遥(はる)かに鋭敏に簡明に正確に。文章も比類のない名文であって、よく言われる「枕草子(まくらのそうし)」との類似なぞもほんの見掛けだけの事で、あの正確な鋭利な文体は稀有(けう)のものだ。一見そうは見えないのは、彼が名工だからである。「よき細工は、少し鈍き刀を使ふ、といふ。妙観が刀は、いたく立たず」、彼は利(き)き過ぎる腕と鈍い刀の必要とを痛感している自分の事を言っているのである。物が見え過ぎる眼を如何に御(ぎょ)したらいいか、これが「徒然草」の文体の精髄である。
 彼には常に物が見えている、人間が見えている、見え過ぎている、どんな思想も意見も彼を動かすに足りぬ。評家は、彼の尚古(しょうこ)趣味を云々(うんぬん)するが、彼には趣味というようなものは全くない。古い美しい形をしっかり見て、それを書いただけだ。「今やうは無下に卑(いや)しくこそなりゆくめれ」と言うが、無下に卑しくなる時勢とともに現れる様々な人間の興味ある真実な形を一つも見逃していやしない。そういうものも、しっかり見てはっきり書いている。彼の厭世(えんせい)観の不徹底を言うものもあるが、「人皆生を楽しまざるは、死を恐れざる故(ゆえ)なり」という人が厭世観なぞを信用している筈(はず)がない。「徒然草」の二百四十幾つの短文は、すべて彼の批評と観察との冒険である。それぞれが矛盾撞着(どうちゃく)しているという様な事は何事でもない。どの糸も作者の徒然なる心に集まって来る。

以下、
です。