中井久夫「秘密を守ることの意義」



「精神科医からみた学校保健衛生」
「秘密を守ることの意義」

 成人の場合には、治療を拒む権利がある。実は精神障害の場合にはその権利は法的には大幅に制限されているのだが、しかし、いやそれだけいっそうに医者は患者と治療についての合意を得る努力を放棄してはよくないだろう。実際にもこの努力自体が患者の治癒可能性を大幅に増大する。精神科医の腕のほんとうの見せ所の一つだと私は考えている。
 未成年の場合にもこれが手抜きされてはならないと思う。なるほど、未成年に対しては親の権利と義務がある。学校の先生にも責任がある以上発言権がある。しかし、できるだけ、本人抜きの決定は避けたいところである。子どもは、大人は皆通じあっているという感じを持つものである。たしかに経験はそれを証明しがちである。母に打ち明ければ翌日にもう父が知っている。親に話せばあっという間に先生に伝わっている。先生に訴えれば父兄会で親が聞いて帰ってくる、など。実際は、大人といえども自分ひとりで打ち明けられた秘密を荷うのは重いから分担してもらおうと話してしまうのだが、子どもは失望し、また警戒心を強める。
 精神科医は子どもとの対話の秘密を親や先生に対しても守るのが治療的である、と私は考えている。子どもが芯からこの医者は秘密を守ってくれると実感しなければ、治療はそもそもはじまらない。この辺は、よく話せば理解してもらえることなので、精神科医はもっとちゃんとこういったことを親や先生に告げて了解してもらう努力が必要だ、と自戒をこめて記しておく。似た事情は、しばしば、面接の内容を、親がいっしょに帰る途中に子どもから聞き出そうとする場合に起こる。この親の行動は自然なのだが、精神科の面接の場合には、せっかく面接の場で得られたものの気が抜けてしまう。ひそかな“発酵”が起こらなくなる。こうして全く無駄になるだけでなく、同じ内容の面接は二度行うことができないから、しばしば治療全体を流産させてしまう。このことも、医者からあらかじめーー初診の時にーー親に了承してもらわねばならないことである。「気が抜けますから」と話すとわかってもらえることが多い(その代わり家族面接を準備する必要が起こる)。しばしば面接の緊張を下水に流そうとして患者のほうから話したがるので、親に了承してもらうことはいっそう必要である。治療がいっこうに進まないのを不思議に思っていると
“水洩れ”がしていたと後でわかることが結構多い。
 この辺の機微は父兄面談などにも働いているだろう。話し合ったことを心のルツボの中で反応させるのは一つの仕事ーーけっこうエネルギーを食う仕事である。自分が変わろうとするのに抵抗する内心の力は、変わらねばならない必然性を認めている場合にかえって強い。人に話すとみるみる楽になる。しかし、それは心の中であたため反応させてしかるべきものを水に流したからで、いわば当然なのだ。
 医者も気をつけねばならない。自分で考えあぐねたことは同僚(年長でも年少でも医者は皆“同僚”である)に相談すべきであり、さらに指導医には克明に報告して批判を仰ぐのが正道とされてはいる。それはそうなのだが、何事も副作用なしでは済まないので、患者の秘密は人に話すことはもちろん、カルテに書いてさえいけないというユングの極論にも根拠がある、と私は思う。相談し合う、批判を仰ぐ、という大義名分のもとに、治療の際に生まれる疑問や仮説をもちとおす緊張を解除しようとしたり、あるいはもっと安易な自己満足すなわち自己の努力あるいはその“成果”の同僚による是認肯定を求めると、なるほど医者の精神衛生は一時良くなるだろうが、治療の気が抜けるという“副作用”の比重の方が大きいと私は思う。
 最終的に秘密を守る義務が課せらているのは医者である。それは、本人の了承なくしては破れない法的義務である。むしろ、親や先生からの打ち明け話を引き受けて、持ちこたえる力が医者にはなくてはならない。

 わが国では秘密を守るという一方で漏洩が多い。わが国社会の一特性でもある。折り入って、と頼まれると守る力を弱めてあげるのがよいこととされがちである。医者は自分でも楽になりたい誘惑と闘わねばならない。話せば自分の気持ちも軽くなり相手にも喜ばれる。しかし、この時から治療の筋道は乱れはじめるといってよいだろう。医者はこの辺のことにもっとメリハリを利かさなければならないと思うが、同時に両親や先生にもわかっておいていただきたいことである。
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