河上徹太郎「小林秀雄『考へるヒント』について」

『考へるヒント』
 河上徹太郎『わが小林秀雄』昭和出版 
「文学を理解するには、ただ読んだだけでは駄目で、実は眺めるのが大事なのだ」といひだす。これは、一見文学の純粋性を否定してゐる言葉に見えるが、実は逆にそれを確立するために、文学では文章の意味を辿るだけでなく、その「形」を見なければならぬといふことをいつてゐるのだ。これは小林が戦後の或る時期に、殆んど文学を捨てて美術や音楽に接して得た経験から出てゐるのである。
 この論理を推してゆくと、次の「言葉」といふ章の書き出しの「本居宣長に、姿ハ似セガタク、意ハ似セ易シ、といふ言葉がある」といふ逆説に通じる。この「姿」とは文体の意である。(187頁)

 この中の「ヒットラーと悪魔」を書いたのは小林がソヴェットを見る前である。
(中略)
それは非情が得難い政治的才能になる現代の社会情勢の分析である。
(中略)
それはその背後に「プラトンの『国家』の章の中にある、社会は一匹の巨獣であるといふソクラテスの思想が眼を光らせてゐるからである。
 私は戦争中、小林が好んでアランを耽読してゐたのを見てゐる。アランはソクラテスの反ソフィスト精神の直系であり、それが根強く小林に伝はつてゐるのである。(188-189頁)

白洲正子『いまなぜ青山二郎なのか』新潮文庫
おそらく小林(秀雄)さんも、陶器に開眼することによって、同じ経験(沈黙している陶器の力強さと、よけいなことを何一つ思わせないしっかりした形を知ったこと)をしたのであって、それまで文学一辺倒であった作品が、はるかに広い視野を持つようになり、自由な表現が可能になったように思う。小林さんが文章を扱う手つきには、たとえば陶器の職人が土をこねるような気合いがあり、次第に形がととのって行く「景色」が手にとるようにわかる。文章を書くのには、「頭が三分、運動神経が七分」と言い切っていたが、それも陶器から覚えた技術、というより生きかたではなかったであろうか。(57-58頁)


以下、ご参考まで。
青山二郎「意味も、精神も、すべて形に現れる」