井筒俊彦「『言語哲学としての真言』_はじめから」
「言語哲学としての真言」
「一九八四年十月二十六日と二十七日、日本密教学会の第十七回学術大会が高野山金剛峯寺宗務所で開催され、井筒は、二十六日の午後三時半から五時まで、一時間半にわたるこの特別講演を行なった。
(中略)
講演の「論旨を……論文体に書き移したもの」は、「意味分節理論と空海 ー 真言密教の言語的可能性を探る」(中略)として『思想』第七二八号(一九八五年二月)に発表された。一方、「言語哲学としての真言」は、「その場で録音、速記されたままの形」ということになる。」(530頁)
◇ 井筒俊彦『井筒俊彦全集 第八巻 意味の深みへ』慶應義塾大学出版会
◆「言語哲学としての真言」
は、
◆「意味分節理論と空海 ー 真言密教の言語的可能性を探る」
と比較し、洗練された内容のものとなっている。
天籟(てんらい)、人間の耳にこそ聞えないけれども、ある不思議な声が、声ならざる声、音なき声が、虚空を吹き渡り、宇宙を貫流している。この宇宙的声、あるいは宇宙的コトバのエネルギーは、確かに生き生きと躍動してそこにあるのに、それが人間の耳には聞こえない、ということは、私が最初にお話しいたしました分節理論の考え方で申しますと、それが絶対無分節の境位におけるコトバであるからです。絶対無分節、つまり、まだ、どこにも分かれ目が全然ついていないコトバは、それ自体ではコトバとして認知されません。ただ巨大な言語生成の原エネルギーとして認知されるだけです。しかし、この絶対無分節のコトバは、時々刻々に自己分節して、いわゆる自然界のあらゆる事物の声として自己顕現し、さらにこの意味分節過程の末端的領域において、人間の声、人間のコトバとなるのであります。
このように自己分節を重ねつつ、われわれの耳に聞える万物の声となり、人間のコトバとなっていく宇宙的声、宇宙的コトバそれ自体は、当然、コトバ以前のコトバ、究極的絶対言語、として覚知されるはずでありまして、こうして覚知されたあらゆる声、あらゆるコトバの究極的源泉、したがってまた、あらゆる存在の存在性の根源であるものを、真言密教は、大日如来、あるいは法身として表象し、他の東洋の諸宗教はしばしば神として表象いたします。(442-443頁)
(註) 天籟:『荘子』の「内篇」第二「斉物論」に出てくる、「虚空、すなわち無限に広がる宇宙空間を貫いて、色もなく音もない風が吹き渡っている。宇宙的な風、これが天籟です。(4412頁)
井筒俊彦は、「存在はコトバである」と措定した。「言語哲学者」としての空海の内に、井筒は同様のものを認めた。空海は、日本で最初の「深層的言語哲学者」だった。
なお、「井筒俊彦の風景」としての「空海の風景」とは、「言語に関する真言密教の中核思想を、密教的色づけはもちろん、一切の宗教的枠づけから取り外し」、「一つの純粋に哲学的な、あるいは存在論的な立場」(『井筒俊彦全集 第八巻 意味の深みへ 1983年-1985年』 慶應義塾大学出版会、「言語哲学としての真言」,425頁)から眺めた際に広がる「空海の風景」のことである。
下記、