「小林秀雄を書くということ」

 くつろいだ姿勢で、頭に浮かんでくる言葉を待つ。鎮まっている。メモは取らない。残る言葉は残り、消え去る言葉は消え去る。わずかな動きが静寂を乱しそうな気がする。語と語が結びつき、文をなすのはずっと後のことである。文といっても稚拙なものである。まだ書かない。書きはじめるのは、おぼろげながら全体像が形をとってあらわれてからである。しかし、この時期の全体像ほどあてにならないものはなく、書いてはじめて明らかになるものである。「小林秀雄」を書き継いでいるうちに、私の作文作法がかわった。
 最近では、作文のすべてをブログ上で行っている。アップロードした後に、推敲した回数が閲覧数となって残る。40回を超えることも珍しいことではない。わずかな文字数の作文とはいえ、私にとって「小林秀雄を書くということ」は、こういうことである。