中井久夫「『踊り場のない階段』から巧みにオロしてあげる」

「精神科医からみた学校精神衛生」
「生理学者遠藤四郎氏の言では、踊り場のない階段ほど人を疲労させるものはない、という。たとえ、エスカレーターのように人間が受動的に運ばれて行く場合でも、踊り場のない長いエスカレーターは非常に疲労させるとのことである。とすれば、これは脚の問題でなく、神経の問題である。私には現在の教育が「踊り場のない階段」に見えてくる」(82-83頁)

「3 踊り場(中間休止)のない現代社会」
「私は時として思春期の子どもに話して休学をすすめることがあります。こういう踊り場をつくるということです。その子にとって、何かのめぐり合わせで踊り場が必要な時期に来ているという必要性を感じて、積極的に休学をすすめるわけです。休学中の過し方をどうするかというのは、また別の問題ですが、私の知っている、いま大学生の患者が、中学二年の頃が一番楽しかったといいましたが、思春期の中で一年しか明るい日がさしている時期がなかったというのは非常にいたましい気がします」(25-26頁)

「思春期患者とその治療者」
『思春期の精神病理と治療』所収、岩崎学術出版社、一九七八年
「思春期の人たちは、例の渦巻構造※の中で、一方では、片時でも立ち止まれば、世の中に、同級生に、とにかく無形の何かの流れに、おくれをとると感じている。たしかに一刻の遅れでも、取り戻すのは予想外に困難である。誰しも、遠足で、靴の紐を結び直している間に見る見る隊伍が遠ざかる心細い体験を持っているだろう。しかし他方では、思春期の人たちが内外の衝迫によって「踊り場のない階段」を駆け上がるように強いられていることはまぎれもない事実であり、この憩いなき登りから「オリる」ことは彼らの秘かな、しかし単独では現実化しえない願望である。医師が、「オリる」ことを保証することが一般に必要だし、一、二年を「支払った」後、「自分は自分だ」という自覚が生まれることもないわけではない。もっとも、むやみに「オロ」そうとすれば患者は当然「踊り場のない階段」の方にしがみつく。ある意味では、精神科医とは「巧みにオロしてあげる」者でなければならない。ここで「巧みに」とは安全感を失わずにということであり、そのためには十分な間接的アプローチ、すなわち根まわし地固めが必要である。しかし時には端的な直言という、“現実(リアリティ)の冷水”を浴びせることも必要である」(45-46頁)

※ ヘンダーソン G.Henderson が韓国社会に指摘したように吸い込み穴のような教育を介して社会的上昇を迫られる渦巻構造 vortex structure が日本にも(ややおくれ、韓国ほど激しくはないが)成立しつつある中で、「若さ」はほとんど自然な開花をゆるされなくなっている。知的に、成長のための余力を残さず、現在のために全力を吐き尽くすべく迫られているのが彼らである。彼らもうかうかそれに賛成してしまっていることが多いのだがーー。