中井久夫「高度成長によって、われわれは大量の緑とともに大量の青春を失った」



「ある教育の帰結」
 高度成長は終わったが、そのバランスシートはまだ書かれていない。しかし、その中に損失として自然破壊とともに、青春期あるいは児童期の破壊を記してほしいものである。われわれは大量の緑とともに大量の青春を失ったと言えなくもない。(68頁)

「思春期患者とその治療者」
『思春期の精神病理と治療』所収、岩崎学術出版社、一九七八年
 「若さ」はそれ自体何の倫理的価値体系にも属さない。しかし、凝倫理としての「若さ」は社会から思春期患者にしばしば押しつけられるものである。時には彼らもそれを無理にでも信じこもうとする。と同時にヘンダーソン G.Henderson が韓国社会に指摘したように吸い込み穴のような教育を介して社会的上昇を迫られる渦巻構造 vortex structure が日本にも(ややおくれ、韓国ほど激しくはないが)成立しつつある中で、「若さ」はほとんど自然な開花をゆるされなくなっている。知的に、成長のための余力を残さず、現在のために全力を吐き尽くすべく迫られているのが彼らである。彼らもうかうかそれに賛成してしまっていることが多いのだがーー。
(中略)
 「教育爆発」は、階級という「悪」に代わるものとしてフランス革命の発見した「教育による社会上昇」が二世紀に足らずして早くもゆきづまった結果なのか、過渡的な一事象かわからないが、社会主義国にも早くみられる現象である。どうやら人類はまだ第三の途を発見していないようだ。そしてすくなくともわが国にみる限り、ただ、皆が高学歴をめざすが故に問題なのではない。問題は教師も青少年も家族すらも、教育の内容や受験の意義、学校選択が、一つの人生選択にふさわしい重みをもはや感じられなくなってきていることである。このような空疎化とともに、学校はただ、脅迫的なるものの網をすっぽり児童と思春期の者にかぶせる場になりつつある。もとより、強迫的なものは人間の内に潜んでいるが、それを誘惑して明るみに出し、賞揚し、磨きをかける大道場が学校というものの大きな側面である。(44-48頁)


「ある教育の帰結」
※本稿は特集「学ぶこと、生きること」(「教育と医学」一九七九年八月号、慶応通信)の一部であった。
 発達期は、現在の課題に応答しながら別に成長のための分をとっておかねばならない時期である。その分まで食い込むとは、それは成人になる資本(もとで)をつぶしていることになる。
(中略)
 むろん、人間には人間のしたたかさがある。愛や友情への満足欲求はそう簡単に消えてなくなるものではない。しかし、他方、それらが片隅に追いやられるならば、こまやかさは失われ、粗野なもの、茫漠たるものとならざるを得ないだろう。
(中略)
 高度成長期にわが国の精神病者数が増加したかどうかは何とも言えない。それ以前にはそもそも精神科医が少数だったからである。しかし、高度成長期の初期には、小児てんかんか精神発達遅滞を専攻するものが大部分だった小児精神科医は、思春期を中心とする年齢の多種多様な患者に忙殺されている。患者の少ない聖域だった小中学生期は、ちょうど高度成長が緑地帯を蚕食したように、もっとも問題の時期にとなっている。
(中略)
 今日の子どもたちがいちばん恐怖を覚えているのは何だろうか。お化けでも、戦争でもないだろう。落ちこぼれだろうか。そんな程度ではあるまい。ひょっとすると精神科医計見一雄氏(『インスティチューショナリズムを超えて』星和書店)の言われるように「生きつづけてゆけない」恐怖かもしれない。精神病恐怖であるかもしれない。級友の一人二人が休学したことを果たして彼らは他人事と聞いているのだろうか。彼らにとっていちばん身近な安全保障感喪失の危険は、そういうことではないのか。そのために彼らは無理をする。それは時に悪循環を生む。優等生の微細非行も、それにどこかでつながっているかもしれない。
 それではどうすればよいのか。精神科医は本来後始末役なので、これは、という提案はできる位置にいなくて当然である。しかし、いくつかの、あまり規模の大きくない私学の行き方に、学ぶべき多くのものがあるように思う。教育爆発と世にいうが、その反面は教育萎縮である。戦後教育の残る肯定面は私学の地位向上であるが、それを多くの私学は十分に生かし切れていないように思う。まず私学から教育萎縮ーー単色化ーーを脱け出ることが、現実にみえる一条の光のように思われる、とくに初中等教育において…。(69-72頁)