「小林秀雄を読むということ」

 「小林秀雄を読むということ」は、途中で何度か投げ出し、天を仰ぎ、そのままに惰眠を貪るということ。通り一遍に通読したところで、雲をつかむような話で、なすすべもなく、その不甲斐なさに三度四度(みたびよたび)眠りに逃げこむ。その後、いまだ覚めやらぬ、おぼろげなる頭のままに、拾い読みをしているうちに、視界が開け、一気に理解が進むのが普通である。部分部分が全体の内に位置づけられ、見晴らしがよくなるからだろうか。
 うまずたゆまず、寝ては覚めては、以上が、私の「小林秀雄を読む」ということである。
 見苦しくもあり、お恥ずかしくもあり、精神衛生上あまりよろしくなく、よろしくないことには嗜好性があり、困惑するばかりである。