井筒俊彦「コスモスとアンチコスモス_はじめから」
「コスモスとアンチコスモス ー 東洋哲学の立場から」
「『コスモスとアンチコスモス』後記」
「『コスモスとアンチコスモス』後記」
このようなコスモス(「有意味的存在秩序」)観にたいして、東洋哲学は、おそらくこう主張するだろうと思います。たしかに、「有」がどこまでも「有」であるのであれば、そういうことになるでもあろう。しかし、「有」が究極においては「無」であり、経験世界で我々の出合うすべてのものが、実は「無」を内に抱く存在者(「無」的「有」)であり、要するに絶対無分節者がそのまま意味的に分節されたものであることを我々が悟る時、そこに自由への「開け」ができる。その時、世界(コスモス的存在秩序)は、実体的の凝り固まった、動きのとれない構造体であることをやめて、無限に開け行く自由の空間となる、と。なぜなら、一々のものが、それぞれ意味の結晶であり、そして意味なるものが人間意識の深層に淵源する柔軟な存在分節の型であるとすれば、「無」を体験することによって一度体験的に解体され、そこから甦った新しい主体性 ー 一定の分節体系に縛りつけられない融通無碍な意識、「柔軟心」 ー に対応して、限りなく柔軟なコスモス(限りなく内的組み替えを許すダイナミックな秩序構造)が、おのずからそこに拓けてくるであろうから、であります。
東西の哲学的叡知を融合した形で、新しい時代の新しい多元的世界文化パラダイムを構想する必要が各方面で痛感されつつある今日の思想状況において、もし東洋哲学に果すべきなにがしかの積極的役割があるとすれば、それはまさに、東洋的「無」の哲学が、今お話したような、内的に解体されたアンチコスモス的なコスモス、「柔軟なコスモス」の成立を考えることを可能にするというところから出発する、新しい「柔軟心」の思想的展開であるのではなかろうか、と私は思います。(343-344頁)
2018/02/06 に紀伊國屋書店から届けられ、2018/03/14 に一読し、そして昨日再読した。日付をみて眼をみはった。季節が二つめぐっていた。
上記は講演の掉尾の部分である。自分の覚え書きとして引用した。説明もなく、ただこれだけを読んで解るとはとても思えないが、ご寛恕を請うことにする。
井筒俊彦は「混迷」する現代を憂えている。それは「カオスの時代」という以上の乱脈ぶりであり、「『カオス』を『アンチコスモス』と読みかえ」た。
「カオス」をめぐるこの現代的特異事態は、勿論、さまざまに異なる説明を許容するであろうが、なんといっても先ず第一に指摘されなければならないのは、「カオス」あるいは「カオス的なもの」が最近、とみに異常な攻撃的性格を帯びはじめたということであって、まさにそのことが、現代を「カオスの時代」として特徴づけることを正当化する少くとも一つの決定的に重要な根拠になっているのだ、と思う。
このような事態にかんがみ、私は本書で、「カオス」を「アンチコスモス」と読みかえてみた。そういう積極的否定性、すなわち反「コスモス」的攻撃力への読みかえにおいてのみ、「カオス」なるものの真に現代的な側面が露呈されると信じるからである。(422-423頁)
井筒俊彦の視野の内には、形而上学としての哲学の問題だけではなく、現代が抱える問題とどう対峙すべきか、という視点が常にあった。どう対処するかを模索するための「東洋哲学」であった。