團伊玖磨「食_料理って?」

 
香港に居る、親しい料理通の馬浩中さんが言った言葉を思い出す。或る時、香港では一番美味な烤鴨子〈北京ダック〉を食べさせるというので、よく僕達が行く、九龍のネーザン・ロードとキンバーリー・ロードの角に近い皇后大酒楼で、僕達は鴨子を餅(ビン)に包みながら話していた。北京生まれの彼は、何時(いつ)ものように礼儀正しく、然し一寸(ちょっと)得意そうにこう言った。
「ね、團さん、僕はね、中國料理、西洋料理、日本料理をさんざん食べた末にこう思うのですがね。どうも、本当に料理と呼べるものは中國料理だけだと思うんですよ。料理という語は、料と理という二字から成っていますね、西洋料理はね、種類が少なくて粗雑な材料を何とかして美味(おい)しく食べようとして、ソースやグレイヴィーに凝ったりして、詰まり、悪い材料を何とかしようという理ばかりが発達したものだと思います。日本料理はその反対で、國が小さい関係で、何處(どこ)ででも新しい材料が手に入り易く、そんな関係で、新鮮な材料の美味しさに負(お)んぶしてしまうために、それをもっと美味しく食べようという理が発達せず、詰まり、材料の料だけのように思えるのです。日本料理は料だけ、西洋料理は理だけで、両方とも片輪です。それに較べて中國料理は、材料の豊富さと良さに加えて、それをより美味しく食べるための理論も備わっている訳ですから、これこそ料理なのですよ。そうお思いになりませんか」
 僕はその話を聞きながら、全くだと考えた。

團伊玖磨『まだまだ パイプのけむり』「北京烤鴨子」(204頁)