河合隼雄「私はこころの病ということばを絶対に使わない」


河合隼雄「私はこころの病ということばを絶対に使わない」
15 気働き文化の力

 精神科の病はこころの病である、とはいろいろな教科書や啓蒙書のはじめに書いてあることだ。あたりまえの言い草にきこえる。だが、はたしてそうだろうか。
 こころとは何だろうか。そしてこころは病むようなものだろか。私はここで素人ふうの哲学論をくりひろげようとは思わない。ただ、この表現が誤解を生みやすいものであることをいっておかねばならない。
 いみじくも、河合隼雄氏は、ある講演の中で、「私はこころの病ということばを絶対に使わない。たいていは周囲の人に“こころがけが悪いからなる病気だ”ととられて患者が叱られるのがオチだから」と、語られた。
 私の心は病んでいるかと自問自答してみると、健康だ、と胸を張っていえる状態ではとてもないが、病んでいる、という実感はない。日常用法に即していえば、「こころが病む」という用法も「こころが疲れる」という用法もめったにない。われわれは、精密な定義を追求しさえしなければ、こころというものが分かっている。その証拠は、「こころ」と話相手にいわれた時に途方に暮れたりしないことである。ただ、「こころ」が「からだ」とは全く違ったあり方で“ある”(“存在する”ーーこのことばも同じ意味では「こころ」と「からだ」に使えないだろうが)ことも分かっている。「病い」という意味も当然同じではないだろう。身体の概念を軽々しく援用することが現に患者を追いつめるならば、慎まなければなるまい。いろいろな保健衛生の教科書や家庭医学書、それにこのごろつぎつぎに出る啓蒙書ではどうなっているだろうか。
 ついでながら、こころはまず「傷つくもの」であるようだ。漱石の『こころ』はおそらく、いろいろな含みのある中で、第一に「傷つくもの」としてのこころ、だろう。長く長く、皮膚の下でうずきつづけたこころの傷である。
(217-218頁) 

 本書はこころで始まって「気」に深入りしたが、「気」にあまりとらわれてはなるまい。「気づかい」と「心づかい」のような対をいくつか作ってみると、「気」と「こころ」の含みの違いが浮き彫りにされてきはしまいか。日本語で「こころ」と呼んでいるものは、傷はついても病むものではなさそうであり、「気」中心のビヘイヴィアより「こころ」中心のビヘイヴィアのほうが、余裕とうるおいのある、「こころ」やさしいもののように思われる。この辺りはもう少し考えてみたいが、「こころの病」ということばに慎重でありたいという冒頭の言をくり返して終る。
(228-229頁)