「小林秀雄,岡潔『人間の建設』_飛躍的にしかわからない」
小林 (前略)国語伝統というものは一つの「すがた」だということは、文学者には常識です。この常識の内容は愛情なのです。福田(恆存 つねあり)君は愛情から出発しているのです。ところが国語審議会の精神は、その名がいかにもよく象徴しているように、国語を審議しようという心構えなのです。そこに食いちがいがある。愛情を持たずに文化を審議するのは、悪い風潮だと思います。愛情には理性が持てるが、理性には愛情が行使できない。そういうものではないでしょうか。
岡 理性というのは、対立的、機械的に働かせることしかできませんし、知っているものから順々に知らぬものに及ぶという働き方しかできません。本当の心が理性を道具として使えば、正しい使い方だと思います。われわれの目で見ては、自他の対立が順々にしかわからない。ところが知らないものを知るには、飛躍的にしかわからない。ですから知るためには捨てよというのはまことに正しい言い方です。理性は捨てることを肯(がえん)じない。理性はまったく純粋な意味で知らないものを知ることはできない。つまり理性の中を泳いでいる魚は、自分が泳いでいるということがわからない。
小林 お説の通りだと思います。
(146-147頁)
これを機に、この対談は終わっている。
岡 理性というのは、対立的、機械的に働かせることしかできませんし、知っているものから順々に知らぬものに及ぶという働き方しかできません。本当の心が理性を道具として使えば、正しい使い方だと思います。われわれの目で見ては、自他の対立が順々にしかわからない。ところが知らないものを知るには、飛躍的にしかわからない。ですから知るためには捨てよというのはまことに正しい言い方です。理性は捨てることを肯(がえん)じない。理性はまったく純粋な意味で知らないものを知ることはできない。つまり理性の中を泳いでいる魚は、自分が泳いでいるということがわからない。
小林 お説の通りだと思います。
(146-147頁)
これを機に、この対談は終わっている。