中井久夫「踊り場のない階段」


「精神科医からみた学校精神衛生」
「3 踊り場(中間休止)のない現代社会」

 そういう思いを重ねるにつれて、次第に痛感されてくるのは、治療と両立するような学校生活の時期が実に少ないことである。とくに、中学、高校の場合、いずれも、三年間のうち、辛うじて二年生の時だけがそういう時期であるかのようだ。しかし、高校二年はすでに侵食されているらしく、多くの患者ーー卒業生も含めた“一般患者”ーーに問うと、「楽しかったのは中学二年生だけ」という答えがいちばん多かった。
 生理学者遠藤四郎氏の言では、踊り場のない階段ほど人を疲労させるものはない、という。たとえ、エスカレーターのように人間が受動的に運ばれて行く場合でも、踊り場のない長いエスカレーターは非常に疲労させるとのことである。とすれば、これは脚の問題でなく、神経の問題である。私には現在の教育が「踊り場のない階段」に見えてくる。
 大多数の少年少女がよくこれに適応しているのは、最近も福島章氏が指摘しておられる通りであろう。おそらく、古くサリヴァンが言い最近ラターが示しているように、人生の節目節目においては、その変化の中で、それ以前の不利な点、不幸な体験が、“償却”されるという面があるのだろう。たとえば思春期の到来がそれ以前の問題をしばしば止揚する。しかし、その裏を返せば、まず、それ以前の順調な発達も、その後を必ずしも保証しないということだ。また、この節目がどっちに転ぶかわからない非常に重要な時期、つまり危機だということも出てくる。その辺を考え合わせる時、子どもの適応能力をぎりぎりまで試してはならないように思う。私のような者は、適応能力がいったん破綻した人を引き受けて治療する立場であるけれども、少年少女期においては、現在への適応だけでなく、将来の成長と成熟と社会化のための余力が蓄えられてゆくことが、生涯の精神衛生を全うするために必要だと思うからである。
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