中井久夫「もし精神科医のごときものにも一言弁明が許されるとすれば」
「思春期患者とその治療者」
『思春期の精神病理と治療』所収、岩崎学術出版社、一九七八年
もし精神科医のごときものにも一言弁明が許されるとすれば、私はしばしば、揺れて止まない大地の上に家を建てることを求められ、強風の中に灯をともすことを命じられているように感じている。われわれが全面的に臨床に目を向けるようになってから日の浅いことは蔽うべくもなく、なお経験を積み、新しい可能性に目が開かれることを努めつつ時を待つべきであろうが、しかし、時に私は、ビルマ戦線に仆れた若き英国詩人アラン・ルイスのことばをゆくりなくも思い出す。
ーー「われわれの悲劇は何が善であり悪であるかにあるのではない。何が良く、何が悪であるかがわからないのにしかも決断し行動せねばならないことだ」ということばを。
「詩人はただ警告するだけだ」ーーこれは第一次大戦に仆れた、やはり英国の詩人ウィルフリド・オウエンのことばであるが、精神科医がただ警告するだけで足りるならばこれほど幸福なことはない。しかし医師たるものは、技術者一般と異なり技術それ自体の成熟を待つことができない。患者の存在自体が「とりあえず」問題に立ち向かうことを強いる。それはかつてもそうであったし、これからもおそらくいつもそうであろう。けれども、思春期の精神医療に立ち向かわざるを得ない時、単に思春期というのではなく、一九七〇年代にたとえば十四歳であること、十七歳で、二十歳であることの重さ、をとくに感じないわけにはゆかない。(48-49頁)