「地下足袋で歩きながら、つらつらと」病相と病相のはざまで。


躁と鬱の病相が繰り返されます。それぞれの病相をきたすまでには移行期、境界期とでもいえる時期があり、私の場合、それははっきりと自覚されます。何度かの躁と鬱との病相を経験するなかで、病相の予兆を絶えず注視することが、いつしか習いになりました。

気分が高揚し、口数が多くなり、活動的になりました。浪費癖が首をもたげ、また十分な睡眠がとれていません、という典型的な躁状態を呈している私に、
「躁状態で、このようにもの静かに話ができるとはとても思えません。まずは睡眠を確保しましょう」
と医師に言われたことがあります。
また、
「鬱の状態はみせてもらいましたが、躁の状態はまだみたことがありません」
と言われたこともありました。

医師の診断と私の感じ方の間には隔たりがあり、診断基準と照らし合わせた「病い」と、私の感じている極めて個人的な「病い」との間には懸隔があります。私の知覚過敏にすぎないのでしょうか。しかし、生活に支障をきたしているのはまぎれもない事実であって、「病人」と「非病人」のなんたるかもわからないままに、「病人」と「非病人」のはざまに身をおき、不安定な心の状態のままに揺らめいています。自分勝手な思い込みやとらわれのままに過ごすのは、やりきれず、あまりにもみじめです。

昨年末より低山を歩いています。運動量が圧倒的に増えました。歩くことによって、わだかまりやとらわれから解放され、心が、体が軽くなりました。歩くことの、また自然の中に身をおくことの効用を感じています。トレッキングをはじめるにあたっては、それなりの買い物もしました。これだけならばよかったのですが、合計すると睡眠時間が不足しているようには感じていませんが、最近になって睡眠が細切れにしかとれないようになってきました。早速私は、ここに「病い」の徴候を嗅ぎとっています。すると、疑心は暗鬼を生み、歩くことによってもたらされた効能の一切が、「病い」の徴候のように感じられ、落ち着かず、心の平衡を欠いています。

このような、いつしか習いになってしまった考え方は、「正常」の閾値を狭め、自縄自縛に陥り、精神衛生上不利に働くことは承知しているのですが、習い性となってしまっています。

私にとっては切実な問題です。経験知を積み重ねることによって、私なりに「病い」との折り合いをつけ、この知覚過敏の状態にさよならをする日が、一刻も早く訪れることを願ってやみません。