「いまなぜ中井久夫なのか」

 豊橋市中央図書館で、『中井久夫の臨床作法 (こころの科学増刊) 』日本評論社 を 2016/01/28 に借りてから、中井久夫先生の書かれた本ばかりを読んでいます。手元にあった四冊の本と新たに図書館から借りた四冊、そして今回購入した(中井久夫の臨床作法 (こころの科学増刊) 』日本評論社 を含めて)二冊。また、近日中に『中井久夫コレクション』ちくま学芸文庫 全七冊を注文する予定でいます。

精神医学とは縁もゆかりもない一般読者である私が、「いまなぜ中井久夫なのか」といえば、それは、中井久夫先生の患者さんに対する眼差しであり、姿勢であって、患者さんご本人やそのご家族、また医師や看護師、さらには職員の方々への「言葉」です。お心配りであってご配慮です。文章であってその巧みな比喩表現です。そして何よりも、中井久夫先生の著書を拝読していると、気持ちが楽になります。


須賀敦子さんの「トリエステの坂道」を読みたくて、中央図書館に行き、女性職員の方を目にし、中井久夫先生のことを思い出し、何を期待するわけでもなく検索すると、リクエストしておいた中井久夫先生の書籍が、思いがずも三二冊も入っており、一番のお目当てだった中井久夫の臨床作法 』を借りてきて早速読んでいます。偶然の出会いを大切にしています。私の頭の片隅にはいつもコンステレートという言葉があります。

 私は、2015/08/06  に「聴くということ」のなかで、下記のように書きました。

「今仮に映画やテレビ・ラジオドラマ等のシナリオ、演劇の台本等々の書き言葉(台詞)を「言語」。声色や顔の表情・身振り手振り等を含めた、書き言葉(台詞)が実際に発語された際の話し言葉を「ことば」とするならば、「言語」と「ことば」の関係は、音楽でいう「楽譜」と「演奏」の関係とよく似ている。「演奏」は一回限りのものであり、指揮者の数だけ解釈があり、演奏者の数だけ曲がある。「ことば」は意味の乗り物であると同時に感情の乗り物でもあり、「言語」が「ことば」の形をとったとき、そこには無数の感情の表出がある。

 中井久夫先生の「話しことば」に思いを巡らすことがあります。中井久夫先生の「ことば」をお聴きしたいな、と思うことがよくあります。


 しばらくの間、中井久夫著の本を読みたいと思っています。私の「中井久夫読書週間」です。偶然の賜物です。


 なお、ブログのタイトルは、白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫 から拝借いたしました。