「小林秀雄,岡潔『人間の建設』_西洋人のことがわからなくなってきた」

小林 (前略)ピカソにはスペインの、ぼくらにはわからない、何と言うか、狂暴な、血なまぐさいような血筋がありますね。ぼくはピカソについて書きましたときに、そこを書けなくて略したのです。在るなと思っても、見えてこないものは書けません。あのヴァイタリティとか血の騒々しさを感じていても、本当には理解はできないのです。それがわからないのは、要するにピカソの絵がわからないことだなと思った。ぼくら日本人は、何でもわかるような気でいますが、実はわからないということを、この頃つよく感じるのですよ。自分にわかるものは、実に少いものではないかと思っています。
 小林さんにおわかりになるのは、日本的なものだと思います。
小林 この頃そう感じてきました。
 それでよいのだと思います。仕方がないということではなく、それでいいのだと思います。外国のものはあるところから先はどうしてもわからないものがあります。
小林 同感はするが、そういうことがありますね。だいいちキリスト教というものが私にはわからないのです。(後略)
(98-99頁)

小林 ぼくはこのごろ西洋人のことがだんだんわからなくなってきたのです。
 何か細胞の一つ一つがみな違っているのだという気がしますね。
小林 そういうことがこの頃ようやくわかってきた。
(116頁)

 両氏が口をそろえていう、これが井筒俊彦が措定した「存在はコトバである」ことの証左なのであろうか。「コトバ」が文化を規定する。
 小林秀雄は、対話のなかで、
「言葉が発生する原始状態は、誰の心のなかにも、どんな文明人のなかにも持続している。そこに立ちかえることを、芭蕉は不易と呼んだのではないかと思います。」(133頁)
といい、また、
小林 (前略)それはやはり自然に帰れということですよ。これは土人に帰れ、子供に帰れということですが。そういうことになるのも、これは決して歴史主義という思想に学ぶのではない、記憶を背負って生きなければならない人の心の構造自体から来ているように思えるのです。原始時代がぼくの記憶のなかにあるのです。歴史の本のなかにではなくて、ぼく自身がもっているのです。そこに帰る。もういっぺんそこにつからないと、電気がつかないことがある。あまり人為的なことをやっていますと、人間は弱るんです。弱るから、そこへ帰ろうということが起ってくる。
 それを真の自分だといっているのですね。
小林 と言うよりも、真の自分を探そうとすると、そういうことになると言ったほうがいいかも知れません。おっしゃる情緒というのものにふれるということも、記憶を通じてではないかと考えるのです。本当の記憶は頭の記憶より広大だという仏説があるとおっしゃったが、その考えを綿密に調べた本がベルグソンにあります。「物質と記憶」という本ですが、これは立派なおもしろい本です。脳と精神との関係の研究なんです。(後略)(133-134頁)
という発言もある。意味深長なご発言である。見える人には、見えているのだろう。見えないまでも、敏感に察しているのであろう。