「小林秀雄『西行』_この空前の内省家」
小林秀雄『西 行』
小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫
小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫
あまたの「西行論」のなかで、私は小林秀雄の繙(ひもと)く、懊悩する西行の「美」の変遷を「信用」する。「美」は真偽の判断を竢たない。ひとえに「信用」の問題である。
「如何(いか)にして歌を作ろうかという悩みに身も細る想(おも)いをしていた平安末期の歌壇に、如何にして己れを知ろうかという殆(ほとん)ど歌にもならぬ悩みを提げて西行は登場したのである。彼の悩みは専門歌道の上にあったのではない。陰謀、戦乱、火災、飢饉(ききん)、悪疫(あくえき)、地震、洪水、の間にいかに処すべきかを想った正直な一人の人間の荒々しい悩みであった。彼の天賦(てんぷ)の歌才が練ったものは、新しい粗金(あらがね)であった。」(97頁)
「彼(西行)は、歌の世界に、人間孤独の観念を、新たに導き入れ、これを縦横に歌い切った人である。孤独は、西行の言わば生得の宝であって、出家も遁世(とんせい)も、これを護持する為に便利だった生活の様式に過ぎなかったと言っても過言ではないと思う。」(100頁)
「『山家集』(西行の歌集)ばかりを見ているとさほどとも思えぬ歌も、『新古今集』のうちにばら撒(ま)かれると、忽(たちま)ち光って見える所以(ゆえん)も其処にあると思う。」(91-92頁)
日本文学を専修しながらも、こういった努力を疎かにしてきたことに忸怩たる思いがする。
「 風になびく富士の煙の空にきえて行方も知らぬ我が思ひかな
これも同じ年(西行 69歳)の行脚のうちに詠まれた歌だ。彼が、これを、自賛歌の第一に推したという伝説を、僕は信ずる。ここまで歩いて来た事を、彼自身はよく知っていた筈である。『いかにかすべき我心』の呪文が、どうして遂(つい)にこういう驚くほど平明な純粋な一楽句と化して了(しま)ったかを。この歌が通俗と映る歌人の心は汚れている。一西行の苦しみは純化し、『読人知らず』の調べを奏(かな)でる。」(106-107頁)
西行が、「自賛歌の第一に推したという」歌に接し、小林秀雄はたちまちのうちにすべてを理解した。最晩年の西行の目に映った此岸は、「平明」な地平だった。「一西行の苦しみは純化し」、「『読人知らず』の調べを奏(かな)でる」。西行の姿は、あってなきが如しである。小林秀雄は、そこに西行の真面目を仰いだ。
「 願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月(もちづき)のころ
彼は、間もなく、その願いを安らかに遂げた。」(107頁)
72歳の生涯であった。
以下、
白洲正子「西行と私」
「白洲正子『西行』新潮文庫_まとめて」
です。