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「小林秀雄,岡潔『人間の建設』_あれ、哲学の専門書じゃないからです」

岡  プラトンをお好きで、ずいぶんお読みになったようですね。 小林  好きなんですが、ただ漫然と読むので。好きな理由は、たいへん簡単なことなのでして。あれ、哲学の専門書じゃないからです。専門語なんてひとつもありません。定義を知らないものにはわからないという不便がないからです。こちらが頭をはっきりと保って、あの人の言うなりになっていれば、予備知識なしに、物事をとことんまで考えさせてくれるからです。材料は具体的で豊富ですし。 (136-137頁)

「小林秀雄,岡潔『人間の建設』_西洋人のことがわからなくなってきた」

小林  (前略)ピカソにはスペインの、ぼくらにはわからない、何と言うか、狂暴な、血なまぐさいような血筋がありますね。ぼくはピカソについて書きましたときに、そこを書けなくて略したのです。在るなと思っても、見えてこないものは書けません。あのヴァイタリティとか血の騒々しさを感じていても、本当には理解はできないのです。それがわからないのは、要するにピカソの絵がわからないことだなと思った。ぼくら日本人は、何でもわかるような気でいますが、実はわからないということを、この頃つよく感じるのですよ。自分にわかるものは、実に少いものではないかと思っています。 岡  小林さんにおわかりになるのは、日本的なものだと思います。 小林  この頃そう感じてきました。 岡  それでよいのだと思います。仕方がないということではなく、それでいいのだと思います。外国のものはあるところから先はどうしてもわからないものがあります。 小林  同感はするが、そういうことがありますね。だいいちキリスト教というものが私にはわからないのです。(後略) (98-99頁) 小林  ぼくはこのごろ西洋人のことがだんだんわからなくなってきたのです。 岡  何か細胞の一つ一つがみな違っているのだという気がしますね。 小林  そういうことがこの頃ようやくわかってきた。 (116頁)  両氏が口をそろえていう、これが井筒俊彦が措定した「存在はコトバである」ことの証左なのであろうか。「コトバ」が文化を規定する。  小林秀雄は、対話のなかで、 「言葉が発生する原始状態は、誰の心のなかにも、どんな文明人のなかにも持続している。そこに立ちかえることを、芭蕉は不易と呼んだのではないかと思います。」(133頁) といい、また、 小林  (前略)それはやはり自然に帰れということですよ。これは土人に帰れ、子供に帰れということですが。そういうことになるのも、これは決して歴史主義という思想に学ぶのではない、記憶を背負って生きなければならない人の心の構造自体から来ているように思えるのです。原始時代がぼくの記憶のなかにあるのです。歴史の本のなかにではなくて、ぼく自身がもっているのです。そこに帰る。もういっぺんそこにつからないと、電気がつかないことがある。あまり人為的なことをやっていますと、人間は弱るんです。弱るから、そこへ

「拝復 P教授様_悪しき道徳教育の、18歳の残滓です」

おはようございます。 我慢する、我儘は許されない、また反省する。 いずれもいずれも悪しき道徳教育の、18歳の残滓ですね。 この際きっぱりとお別れすることにします。 我慢しない。我儘に生きる。「反省なぞしない」。 無頓着で、無造作な、鷹揚で、無邪気な生活を心がけます。 盛夏です、酷暑です。容赦なしです。 くれぐれもご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE. 追伸: 小林秀雄さんが、座談会にて、 「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」(『近代文学』昭和二十一年二月号)と話されています。

「小林秀雄,岡潔『人間の建設』_思索は言葉なんです」

小林  岡さんの数学というものは数式で書かれる方が多いのですか、それとも文章で表されるのですか。 岡  なかなか数式で表せるようになってこないのです。ですから、たいてい文です。 小林  文ですか。つまり、その文のなかにいろいろな定義を必要とする専門語が入っているというわけですね。 岡  自分にわかるような符牒(ふちょう)の文章です。人にわからす必要もないので、他人にはわからないものです。自分には書いておかないと、何を考えたのかわからなくなるようなものです。やはり次々書いていかないと考え進むということはできません。だけど数式がいるようなところまではなかなか進みません。 小林  そうすると、やはり言葉が基ですね。 岡  言葉なんです。思索は言葉なんです。言語中枢(ちゅうすう)なしに思索ということはできないでしょう。 小林  着想というものはやはり言葉ですか。 岡  ええ。方程式が最初に浮かぶことは決してありません。方程式を立てておくと、頭がそのように動いて言葉が出てくるのでは決してありません。ところどころ文字を使うように方程式を使うだけです。 小林  そうですか。数学者の論文というのはそういうものですか。 (中略) 小林  私みたいに文士になりますと、大変ひどいんです。ひどいということは考えるというより言葉を探している言ったほうがいいのです。ある言葉がヒョッと浮かぶでしょう。そうすると言葉には力がありまして、それがまた言葉を生むんです。私はイデーがあって、イデーに合う言葉を拾うわけではないのです。ヒョッと言葉が出てきて、その言葉が子供を生むんです。そうすると文章になっていく。文士はみんな、そういうやりかたをしているだろうと私は思いますがね。それくらい言葉というものは文士には親しいのですね。岡さんの数学の世界にも、そういう独特の楽しみがあるでしょう。 (121-123頁) この小林秀雄の問いかけに対する、岡潔の回答はなく、話題が飛躍している。編集時に省略されたことがはっきり見てとれる。惜しいことをしたものである。

「小林秀雄,岡潔『人間の建設』_飛躍的にしかわからない」

小林  (前略)国語伝統というものは一つの「すがた」だということは、文学者には常識です。この常識の内容は愛情なのです。福田(恆存 つねあり)君は愛情から出発しているのです。ところが国語審議会の精神は、その名がいかにもよく象徴しているように、国語を審議しようという心構えなのです。そこに食いちがいがある。愛情を持たずに文化を審議するのは、悪い風潮だと思います。愛情には理性が持てるが、理性には愛情が行使できない。そういうものではないでしょうか。 岡  理性というのは、対立的、機械的に働かせることしかできませんし、知っているものから順々に知らぬものに及ぶという働き方しかできません。本当の心が理性を道具として使えば、正しい使い方だと思います。われわれの目で見ては、自他の対立が順々にしかわからない。ところが知らないものを知るには、飛躍的にしかわからない。ですから知るためには捨てよというのはまことに正しい言い方です。理性は捨てることを肯(がえん)じない。理性はまったく純粋な意味で知らないものを知ることはできない。つまり理性の中を泳いでいる魚は、自分が泳いでいるということがわからない。 小林  お説の通りだと思います。 (146-147頁) これを機に、この対談は終わっている。

「小林秀雄,岡潔『人間の建設』_理論物理学者とは、そして数学者とは」

小林  アインシュタインは、すでに二十七八のときにああいう発見をして、それからあとはなにもしていないようですが、そういうことがあるのですか。 岡  理論物理学者は、一つの仕事をすると、あとやらないのがむしろ原則ではないでしょうか。幾幕かの理論物理という劇で、個々の理論物理学者は一つのシーンを受持っている。その後はもうやらない。そんな気がします。 小林  ある幕に登場するわけですね。 岡  数学者はそうではない。その人のなかに数学の全体というものをもっている。自分の分野はしまいまでやります。物理学者とは違うのです。 小林  はああ、それは面白い御意見です。すると、岡さんの若いときに発見なさった理論は、一貫して続いているわけですね。 岡  そうです。 (中略) 岡  その当時出てきていた主要な問題をだいたい解決してしまって、次にはどういうことを目標にやっていくかという、いまはその時期にさしかかっている。次の主問題となるものをつくっていこうとしているわけです。 小林  今度は問題を出すほうですね。 岡  出すほうです。立場が変るのです。中心になる問題がまだできていないというむつかしさがあるのです。 (68-69頁)

小林秀雄,岡潔『人間の建設』新潮文庫

 昨夕届き、今日の午前中には読み終えた。その後拾い読みした。  小林秀雄と岡潔による高級な「対話編」である。話題は多岐におよぶが、両氏がうなずき合っているところがおもしろい。  岡潔の日本を日本人を思う気持ちは深刻である。それは小林秀雄に、 「あなた、そんなに日本主義ですか」(139頁) と言わしめるほどである。岡潔の憂いは、故国日本の再評価と表裏をなすものである。  以下、再掲である。 『対話・人間の建設』  河上徹太郎『わが小林秀雄』昭和出版   「こんなにうまの合つた、ほのぼのと暖い(小林秀雄と岡潔の)対談は、当今どんな誌上にも見当らない。聞けばこの初対面の二人が、延々十一時間しやべり続けて、一度も中座しなかつたさうである。  私の読後感を一言でいへば、これを読んで非常に安心した、気持が落着いた、といふことである。つまり今の時節に誰かがいはねばならぬ一番大切なことを、はつきりと、声を大きくしていひ切つてくれたといふ同感の念である。」(193頁) と、河上徹太郎は述べ、そしてそれは下記に続く。 「学問は苦しんで、そして自分で発見するものである。さういつたことを、例へば小林君は評論を書く時言葉 を発見する上で苦労し、岡さんは函数理論を築いてゆく上で苦労してきた。この苦労の打明け話がたまたま二人の共鳴を呼び、話に花を咲かせたのである。  だから二人共全然理論を弄ばない、実感だけで語つてゐる。それも専ら体験的な苦労による実感だから、重厚であつて、重なり合ふと狂ひがない 」(194頁) 下記、岡潔「『春宵十話』角川ソフィア文庫_まとめて」です。 ◇ 岡潔「一つ季節を廻してやろう、という岡潔の気宇壮大」 ◇ 岡潔「情緒、その人の中心をなすもの」 ◇ 岡潔「数学に最も近い職業は百姓だといえる」 ◇ 岡潔「たちまちのうちに解るとき」 ◇ 岡潔「すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎる方がよい」

岡 潔『春宵十話』_まとめて

岡 潔『春宵十話』角川ソフィア文庫_まとめて ◇ 岡潔「一つ季節を廻してやろう、という岡潔の気宇壮大」 ◇ 岡潔「情緒、その人の中心をなすもの」 ◇ 岡潔「数学に最も近い職業は百姓だといえる」 ◇ 岡潔「たちまちのうちに解るとき」 ◇ 岡潔「すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎる方がよい」

河上徹太郎「小林秀雄『考へるヒント』について」

『考へるヒント』  河上徹太郎『わが小林秀雄』昭和出版  「文学を理解するには、ただ読んだだけでは駄目で、実は眺めるのが大事なのだ」といひだす。これは、一見文学の純粋性を否定してゐる言葉に見えるが、実は逆にそれを確立するために、文学では文章の意味を辿るだけでなく、その「形」を見なければならぬといふことをいつてゐるのだ。これは小林が戦後の或る時期に、殆んど文学を捨てて美術や音楽に接して得た経験から出てゐるのである。  この論理を推してゆくと、次の「言葉」といふ章の書き出しの「本居宣長に、姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ、といふ言葉がある」といふ逆説に通じる。この「姿」とは文体の意である。(187頁)  この中の「ヒットラーと悪魔」を書いたのは小林がソヴェットを見る前である。 (中略) それは非情が得難い政治的才能になる現代の社会情勢の分析である。 (中略) それはその背後に「プラトンの『国家』の章の中にある、社会は一匹の巨獣であるといふソクラテスの思想が眼を光らせてゐるからである。  私は戦争中、小林が好んでアランを耽読してゐたのを見てゐる。アランはソクラテスの反ソフィスト精神の直系であり、それが根強く小林に伝はつてゐるのである。(188-189頁) 白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫 おそらく小林(秀雄)さんも、陶器に開眼することによって、同じ経験(沈黙している陶器の力強さと、よけいなことを何一つ思わせないしっかりした形を知ったこと)をしたのであって、それまで文学一辺倒であった作品が、はるかに広い視野を持つようになり、自由な表現が可能になったように思う。小林さんが文章を扱う手つきには、たとえば陶器の職人が土をこねるような気合いがあり、次第に形がととのって行く「景色」が手にとるようにわかる。文章を書くのには、「頭が三分、運動神経が七分」と言い切っていたが、それも陶器から覚えた技術、というより生きかたではなかったであろうか。(57-58頁) 以下、ご参考まで。 青山二郎「意味も、精神も、すべて形に現れる」

河上徹太郎「如水の交わり」

「小林と私」  河上徹太郎『わが小林秀雄』昭和出版   彼とのつき合ひも中学上級以来からだから随分古い。古い点ではお互に最古参だらう。文壇では二人を親友の部類にいれてゐる。いはれて不服はないが、然し考へて見ると、深入りしてつき合った時期は先づない。(61-62頁) 遊びに来て一言も口をきかないで、それでつき合ひの目的を達して別れた覚えもある。「君子の交り淡々として水の如し」といふのはこのことなのだらうか?(61-62頁)  私は新潮社版の小林秀雄全集(一九五五〜五七年)の全巻解説を書いてゐるが、やつて見るとかういふ仕事は今までの友情の総決算みたいで、楽しいものである。(63頁)

河上徹太郎「岡倉天心_まとめて」

「岡倉天心」 河上徹太郎 『日本のアウトサイダー』中公文庫 ◇ 河上徹太郎「岡倉天心_意識的なルネッサンス運動家」 ◇ 河上徹太郎「岡倉天心_その実行家の精神」 ◇ 河上徹太郎「岡倉天心_美、この繊細なるもの」

河上徹太郎「岡倉天心_その実行家の精神」

「岡倉天心」 河上徹太郎 『日本のアウトサイダー』中公文庫  天心は思想家ではない。自分の幻想(ヴイジョン)を追う人 ー これが私のアウトサイダーの定義だ、 ー である。ただそれが美術という無償の世界を舞台とし、しかもそれが自ら筆をとることなく、プロデューサーの形で行われたために、彼の正体が「科学者」の手で捕え難く、代りに彼の現行の一部が政治的色彩をあてがって証拠物件に取上げられるのである。 然し思えば明治という実利主義万能の時代に、彼程非実利的なものを現実社会の最上層部に持ち込んで成功した人はなく、その点奇跡的な存在である。彼の人物の評価は、先ずそれを手がかりにして始めるべきではないだろうか?(163頁) 彼の非政治的な野望は当時新政府と結託した方が実現の可能性が多かったのである。天心が明治初期の美術官僚を動かして美術学校を建てたのも、そこを失脚した後ボストンの富豪ビゲローの寄附金で日本美術院を創立したのも、彼にとって変りはないのである。 勿論当時政府の強権主義に対し、一方に自由民権を旗印とする進歩的在野精神はあった。然しこれと直接結ばないことは、彼の在野精神と関りないのである。天心は自分の理想を実現するに当時として最も可能性のある側の力を借りたのである。政治力はただ彼の方で利用したのであって、それによって彼に何の妥協もなく、そこから彼の保守性を抽き出すのは、今日の人間が今日の尺度で既往を計っているに過ぎない。(140-141頁) 狩野芳崖と橋本雅邦が維新以来陋巷に逼塞して僅か手内職のような賃仕事で口を糊していた時、「毛頭なんかにゃ会わねえ」といって閉ざしていた門を叩いて出廬を促したのは、仏法を畏れて開扉を拒む寺僧を尻目に、夢殿の千古の秘仏を白日の下に曝したのと、意図まで同じフェノロサと天心の手口であった。芳崖と雅邦とがその儘の腕でわが近代的美術学校の祖にならねばならぬように、夢殿観音はやがて一群の同族と共に百貨店の陳列ケースに列ばねばならぬ運命の第一歩が始まったのだ。では天心は、それを自分の手柄として誇ったろうか? 或いは又、已むを得ぬ運命と悲しみつつ手を下したのだろうか? こういう疑問は、そもそも天心の評価を誤る手初めである。それを質したくなるのは我等近代人の病弊であって、天心はもっと素朴で線の太いロマンティストである。彼はわが明治の

TWEET「台風12号接近中につき」

 台風12号が接近中です。いまから三時間後の深夜 0:00 時頃がピークかと思われます。迷走しています。予報によれば、20m/s を越える暴風が吹くことが予想されます。  嵐の前の静けさの中にいます。寝て、知らんふりしてやり過ごすことにします。  0:30です。東からたたきつける暴風雨にさらされ、二階は間断なく揺れています。目が覚め一時間ちかくが経ちました。風が猛威をふるっています。なんとかもち堪えています。遠くで消防車のサイレンが聞こえます。何ごともないことを祈るばかりです。  夜が明け、つい今しがた自宅の周囲を一周してきました。何ごともなく、安心しました。白雲の外縁が陽光に照らされ、きれいです。蝉時雨の中にいます。

河上徹太郎「岡倉天心_意識的なルネッサンス運動家」

「岡倉天心」 河上徹太郎 『日本のアウトサイダー』中公文庫 天心は明治期を通じての大ロマンティストであった。されば彼を大いにロマンティックに扱おう。これが彼のような状態にある人物を知る正しい道である。(139頁)   鑑賞眼は天性のもので、何もいうことはない。ただ天心は仕事が美術畑に運命づけられ、維新以後の文化の荒廃で美術界が全く沈滞萎靡しているのを見て、これを再興するにわが古美術の伝統に着眼したところに、認識の正しさと共に、その気宇の壮大、ロマンティシズムがあるのだ。丁度牧野(伸顕)氏が日本にない鉄道を敷くために鉄道のイロハを勉強したように、天心は日本に途絶えた美術を興すために、わが国民の美意識の源泉にこれを求めたのである。そのため時の文人画派と新興の洋画派を敵とすることになるのだが、前者の退廃を卻けたことは道理があるとしても、後者の文明開化性を押えたのは、彼の眼が昏かったからではない。いわば彼は新しいものを求めて古美術の道へ踏み込んだのだ。これが天心の進歩性である。そしてここに彼が眼先の時流を追わず、易きにつかぬ在野性、或いはアウトサイダーとしての真面目があるのだ。(149-150頁)  では「天心の理想」は何であったろうか? 彼が美校や図画教育の理想にわが古美術を置いたことは確かに正しかった。彼が文人画は固より四条派よりも狩野派を宗としたのはわが美術の健康さを求めたからで、それは意識的なルネッサンス運動である。 (中略) その動機が何であったにしろ、何のハンディキャップなしに世界を舞台に自分の信ずる美の体系を表現し得たことは、彼にとって最上の無償の喜びだったに違いない。(152-153頁)

河上徹太郎「岡倉天心_美、この繊細なるもの」

「岡倉天心」 河上徹太郎 『日本のアウトサイダー』中公文庫  最後に天心の言葉で私の出会った最も美しい一節を紹介する。これは一九〇五年アメリカでの講演原稿の中にあり、美というものが如何に触れれば消えるように繊細なものであるか、又それを敢て手にしようとする人間の罪業のかなしさを述べたもので、この繊細さがあるが故に、彼の豪放な性格がそのまま打ち出せたのである。  マーテルリンクはもし花に羽翼があつたなら、人が近寄れば飛び去るであらうと言つた。私はもし花が花を培養するものゝ残虐から逃れようとしたとて之を咎めぬつもりである。思想の花たる美術は羽翼を持たぬ。根は人生に根ざしてゐる。美術が一時の賞玩の為に如何に摘まれ苅られ、小器の中に無理に押し込まれたかを思ふとき、私は苦しい。宋のの詩人、蘇東坡は「人は花を着くる事を恥ぢず。されど花の身には如何。」と言った。若し仏家の前世因果の説が真ならば、花は如何なる罪業を犯して来たのであらう。願くば画家の為に次の世の生れ変りのよからん事を祈る。(『日本的見地より見たる現代美術』)  一読してやはり天心は夢殿観音を発いたことに一抹のうしろめたさを感じているに違いない。とにかくこの言葉は、天心がわが儘だった一生のすべてを顧み、詫び且つ誇った辞世のようである。(170頁)

小林秀雄,岡潔「『わかる』ことと『苦労する』こと」

 昨日には、午前中 3時間、午後 3時間の夏期講習。そして夜には、 2.5時間の中二生の通常授業の、計 8.5時間の授業をしました。内容は、子どもたちが自習できるほどのものばかりです。 「『わかる』ということと『苦労する』ということは同じ意味なんです」 (『小林秀雄講演 第3巻―本居宣長』新潮CD) と申し添えておきました。が、蛙の面に小便といったところでしょう。  懸念の 河上 徹太郎 「岡倉天心」(『日本のアウトサイダー』中公文庫)を再読し、また  河上徹太郎『わが小林秀雄』昭和出版 を読みはじめた。両書とも愉快な本である。 『対話・人間の建設』  河上徹太郎『わが小林秀雄』昭和出版   「こんなにうまの合つた、ほのぼのと暖い(小林秀雄と岡潔の)対談は、当今どんな誌上にも見当らない。聞けばこの初対面の二人が、延々十一時間しやべり続けて、一度も中座しなかつたさうである。  私の読後感を一言でいへば、これを読んで非常に安心した、気持が落着いた、といふことである。つまり今の時節に誰かがいはねばならぬ一番大切なことを、はつきりと、声を大きくしていひ切つてくれたといふ同感の念である。」(193頁) と、河上徹太郎は述べ、そしてそれは下記のように続く。 「学問は苦しんで、そして自分で発見するものである。さういつたことを、例へば小林君は評論を書く時言葉 を発見する上で苦労し、岡さんは函数理論を築いてゆく上で苦労してきた。この苦労の打明け話がたまたま二人の共鳴を呼び、話に花を咲かせたのである。  だから二人共全然理論を弄ばない、実感だけで語つてゐる。それも専ら体験的な苦労による実感だから、重厚であつて、重なり合ふと狂ひがない 」(194頁)  小林秀雄,岡潔 『人間の建設』新潮文庫 を見失った。カバーだけが書棚にあり、本体は見当たらず、もぬけの殻である。これ以上探すのも面倒で、Amazon に注文した。 以下、岡潔『春宵十話』角川ソフィア文庫 より、 ◇ 岡潔「一つ季節を廻してやろう、という岡潔の気宇壮大」 ◇ 岡潔「情緒、その人の中心をなすもの」 ◇ 岡潔「数学に最も近い職業は百姓だといえる」 ◇ 岡潔「たちまちのうちに解るとき」 ◇ 岡潔「すべて成熟は早すぎるよりも遅すぎる方がよい」 です。

「拝復 P教授様_突然の幕切れです」

おはようございます。  総体予選の結果が出そろい、中三生最後の夏が終わりました。そして、急遽 昨夜から夏期講習をはじめました。夏の読書週間の突然の幕切れです。今後の細々とした読書は頼りなく、ブログも一変し、非情です。無情です。怨めしく思っております。  今どきの子どもたちを、受験生に仕立て上げるためには、塾に缶詰めにするしか方法はありません。一切を抱えることになります。「夏のボランティア活動」です。いま流行りの「個人指導塾」のはるかに上をいっています。馬鹿げた話です。  子どもたちのご都合次第の夏期講習です。休みの日も多く、合間合間をぬって、読書また作文にと、励みます。 たびたびのお便り、どうもありがとうございました。 台風接近中につき、くれぐれもご用心ください。 FROM HONDA WITH LOVE.

「暑気払いに_小林秀雄の遺作『正宗白鳥の作について』を読む_まとめて」

「暑気払いに_小林秀雄の遺作『正宗白鳥の作について』を読む_まとめて」 ◇ 「暑気払いに_小林秀雄の遺作『正宗白鳥の作について』を読んで」 ◇  小林秀雄「評家の悪癖を重ねる」 ◇ 「暑気払いに_小林秀雄の遺作『正宗白鳥の作について』を読む」 ◇ 「小林秀雄の文章作法_はじめに、漱石の『則天去私』より」 ◇ 「小林秀雄の文章作法_『正宗白鳥の作について』」 ◇ 「小林秀雄『正宗白鳥の作について』より_人物編(前編)」 ◇ 「小林秀雄『正宗白鳥の作について』より_人物編(中編)」 ◇ 「小林秀雄『正宗白鳥の作について』より_人物編(後編)」

「小林秀雄『正宗白鳥の作について』より_人物編(後編)」

「正宗白鳥の作について」 『小林秀雄全作品 別巻2 感想 下』新潮社  「正宗白鳥の作について」は、小林秀雄 最晩年の作品であり、(未完)のままに完結した。以下では、当書にみられる「人物評」について記してみることにする。  題名に示したように、「『正宗白鳥の作について』より」の「人物評」であり、それらは必ずしも、小林秀雄自身の手になる「人物評」とは限らない。なお、出自は明記する。 ◇ 岡倉天心、内村鑑三、河上肇(河上徹太郎『日本のアウトサイダー』)  河上君に言わせれば、文芸批評を事としていて、何故文学者でもないこれら三人の人物を取り上げたくなったかというと、三人の著作を仔細(しさい)に見て行くと、彼等が「同時代の文学者がなすべき重要な役割を、それぞれの分野に於て果している」のが、 はっきりして来るからだ。三人とも欧米文化の到来によって触発された近代人としての人間的な眼覚めを、力一杯告白した人達だ。当然これは文学者が携わるべき仕事と言っていいのだが、果たして文壇の主流には、この三人のように積極的にこの課題に取組む意欲があったかどうか。また、例えば経済学者河上肇の「獄中記」を、自然主義系の左翼文学として第一流の作と率直に認める見識が、今日の文芸批評家にあるかどうか。これは甚(はなは)だ疑問であるとして、河上君はこの疑問の出所を確かめた、これら明治大正の文化的エリートの著作を見ていると、其処に「わが文学の本質的な在り方が旧幕以来のそれと同じものである」のが感じられて来ると言う。(237頁 ) 「私はここで価値の上下を論じているのではない。人生観の広さ、つまり全人性の点で、昔も今も文は儒に及ばないという実情を指摘したいのである」 (河上徹太郎評 237頁  )  明治の文明開化の風潮に乗り、眼を外に向ける事によって多忙になった世人は、眼を内に向けなければ出会えない、此のような「実情」にはどうしても無関心になる。そこで河上君の言い方で言えば、オーソドクスな仕事をやり乍(なが)ら、と言うよりも、むしろやったが為に、同時代のわが文化圏の中でアウトサイダーの立場に立たざるを得なかった人も当然現れた。 (237頁 )  天心も鑑三も肇も、揃ってしっかりした儒教的教養を身につけていた。これを言う場合、河上君は、儒教的教養が、三人を人格的に骨格附けてい

「小林秀雄『正宗白鳥の作について』より_人物編(中編)」

「正宗白鳥の作について」 『小林秀雄全作品 別巻2 感想 下』新潮社  「正宗白鳥の作について」は、小林秀雄 最晩年の作品であり、(未完)のままに完結した。以下では、当書にみられる「人物評」について記してみることにする。  題名に示したように、「『正宗白鳥の作について』より」の「人物評」であり、それらは必ずしも、小林秀雄自身の手になる「人物評」とは限らない。なお、出自は明記する。 ◇ 内村鑑三  (正宗白鳥)「自然主義文学盛衰史」が成った翌年、長篇 「 内村鑑三」が書かれた。(216頁)  小林秀雄は、内村鑑三においてもまた、藤村の「人間の形を帯びた艱難」をもち出す。  「自然主義文学盛衰史」で、藤村の「家」を解説し、正宗氏は活きることの艱難(かんなん)が人間のように形を帯びて、藤村を待伏する光景を詳説した事は、既記の通りであるが、内村鑑三論の場合でも、論者の眼に映じたものは同じ情景であり、人間の姿をした艱難にどうあっても交わらねばならなかった内村の苦しい心事に、論者は深く入り込むのである。(224頁)  そして、小林秀雄は、内村鑑三『基督信徒の慰』の冒頭の「断り書き」を引く。  「心に慰めを要する苦痛あるなく、身に艱難の迫るなく、平易安逸に世を渡る人」は、この書を読んでも得るところは無かろうと。(226頁)  「此の書(内村鑑三『代表的日本人』)は、現在の余を示すものではない。これは現在基督信徒たる余自身の接木(つぎき)せられている砧木(だいぎ,台木)の幹を示すものである」と。  「砧木の幹」とは、母国語と不即不離の関係にある、 日本文化という身に纏った服は脱ぐことはできないということであり、基督信徒としての信仰は、いわば 「 砧木の幹」に「接木」をしたようなものである、というほどの意である。 ー 「余は、基督教外国宣教師より、何が宗教なりやを学ばなかった。すでに、日蓮、法然(ほうねん)、蓮如(れんにょ)、其他敬虔(けいけん)なる尊敬すべき人々が、余の先輩と余とに宗教の本質を知らしめたのである」と。  孤立を強いられた意識の裡に、手に入れた結論が反響し、その共鳴の運動が、内村自身も驚くほど鮮明に、 「 砧木の幹」の美しさを描き出してみせた。この作が名作たる所以を言うのに、そういう言い方をしてもいいように

「小林秀雄『正宗白鳥の作について』より_人物編(前編)」

「正宗白鳥の作について」 『小林秀雄全作品 別巻2 感想 下』新潮社  「正宗白鳥の作について」は、小林秀雄 最晩年の作品であり、(未完)のままに完結した。以下では、当書にみられる「人物評」について記してみることにする。  題名に示したように、「『正宗白鳥の作について』より」の「人物評」であり、それらは小林秀雄自身の手になる「人物評」とは限らない。なお、出自は明記する。 ◇ 正宗白鳥 人間は如何に評価されようとも、竟(つい)に憐(あわ)れな人間である事に甲乙はないという信念を生涯動かさなかった正宗氏は、(後略)(小林秀雄評 219頁)  まさしくこの作(正宗白鳥「自然主義文学盛衰史」)は「腹の底まで打解けて話の出来るような相手」は、自分自身しかなくなって了(しま)った人間の綿々たる誠心の記述であって、反省好きが行う自問自答という知的遊戯の如きものではない。その内容は、ただ独り世に残された者の悲しみで充填(じゅうてん)され、その個性的悲しみの中で、自然主義文学の盛衰が、何の成心(せいしん:したごころ)もなく語られる。この無私は、実証主義とか客観主義とかを標榜(ひょうぼう)している者の隠し持った心の空(むな)しさとは何の係わりもない。己の天与の個性を信ずれば足りる詩人の曇りない眼の働きを想えばよかろうか。それが、自然主義者と呼ばれた人間の表情を捕え、その心を見抜く、そういうことが行われたのである。この詩人(正宗白鳥)は、「私の自然主義文学回顧は、藤村を中心として回転しつづけ 」たと述懐したが、その意味は、一世を風靡 (ふうび )した自然主義文学の全体的展望も亦(また)、身近かに親しく見ている藤村という一個人の文筆稼業と全く同様に、その辛い苦しい内心を打ち明けてくれたという事だと見ていい。(小林秀雄評 206-207頁) ◇ 島崎藤村 正宗氏は、絶えず人生行路の艱難(かんなん)を書く藤村を「艱難の化身」と呼んでいるが、 ー「その間幾多の艱難を通り越した。ある時は死んでも足りないと思われる程、心の暗い時すらあった。僅(わず)かに夜が明けたかと思う頃は、辛酸を共にした母が亡くなった。 (中略 ) あちら向いてもこちら向いても、艱難が人間の形を帯びて待伏せしているのである。」(正宗白鳥評 202頁) 正宗氏の語法を借りれば、何故「自然主義文学

「一日遅れの大暑の日に果つ」

 五月雨降り続く季節には、すべてが朽ち果てそうな思いを抱き、この酷暑には、すべては劣化するとの思いにかられています。いずれも、いずれも帰するところは「無」です。鉾先を転ずることは望めませんが、せめて鉾先が鈍ることを願っています。  どこもかしこも熱気をはらんでポカポカです。春のぽかぽか陽気とはわけが違います。容赦なく照りつける太陽を怨めしく思っています。

「小林秀雄の文章作法_『正宗白鳥の作について』より」

「正宗白鳥の作について」 『小林秀雄全作品 別巻2 感想 下』新潮社  「正宗白鳥の作について」は、小林秀雄 最晩年の作品であり、(未完)のままに完結した。以下では、当書にみられる小林秀雄の「文章作法」について記してみることにする。 ◇ 正宗白鳥編 確かに、正宗さんの晩年の文章は、皆、まるで他人事(ひとごと)のように書き流されている。推敲(すいこう)はおろか、読み返されてもいまい。それにもかかわらず、いや、それ故(ゆえ)にと言った方がいいかも知れないが、素気なく理屈っぽい感想文のスタイルは、驚くほどの純度に達していると思われる。ともあれ、そういう名文として、今は、しっかり受取っている。今度、久し振りに読み返して感慨を新たにしたのも、正宗氏の文章は、実に裸であるという事であった。 (中略) ボオドレエルに倣(なら)って「我が裸の心」と呼んでいいようなその文体の趣(おもむき)であった。(192頁) ◇ 内村鑑三編 (内村鑑三の)極度に簡潔な筆致は、極度の感情が籠(こ)められて生動し、読む者にはその場の情景が彷彿(ほうふつ)として来るのである。(230頁) (内村鑑三『代表的日本人』に)描かれた人間像は、西郷隆盛に始まり、上杉鷹山(ようざん)、二宮尊徳、中江藤樹(とうじゅ)とつづき、これを締(し)め括(くく)る日蓮上人(しょうにん)が、一番力を入れて描かれているが、装飾的修辞を拭(ぬぐ)い去ったその明晰(めいせき)な手法は、色彩の惑わしを逃れようとして、線の発明に達した優れた画家のデッサンを、極めて自然に類推させる。これらの人々の歴史上の行跡の本質的な意味と信じたところを、このように簡潔に描いてみせた人はなかった。これからもあるまい。(233頁) 読者は、曖昧な感傷性など全く交えぬ透明な確固たる同じ内村の悦びに出会うのである。(233頁) ◇ 河上徹太郎(君)編 河上徹太郎君が、「日本のアウトサイダー」と題して、岡倉天心、内村鑑三、河上肇の三人を列伝風に書いた事がある(昭和三十四年)。 (中略) 何を措(お)いても、先ず私の心を捕えたのは、三人の人物像のいかにも鮮明な姿であった。其処(そこ)には、河上君が、内村(鑑三)の言葉に倣(なら)い、自分の試みるところは「他なし、この三人の明確なる人格の明確なる紹介なり」と言

「小林秀雄の文章作法_はじめに、漱石の『則天去私』より」

漱石の「則天去私」  学生時代、 「雨が降ったら雨が降ったと書けばいい。余計な形容をするから文章が駄目になる」 と、漱石先生は仰られているとのお話をうかがいました。  「『則天去私』は生き方の問題ではなく、文章を書くための作法である」との解釈もおうかがいいたしました。  早稲田大学の清水茂先生の日本近代文学の講義でのことです。

「暑気払いに_小林秀雄の遺作『正宗白鳥の作について』を読んで」

「正宗白鳥の作について」 『小林秀雄全作品 別巻2 感想 下』新潮社  「正宗白鳥」と、その「作」中の「島崎藤村」,「内村鑑三」。「河上徹太郎(君)」と彼が愛読したイギリスの伝記作家「リットン・ストレイチイ」、また彼の描いた『ヴィクトリア女王』。「フロイト」。そして、「ニーチェ」を挿んで「ユング」に至り、当書は、(未完)のままに完結した。  以上が、主だった登場人物である。表題に掲げた「正宗白鳥の作」を容易に乗り越え、小林秀雄の筆は自由闊達、融通無碍である。 (内村鑑三の)極度に簡潔な筆致は、極度の感情が籠(こ)められて生動し、読む者にはその場の情景が彷彿(ほうふつ)として来るのである。(230頁) (内村鑑三『代表的日本人』に)描かれた人間像は、西郷隆盛に始まり、上杉鷹山(ようざん)、二宮尊徳、中江藤樹(とうじゅ)とつづき、これを締(し)め括(くく)る日蓮上人(しょうにん)が、一番力を入れて描かれているが、装飾的修辞を拭(ぬぐ)い去ったその明晰(めいせき)な手法は、色彩の惑わしを逃れようとして、線の発明に達した優れた画家のデッサンを、極めて自然に類推させる。これらの人々の歴史上の行跡の本質的な意味と信じたところを、このように簡潔に描いてみせた人はなかった。これからもあるまい。(233頁) 読者は、曖昧な感傷性など全く交えぬ透明な確固たる同じ内村の悦びに出会うのである。(233頁)  テーマはいくつかあるが、次回は、小林秀雄による「文章作法」について書くことにする。いま一番の関心事である。

小林秀雄「評家の悪癖を重ねる」

「正宗白鳥の作について」 『小林秀雄全作品 別巻2 感想 下』新潮社 この文章は、講演の速記を土台として作ったものであるから、引用が多くなる。だが、引用文はすべて私が熟読し沈黙したものである事に留意されたい。批評は原文を熟読し沈黙するに極まる。作品が優秀でさえあれば、必ずそうなる。近頃はそればかり思うようになった。そう言っただけで、批評で苦労した人には通ずると思うようになった。批評しようとする意識が、原文の熟読を妨げるという評家の悪癖を、あんまり重ねて来たせいであろうか。(189-190頁)  「正宗白鳥の作について」は、小林秀雄 最晩年の作品であり、(未完)で終わっている。  小林秀雄が最晩年に「熟読し沈黙した」引用文にも関わらず、先を急ぐあまり私は速く読んでいる。初学者の悪癖、誤りを繰り返している。再読を約しているから、という甘えもある。  近日中に、「暑気払いに_小林秀雄の遺作『正宗白鳥の作について』を読んで」を書く予定でいる。

「前略 H君へ_縄文人さながらです」

暑中お見舞い申し上げます。 県内では、今日から一斉に夏休みです。総体予選の結果が出そろうのを待って、夏期講習です。高校受験に際し、中学生のお子さま方は、なす術もなくお手上げ状態で、塾に軟禁し、受験勉強の一切をまるごと抱えることになります。お子さまたちには、なにを話しても理解できず、見せ場のない授業ばかりを強いられることになります。語数 500〜600(うろ覚えの数字です。出典は、大野晋のいずれかの著書だと思われます。現在探索中です) といわれている縄文人さながらです。とても日本人とは思えない強者たち です。 先へ先へと急ぐことなく、今までの復習の時間がもてるといいですね。 頑張っている Hに、僕はこれ以上のかける言葉をもちあわせていません。 TAKE IT EASY! GOOD LUCK! とだけ、記しておきます。 暑さ厳しき折、くれぐれもご自愛ください。 FROM HONDA WITH LOVE. 追伸:もちろんご返信ご不要です。また、ご心配ご無用です。

「暑気払いに_小林秀雄の遺作『正宗白鳥の作について』を読む」

 明日から夏休みです。予定は未定ですが、夏期講習がはじまれば生活が一変することは明らかで、私の読み書きは壊滅的な打撃を受けることは必至です。この夏の読書週間も最終盤を迎え、井筒俊彦は一度切りにし、昨日から小林秀雄を読みはじめました。 ◇「ゴッホの病気」(『小林秀雄全作品 22 近代絵画』新潮社) を読み、いま、 ◇「正宗白鳥の作について」(『小林秀雄全作品 別巻2 感想 下』新潮社) を読んでいます。「正宗白鳥の作について」は、小林秀雄 最晩年の作品であり、(未完)で終わっています。  「ゴッホの病気」読んでいる最中には、文末表現に違和感をおぼえることがままありました。はじめてのことです。それは、井筒俊彦の哲学の文章ばかりを読んでいた後遺症なのか、それとも小林秀雄の文章に起因するものなのか、定かではなく混乱しています。「正宗白鳥の作について」は、いっこうに平気です。 ◇『小林秀雄講演 第7巻―ゴッホについて/正宗白鳥の精神(新潮CD 講演 小林秀雄講演 第 7巻)』 の行方も気になっています。小林秀雄最後の講演です。  以上、「夏の終わりに_小林秀雄の遺作『正宗白鳥の作について』を読む」、告知編でした。

井筒俊彦「『意味分節理論と空海 ー 真言密教の言語的可能性を探る』_はじめから」

「意味分節理論と空海 ー 真言密教の言語的可能性を探る」 『井筒俊彦全集 第八巻 意味の深みへ 1983年-1985年』 慶應義塾大学出版会   つい今しがた、「 意味分節理論と空海 ー 真言密教の言語的可能性を探る」 を読み終えた。  本論は、 空海の「真言密教」と ファズル・ッ・ラーのイスラーム的「文字神秘主義」、そしてカッバーラー(ユダヤ教神秘主義)とを対照するなかで、「言語哲学」的、また「深層的 言語哲学」的に、「ともにきわめて特徴ある同一の思考パターンに属」(414-415頁)することを確認しながら展開され、東洋哲学の「共時的構造化」の一例を披歴するものとなっている。  副題に「 真言密教の言語的可能性を探る」とあるとおり、井筒俊彦の眼は本稿でもまた未来に向けられている。実学としての哲学である。   ◇以下、その経緯(いきさつ)です。 「去る年(一九八四年)の十月二十六日、秋色深まる高野山で、第十七回日本密教学大会のためにおこなった特別講演、「言語哲学としての真言」の論旨を、本稿は、論文体に書き移したものである。講演そのものは、その場で録音・速記されたままの形で、近く『密教学研究』誌に発表される予定である。 (中略) 今回の書き直しを機に、いろいろ訂正したり付加したりしてはみたものの、なんといっても、もともと実際に聴衆に語りかけたものであり、また始めからそのようなものとして準備されたものであるから、後でそれを論文的叙述形式に移しても、やはりどうしても、口頭コミュニケーションの原形が、内容だけでなく、発想それ自体を全体的に支配することになってしまう。私はそれをことさらに避けようとはしなかった。そのために、哲学論文としては、文体的に、いささか密度の低いものになるであろうことは、もとより承知の上で。」(529-530頁)  井筒俊彦は、「存在はコトバである」と措定した。「言語哲学者」としての空海の内に、井筒は同様のものを認めた。空海は、日本で最初の「深層的言語哲学者」だった。  なお、「井筒俊彦の風景」としての「空海の風景」とは、「言語に関する真言密教の中核思想を、密教的色づけはもちろん、一切の宗教的枠づけから取り外し」、「一つの純粋に哲学的な、あるいは存在論的な立場」( 『井筒俊彦全集 第八巻 意味の深みへ 198

井筒俊彦「『言語哲学としての真言』_はじめから」

「言語哲学としての真言」 『井筒俊彦全集 第八巻 意味の深みへ 1983年-1985年』 慶應義塾大学出版会  つい今しがた、「言語哲学としての真言」を読み終えました。  以下、その経緯(いきさつ)です。 「一九八四年十月二十六日と二十七日、日本密教学会の第十七回学術大会が高野山金剛峯寺宗務所で開催され、井筒は、二十六日の午後三時半から五時まで、一時間半にわたるこの特別講演を行なった。 (中略)  講演の「論旨を……論文体に書き移したもの」は、「意味分節理論と空海 ー 真言密教の言語的可能性を探る」(中略)として『思想』第七二八号(一九八五年二月)に発表された。一方、「言語哲学としての真言」は、「その場で録音、速記されたままの形」ということになる。」(530頁) ◇ 井筒俊彦『井筒俊彦全集 第八巻 意味の深みへ』慶應義塾大学出版会 ◆「言語哲学としての真言」 は、 ◆「意味分節理論と空海 ー 真言密教の言語的可能性を探る」 と比較し、洗練された内容のものとなっている。  天籟(てんらい)、人間の耳にこそ聞えないけれども、ある不思議な声が、声ならざる声、音なき声が、虚空を吹き渡り、宇宙を貫流している。この宇宙的声、あるいは宇宙的コトバのエネルギーは、確かに生き生きと躍動してそこにあるのに、それが人間の耳には聞こえない、ということは、私が最初にお話しいたしました分節理論の考え方で申しますと、それが絶対無分節の境位におけるコトバであるからです。絶対無分節、つまり、まだ、どこにも分かれ目が全然ついていないコトバは、それ自体ではコトバとして認知されません。ただ巨大な言語生成の原エネルギーとして認知されるだけです。しかし、この絶対無分節のコトバは、時々刻々に自己分節して、いわゆる自然界のあらゆる事物の声として自己顕現し、さらにこの意味分節過程の末端的領域において、人間の声、人間のコトバとなるのであります。  このように自己分節を重ねつつ、われわれの耳に聞える万物の声となり、人間のコトバとなっていく宇宙的声、宇宙的コトバそれ自体は、当然、コトバ以前のコトバ、究極的絶対言語、として覚知されるはずでありまして、こうして覚知されたあらゆる声、あらゆるコトバの究極的源泉、したがってまた、あらゆる存在の存在性の根源であるものを、真言密教は、大日如来、あるいは法身とし

吉田簑助『頭巾かぶって五十年 文楽に生きて』淡交社

◆ 三代目 吉田簑助『頭巾かぶって五十年 文楽に生きて』淡交社 は、P教授のこの夏の推薦図書です。昨日読み終えました。井筒俊彦から一気に様変わりしました。    文楽の世界にふれたのははじめてのことだった。  主遣い、左遣い、足遣い の三人遣い。人形は一人で操るものとばかり思っていた私は、いっぺんに難しい世界に足を踏み入れたように感じた。  以下、印象に残っている節である。 「簑助襲名」,「会者定離」,「人形の色気」,「人形遣いの知恵」,「女方の人形の型」,「情とリアリティー」,「近松の三人の女」,「文楽に生きる女たち」 と、たくさんになってしまったが、特に、 「会者定離」,「人形の色気」 が印象的だった。  「会者定離」には、吉田文五郎、桐竹紋十郎、桐竹勘十郎、との別離の場面が描かれている。今際の際に臨んでの桐竹紋十郎と簑助との人形遣い同士の無言の交感、また人形遣いとして逝った桐竹紋十郎の最期はみごとだった。  人形に命を吹きこむ、と言うのは容易(たやす)いことだが、それは大層なことである。「人形の色気」の項には、以下のような言葉がある。  基本は、人形拵(ごしら)えです。  人形遣いは、自分で遣う人形の着付けは、弟子や他人にはけっして任せません。かならず自分でします。私にかぎりません。人形遣いはだれでもそうです。  私は、女方の色気は襟足(えりあし)がポイントと思っていますから、役に応じた胸のふくらませ方や襟の合わせ方以上に、気を使っているつもりです。  襟はいずれにしろ大事で、これが思うようにまいりますと、あとは自然にそれに衣裳を添わせられます。だから、気に入るまで何回もやりなおすのは、この部分の作業です。(160頁)  文楽の人形遣いの修行そのものが、教えられるものではなく、言葉は悪いですが、勝手に盗むもので、しかも、自分の技量分だけしか盗めないものですから、段階を越えたことを教えられてもわかりません。いつかわかることもありますが、主として、自分がそこまで来た時、勝手に盗むしかありません。(162頁)  「目で殺す」のではなく、「襟足で殺す」のである。「目で殺す」以上にさりげなく、高級である。厳しい世界である。繊細優美な世界であることがうかがえる、と何や彼やと御託を並べる前に、実際に文楽を見ることが先決である

井筒俊彦「イスラームの根源的思惟形態」_そのあと先

2018/07/04 に書いた、 井筒俊彦「イスラームの根源的思惟形態」〈『イスラーム哲学の原像』_はじめから〉 の閲覧数が、「138」と多く意外な感じがしています。そのほとんどがロシア在住の方たちによるものです。依然増え続けています。なんの解答もないままに、行方を見守ります。

井筒俊彦「華厳の,ある形而上的存在風景」〈「事事無礙・理理無礙」_はじめから〉

「事事無礙・理理無礙 ー 存在解体のあと」 『井筒俊彦全集 第九巻 コスモスとアンチコスモス 一九八五年 ― 一九八九年』 慶應義塾大学出版会  この引用箇所で、(新プラトン主義の始祖)プロティノスは深い瞑想によって拓かれた非日常的意識の地平に突如として現れてくる世にも不思議な(と常識的人間の目には映る)存在風景を描き出します。「あちらでは…」と彼は語り始めます。「あちら」、ここからずっと遠いむこうの方 ー 勿論、空間的にではなく、次元的に、日常的経験の世界から遥かに遠い彼方、つまり、瞑想意識の深みに開示される存在の非日常的秩序、ということです。「あちらでは、すべてが透明で、暗い翳りはどこにもなく、遮(さえぎ)るものは何一つない。あらゆるものが互いに底の底まですっかり透き通しだ。光が光を貫流する。ひとつ一つのものが、どれも己れの内部に一切のものを包蔵しており、同時に一切のものを、他者のひとつ一つの中に見る。だから、至るところに一切があり、一切が一切であり、ひとつ一つのものが、即、一切なのであって、燦然たるその光輝は際涯を知らぬ。ここでは、小・即・大である故に、すべてのものが巨大だ。太陽がそのまますべての星々であり、ひとつ一つの星、それぞれが太陽。ものは各々自分の特異性によって判然と他から区別されておりながら(従って、それぞれが別の名をもっておりながら)、しかもすべてが互いに他のなかに映現している」  すべてのものが「透明」となり「光」と化して、経験的世界における事物特有の相互障碍性を失い、互いに他に滲透し、互いに他を映し合いながら、相入相即し渾融する。重々無尽に交錯する光に荘厳されて、燦爛と現成する世界。これこそ、まさに華厳の世界、海印三昧と呼ばれる禅定意識に現われる華厳蔵世界海そのものの光景ではないでしょうか。とにかく、華厳仏教の見地からすれば、今ここに引用したプロティノスの言葉は、「事事無礙」的事態の、正確な、そして生き生きとした描写にほかならないのでありまして、もしこの一節が『華厳経』のなかに嵌めこまれてあったとしても、少しも奇異の感を抱かせないことであろうと思います。(9-10頁)  『華厳経』が、徹頭徹尾、「光」のメタファに満たされていることは、皆様ご承知のとおりですが、先刻引用した『エンネアデス』の一節も、終始一貫して「光」のメタファの

井筒俊彦「事事無礙・理理無礙 ー 存在解体のあと_はじめから」

「事事無礙・理理無礙 ー 存在解体のあと」 『井筒俊彦全集 第九巻 コスモスとアンチコスモス 一九八五年 ― 一九八九年』 慶應義塾大学出版会  井筒俊彦は、前述の術語や鍵概念を確認しながら論を前に進める。論考であれ、講演であれそれは一貫している。読者、聴講者本位である。哲学の緻密な文章にさらに “上書き”するわけであるから、たいした手間だと思う。「読む・書く」という井筒俊彦にとっての観想体験を通して、透き通っていった最晩年には、「読む・書く」は、やはり「面倒になった」のだと思う。 下記、 「井筒俊彦の逝去に寄せて」 です。  昨日、「一 『理事無礙』から『事事無礙』へ」(3-59頁)を再読しました。初読は、2018/03/12 でした。 下記は、前掲のブログです。 「2017/01/14_今年はじめての単行本です。河合隼雄『明恵 夢を生きる』です」 河合隼雄『明恵 夢を生きる』京都松柏社  『明恵 夢を生きる』は、1987/04/25 に出版され、間もなく読みました。学生時代のことです。明恵上人をはじめて知り、井筒俊彦を知り、はじめて華厳の世界に触れました。そして、井筒俊彦『叡智の台座 ー 井筒俊彦対談集』を求めました。『明恵 夢を生きる』には、白洲正子『明恵上人』新潮社 からのいくつかの引用がありますが、白洲正子の作品に親しむようになったのは、その後数年経ってからのことです。また、その前年には、河合隼雄『宗教と科学の接点』岩波書店(1986/05/15)を読みました。  大切なことをそのままに、疎かにしてきたような気がしてなりません。手元にある本を見直します。「第七章 事事無礙」(272-298頁)を読みました。「華厳の世界」(284-290頁)の項に引かれた井筒俊彦の文章は明晰です。もう一度読み直すことからはじめます。 「二 『理理無礙』から『事事無礙』へ」(60-96頁)へと歩を進めます。

井筒俊彦「コスモスとアンチコスモス_はじめから」

「コスモスとアンチコスモス ー 東洋哲学の立場から」 「『 コスモスとアンチコスモス』後記」 『井筒俊彦全集 第九巻 コスモスとアンチコスモス 一九八五年 ― 一九八九年』 慶應義塾大学出版会  このようなコスモス(「有意味的存在秩序」)観にたいして、東洋哲学は、おそらくこう主張するだろうと思います。たしかに、「有」がどこまでも「有」であるのであれば、そういうことになるでもあろう。しかし、「有」が究極においては「無」であり、経験世界で我々の出合うすべてのものが、実は「無」を内に抱く存在者(「無」的「有」)であり、要するに絶対無分節者がそのまま意味的に分節されたものであることを我々が悟る時、そこに自由への「開け」ができる。その時、世界(コスモス的存在秩序)は、実体的の凝り固まった、動きのとれない構造体であることをやめて、無限に開け行く自由の空間となる、と。なぜなら、一々のものが、それぞれ意味の結晶であり、そして意味なるものが人間意識の深層に淵源する柔軟な存在分節の型であるとすれば、「無」を体験することによって一度体験的に解体され、そこから甦った新しい主体性 ー 一定の分節体系に縛りつけられない融通無碍な意識、「柔軟心」 ー に対応して、限りなく柔軟なコスモス(限りなく内的組み替えを許すダイナミックな秩序構造)が、おのずからそこに拓けてくるであろうから、であります。  東西の哲学的叡知を融合した形で、新しい時代の新しい多元的世界文化パラダイムを構想する必要が各方面で痛感されつつある今日の思想状況において、もし東洋哲学に果すべきなにがしかの積極的役割があるとすれば、それはまさに、東洋的「無」の哲学が、今お話したような、内的に解体されたアンチコスモス的なコスモス、「柔軟なコスモス」の成立を考えることを可能にするというところから出発する、新しい「柔軟心」の思想的展開であるのではなかろうか、と私は思います。(343-344頁)  2018/02/06 に紀伊國屋書店から届けられ、2018/03/14 に一読し、そして昨日再読した。日付をみて眼をみはった。季節が二つめぐっていた。  上記は講演の掉尾の部分である。自分の覚え書きとして引用した。説明もなく、ただこれだけを読んで解るとはとても思えないが、ご寛恕を請うことにする。  井筒俊彦は「混迷

TWEET「若さをまばゆく感じる年齢(ころ)」

 庭の柿の木がいくつかの実をつけた。5cm ほどの玉を結んだ。それは、はちきれんばかりである。伸びゆくものの生気が充溢している。充足した形姿を眺めるのは心地よい。針の先で触れれば、たちまちのうちにしぼんでしまいそうである。微妙な均衡を保っている。危うい緊張のうちにある。  柿の芽吹きは目ざましく、油断しているうちに成長する。  柿の木はとりわけ精力的なのだろうか。  若さがまばゆい。「若さとは、若者に与えるにはもったいないものである」とは、どこかで覚えた言葉である。

「井筒俊彦の存在風景を追って」〈『意識と本質』_はじめから〉

『井筒俊彦全集 第六巻 意識と本質 1980年-1981年』 慶應義塾大学出版会   だが、イスラーム自身をも含めて、東洋哲学一般の一大特徴は、認識主体としての意識を表層意識だけの一重構造としないで、深層に向って幾重にも延びる多層構造とし、深層意識のそれらの諸相を体験的に拓きながら、段階ごとに移り変っていく存在風景を追っていくというところにある。  だから、東洋哲学においては、認識とは意識と存在との複雑で多層的なからみ合いである。そして、意識と存在のこのからみ合いの構造を追求していく過程で、人はどうしても「本質」の実在性の問題に逢着せざるをえない。その実在性を肯定するにせよ否定するにせよ、である。「意識と本質」という題の下に、私はそれをテーマとしてここまで考えを進めてきた。このままもう一歩先に行けば、「本質」論は、ごく自然に、概念論に転換するはずである。だが、私が最初から自らに課した主題からいえば、概念としての「本質」論は本論の考察の射程内には入らない。東洋思想における概念構造理論は、それ自体、一つの独立した主題として優に一書をなすに足る。  とまれ、東洋哲学の根柢的部分に直接関わる事柄であるだけに、「意識と本質」というテーマは無数の問題を提起し、限りない展開の可能性をもつのだ。この辺で本論に一応の区切りをつけることにしよう。(304頁)  上記は、『意識と本質』の掉尾の文である。それは、そっ気なく終わった。井筒俊彦の一面を垣間見たような気がする。   宗教、宗派色に染まることなく、観念に転落することなく、井筒俊彦は生気に満ちた「東洋哲学」を共時的に展開した。それらは皆、井筒が、深層意識の「諸相を体験的に拓きながら」見た「存在風景」であり、そして その後、形而上学として語られたものである。井筒俊彦を介さなければ、易々とは近づけない世界である。 「私は井筒先生のお仕事を拝見しておりまして、常々、この人は二十人ぐらいの天才らが一人になっているなと存じあげていまして。」 ( 司馬遼太郎『十六の話』中公文庫, 〈対談〉井筒俊彦 司馬遼太郎「附録 二十世紀末の闇と光」 399頁) とは、司馬遼太郎のことばであるが、井筒俊彦の偉業を前にして私淑しない法はあるまい。  先にも書いたが、井筒俊彦の著作群は、私にとっては「実学」の書であり、実用の書であり、やむに止まれぬ書

「三日遅れの小暑の日に発つ」

予約しておいた、 ◇『2019年度受験用 愛知県公立高等学校 過去問』英俊社 が、2018/07/01 に届きましたが、見るのもいまいましく、知らぬ存ぜぬを押し通し、 ◇井筒俊彦 『イスラーム哲学の原像』岩波新書 を読み続け、読後、 2018/07/04 に、 井筒俊彦「イスラームの根源的思惟形態」〈『イスラーム哲学の原像』_はじめから〉 を書きました。その後、 ◇ 『井筒俊彦全集 第六巻 意識と本質 1980年-1981年』 慶應義塾大学出版会 を読み継ぎ、「Ⅺ」章 270頁まで読み進めました。考察は専ら 「ユダヤ教神秘主義、カッバーラーの『セフィーロート』」に当てられています。ここまで読んだところで、絡めとられました。  平成29(2017)年度 A,Bグループ、 平成30(2018)年度 A,Bグループ、2年間4回分の過去問を、つい今しがた解き終わりました。新入試制度の下で行われた4回分の入試問題です。時間は気にせず、気ままに解きました。 数時間を要した問題も何問かあり、また解法中にはさまざまな感慨を抱きましたが、詳細は項をあらためて書かせていただくことにします。  これで晴れて、 井筒俊彦の作品群の読書に集中することができます。しかし、それも夏期講習がはじまるまでの二週間前後の間のことです。短い夏を駆け抜けます。オマケの夏期講習です。余力で切り抜けます。

井筒俊彦「イスラームの根源的思惟形態」〈『イスラーム哲学の原像』_はじめから〉

 『イスラーム哲学の原像』岩波新書 は、イスラームの神秘主義(スーフィズム)を代表する、イブン・アラビーの実在体験と、その後の哲学的思惟によってなった、「存在一性論」的形而上学についての論考を主題としている、といってしまえば簡単だが、内容はそんなに浅薄なものではない。  本書を再読することによって、井筒俊彦の原点に回帰した。  井筒俊彦の著作群は、私にとっては実学の書である。実用の書であり、止むに止まれぬ書である。そしてその点において、井筒俊彦は、どうしようもなく福澤諭吉門下の人である。  これを機に、〈はじめから〉を再開することにする。 「イブン・アラビー」 若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会 「存在はコトバである」という井筒俊彦の一節は、彼の思想的帰結を闡明しているだけではない。自らがイブン・アラビーの血脈に連なるものであることの宣言でもある。この神秘哲学者に出会うことがなければ、井筒の思想は全く違ったかたちになっていただろう。(280頁) 井筒はイブン・アラビーをイスラームの伝統に縛りつけない。彼がいう「東洋」に向かって開かれた位置に置く。そうした認識が、現象的には交差の痕跡がないイブン・アラビーと老荘という二つの大きな東洋神秘哲学の潮流を「共時的構造化」する Sufism and Taoism の形式を選ばせたのである。また、後年、彼は、この神秘哲学者と華厳の世界、道元の時間論、プロティノス、ユダヤ神秘主義との共時的交差を論じることになる。(285頁) 「『構造』と構造主義」 若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会 絶対的超越者をイブン・アラビーは「存在(ウジュード)」と呼び、老荘は「道(タオ)」と呼んだ。文学的過ぎるとの誹りを恐れずにいうなら、この長編論考(  Sufism and Taoism  )は「存在」と「道」の叙事詩だともいえる。主役は著者である井筒俊彦でないばかりか、彼が論じた東洋哲学の先達でもない。超越的絶対者である「存在」であり「道」なのである。序文( Sufism and Taoism  )に著者自身が記しているように。試みられたのは、東洋哲学における「存在」論的構造の論究に他ならない。井筒の視座もイブン・アラビー、あるいは老荘といった人間に据えられているのではない。