井筒俊彦「イスラームの根源的思惟形態」〈『イスラーム哲学の原像』_はじめから〉

 『イスラーム哲学の原像』岩波新書 は、イスラームの神秘主義(スーフィズム)を代表する、イブン・アラビーの実在体験と、その後の哲学的思惟によってなった、「存在一性論」的形而上学についての論考を主題としている、といってしまえば簡単だが、内容はそんなに浅薄なものではない。
 本書を再読することによって、井筒俊彦の原点に回帰した。
 井筒俊彦の著作群は、私にとっては実学の書である。実用の書であり、止むに止まれぬ書である。そしてその点において、井筒俊彦は、どうしようもなく福澤諭吉門下の人である。
 これを機に、〈はじめから〉を再開することにする。


「イブン・アラビー」
「存在はコトバである」という井筒俊彦の一節は、彼の思想的帰結を闡明しているだけではない。自らがイブン・アラビーの血脈に連なるものであることの宣言でもある。この神秘哲学者に出会うことがなければ、井筒の思想は全く違ったかたちになっていただろう。(280頁)

井筒はイブン・アラビーをイスラームの伝統に縛りつけない。彼がいう「東洋」に向かって開かれた位置に置く。そうした認識が、現象的には交差の痕跡がないイブン・アラビーと老荘という二つの大きな東洋神秘哲学の潮流を「共時的構造化」する Sufism and Taoism の形式を選ばせたのである。また、後年、彼は、この神秘哲学者と華厳の世界、道元の時間論、プロティノス、ユダヤ神秘主義との共時的交差を論じることになる。(285頁)

「『構造』と構造主義」
絶対的超越者をイブン・アラビーは「存在(ウジュード)」と呼び、老荘は「道(タオ)」と呼んだ。文学的過ぎるとの誹りを恐れずにいうなら、この長編論考( Sufism and Taoism )は「存在」と「道」の叙事詩だともいえる。主役は著者である井筒俊彦でないばかりか、彼が論じた東洋哲学の先達でもない。超越的絶対者である「存在」であり「道」なのである。序文(Sufism and Taoism )に著者自身が記しているように。試みられたのは、東洋哲学における「存在」論的構造の論究に他ならない。井筒の視座もイブン・アラビー、あるいは老荘といった人間に据えられているのではない。むしろ人間としての彼らを突き抜け、彼らにも開示された万物の始原的世界に、井筒もまた参入を試みているのである。(277頁)


井筒俊彦にとっての「読み書き」は、「観想体験」だった。