吉田簑助『頭巾かぶって五十年 文楽に生きて』淡交社

◆ 三代目 吉田簑助『頭巾かぶって五十年 文楽に生きて』淡交社
は、P教授のこの夏の推薦図書です。昨日読み終えました。井筒俊彦から一気に様変わりしました。
 
 文楽の世界にふれたのははじめてのことだった。
 主遣い、左遣い、足遣い の三人遣い。人形は一人で操るものとばかり思っていた私は、いっぺんに難しい世界に足を踏み入れたように感じた。
 以下、印象に残っている節である。
「簑助襲名」,「会者定離」,「人形の色気」,「人形遣いの知恵」,「女方の人形の型」,「情とリアリティー」,「近松の三人の女」,「文楽に生きる女たち」
と、たくさんになってしまったが、特に、
「会者定離」,「人形の色気」
が印象的だった。

 「会者定離」には、吉田文五郎、桐竹紋十郎、桐竹勘十郎、との別離の場面が描かれている。今際の際に臨んでの桐竹紋十郎と簑助との人形遣い同士の無言の交感、また人形遣いとして逝った桐竹紋十郎の最期はみごとだった。

 人形に命を吹きこむ、と言うのは容易(たやす)いことだが、それは大層なことである。「人形の色気」の項には、以下のような言葉がある。

 基本は、人形拵(ごしら)えです。
 人形遣いは、自分で遣う人形の着付けは、弟子や他人にはけっして任せません。かならず自分でします。私にかぎりません。人形遣いはだれでもそうです。
 私は、女方の色気は襟足(えりあし)がポイントと思っていますから、役に応じた胸のふくらませ方や襟の合わせ方以上に、気を使っているつもりです。
 襟はいずれにしろ大事で、これが思うようにまいりますと、あとは自然にそれに衣裳を添わせられます。だから、気に入るまで何回もやりなおすのは、この部分の作業です。(160頁)

 文楽の人形遣いの修行そのものが、教えられるものではなく、言葉は悪いですが、勝手に盗むもので、しかも、自分の技量分だけしか盗めないものですから、段階を越えたことを教えられてもわかりません。いつかわかることもありますが、主として、自分がそこまで来た時、勝手に盗むしかありません。(162頁)

 「目で殺す」のではなく、「襟足で殺す」のである。「目で殺す」以上にさりげなく、高級である。厳しい世界である。繊細優美な世界であることがうかがえる、と何や彼やと御託を並べる前に、実際に文楽を見ることが先決である。この夏の、P教授からの「文楽鑑賞への誘(いざな)い」だったと、いまにして思う。


ただ、「カタカナ語」の多用が気障りだった。たとえば、
◇「見せ場以外でもずっと気持ちをつなげてリアクションで応じる」(184頁)
◇「自然の情(じょう)、心のリアリティーを志向されたのではないでしょうか」(185頁)
◇「私の、リアルの出発点でした」(190頁)
◇「心情的リアルに傾いたかもしれません」(191頁)
◇「ワンパターンでは対応できません」
◇「ファイトが湧かない嫌いな役だと思っていましたが、これが、大違い」(205頁)
これらは、原稿を整理した門脇百男氏、それを形にした高木浩志氏らの手によるものであり、吉田簑助氏本人の手になるものとはとても思えず、惜しいことをしたものだと思う。