中井久夫「日本の文化とは『気ばたらき』の文化である」
わが国の現在はこういうタイプの「働きカルチュア」である。ただの「働きカルチュア」ではない。極端にいえば、労働量よりも何よりも「気ばたらき」がわれわれのいう「はたらき」である。課長が入室すれば、仕事の手をやすめて(目礼しないまでも)課長の入室をそれと認めるしぐさをすることが大事である。他国の多くでこういうことがぜんぜん起こらないとはいわないが、重視されはしない。
たしかに、「気ばたらき」の巧みな人をみていると、一種の美を感じる。「甲斐甲斐しい」という感じである。「気ばたらき」には独特の美学がある、といってよいかもしれない。外国の彫刻家が働く人体に認めた美とはまたちがった美である。集団の美ともちがう。一斉にオールをそろえてボートを漕ぐ美やマス・ゲームの美ではない。
(220-221頁)
「働く」という意味がわが国において、このようなものであることを指摘したい。たしかに「気ばたらき」があまり重視されない職種もある。しかし、そういう職種は低くみられがちなのが、わが「働きカルチュア」の一特質である。ノルマの何倍を果たすかが問題となるソ連のスタハノヴィズムからは実に遠い。「なりふりかまわず働く」ことは、そうせざるを得ない境遇にあれば同情されるが、一般には、働きの美学からはあまり評価されない。「一人でこつこつやる人」は、ある程度の敬意を表されるが、「手を休めずに」というところに注目されるようだ。「しばしも休まず槌打つひびき…」という“森の鍜治屋”である。ある種の長期的な仕事は、だらだらやってゆくことが一つのこつなのだが、それはまったく評価されないといってよいだろう。
(221頁)
「気ばたらき」が軽業(かるわざ)であるのは、また、過ぎれば「世話やき」「おせっかい」「他人の仕事にくちばしを入れる」「うるさい」奴に堕する。その微妙な一線をたえず意識していなければならない点にもある。ふつうの、業績原理による、達成度評価という一方の努力ではなく、二方向の努力の調整活動、まさに平衡をたえず回復する綱渡りである。
これが一般にあまり精神衛生によくないらしいことは、「肩こり」が日本人の国民病であることからもしれよう。
(223頁)