「小林秀雄の文章の美しさ」

小林秀雄の文章の美しさは、語の配列の美しさにある。ときに配される落ち着きを欠いた語に、はっとさせられる。破調の美である。「神さま」の適材適所に狂いはない。

白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫(57-58頁)
おそらく小林(秀雄)さんも、陶器に開眼することによって、同じ経験(沈黙している陶器の力強さと、よけいなことを何一つ思わせないしっかりした形を知ったこと)をしたのであって、それまで文学一辺倒であった作品が、はるかに広い視野を持つようになり、自由な表現が可能になったように思う。小林さんが文章を扱う手つきには、たとえば陶器の職人が土をこねるような気合いがあり、次第に形がととのって行く「景色」が手にとるようにわかる。文章を書くのには、「頭が三分、運動神経が七分」と言い切っていたが、それも陶器から覚えた技術、というより生きかたではなかったであろうか。

運動神経のなせる技である。