「地下足袋で歩きながら、つらつらと」_履く
薬王寺を過ぎると、あとは海辺の道を歩くことが多くなる。初遍路では軽登山靴を履いていたが、あのときは、ちょうどこのあたりで右の膝を痛め、足をひきずりながら歩くことになった。
こんどのお遍路で選んだのは、山歩きのときに履く愛用の革製登山靴だった。靴のなかには、うすい靴下と厚手のウールの靴下の二枚を着用している。むれる感じはあるが、両足が堅固に守られている安心感がある。
「そんな靴じゃ、重たくて歩きにくいでしょ」。そういって私の登山靴を見つめるお遍路さんもいたが、「とんでもない。この靴のおかげで快調です」とむきになって反論した。反論はしたものの、いかに堅固な靴に守られていても、足のあちこちに痛みがでてくるのは避けられない。絆創膏(ばんそうこう)やらをべたべたと足に貼るのが朝の行事になった。
長丁場では靴の選択はきわめて大切な意味をもつ。
遍路修行の若いお坊さんに出あうと、私はまず足元を見る。たいていは真新しいウォーキングシューズで、地下足袋や草履の坊さんはまずいない。「地下足袋で足を痛くした先輩の話をよく聞きますからね。このごろは、みなウォーキングシューズか登山靴です」。修行僧がそういっていた。
名僧山本玄峰は一八七〇年代、何回も四国遍路をしているが、記録によると裸足(はだし)で回ったという。目がかなり不自由だったうえの「裸足参り」である。厳しい修行を己に課すためのお遍路だった。
一九一八年にお遍路をした高群逸枝は草履だった。
演歌師、添田啞蟬坊(そえだあぜんぼう)は一九三〇年代前半、何年間もお遍路をしているが、このときは地下足袋だ。
種田山頭火も地下足袋だ。一九三九年の遍路日記に、地下足袋が破れて、左の足を痛めて困っていたところ、運よくゴム長靴の一方が捨ててあるのを見つけた。それを裂いて足袋代用にしたので助かった、と書いている。
草履ー地下足袋ー歩行用の靴、という変遷をたどって、登山靴派が現れた。
引用が長くなってしまいましたが、私の今の興味は「履く」ことにありますので了解していただくことにして、早速登山靴で舗装された道路を歩いてみようと思っています。吉田宿の近くに住んでいます。まず手はじめに、近辺の東海道を歩いてみます。デイパックを背負って東海道を歩いている人たちが結構います。今まで足元を気にしたことはありませんでした。うかつでした。