「小林秀雄_神さまの眼識を信用する」

小林秀雄「当麻」,「徒然草」
小林秀雄『モオツァルト・無常という事』 新潮文庫(74-78頁,79-82頁)

今日も小林秀雄の二作品を読みました。白洲正子を読み、青山二郎を知り、小林秀雄への理解が深まりました。

 「中将姫のあでやかな姿が、舞台を縦横に動き出す。それは、歴史の泥中から咲き出でた花の様に見えた。人間の生死に関する思想が、これほど単純な純粋な形を取り得るとは。僕は、こういう形が、社会の進歩を黙殺し得た所以(ゆえん)を突然合点した様に思った。要するに、皆あの美しい人形の周りをうろつく事が出来ただけなのだ。あの慎重に工夫された仮面の内側に這入(はい)り込む事は出来なかったのだ。世阿弥の「花」は秘められている、確かに。」「当麻」(77頁)

小林秀雄は形だけを信じた。対象と対峙し、美しい姿をとって現れないものを、絵空事として、打ち捨てた

「物数を極めて、工夫を尽して後、花の失(う)せぬところをば知るべし」。(世阿弥「風姿花伝」)美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない。彼(世阿弥)の「花」の観念の曖昧(あいまい)さに就いて頭を悩ます現代の美学者の方が、化かされているに過ぎない。肉体の動きに則(のつと)って観念の動きを修正するがいい、前者の動きは後者の動きより遥(はる)かに微妙で深淵(しんえん)だから、彼はそう言っているのだ。」「当麻」(77-78頁)

「では美は信用であるか。そうである。」「真贋」(233頁)
私は、小林秀雄の語る「美」を「信用」する。