河上徹太郎「岡倉天心_その実行家の精神」

「岡倉天心」
河上徹太郎『日本のアウトサイダー』中公文庫
 天心は思想家ではない。自分の幻想(ヴイジョン)を追う人 ー これが私のアウトサイダーの定義だ、 ー である。ただそれが美術という無償の世界を舞台とし、しかもそれが自ら筆をとることなく、プロデューサーの形で行われたために、彼の正体が「科学者」の手で捕え難く、代りに彼の現行の一部が政治的色彩をあてがって証拠物件に取上げられるのである。然し思えば明治という実利主義万能の時代に、彼程非実利的なものを現実社会の最上層部に持ち込んで成功した人はなく、その点奇跡的な存在である。彼の人物の評価は、先ずそれを手がかりにして始めるべきではないだろうか?(163頁)

彼の非政治的な野望は当時新政府と結託した方が実現の可能性が多かったのである。天心が明治初期の美術官僚を動かして美術学校を建てたのも、そこを失脚した後ボストンの富豪ビゲローの寄附金で日本美術院を創立したのも、彼にとって変りはないのである。勿論当時政府の強権主義に対し、一方に自由民権を旗印とする進歩的在野精神はあった。然しこれと直接結ばないことは、彼の在野精神と関りないのである。天心は自分の理想を実現するに当時として最も可能性のある側の力を借りたのである。政治力はただ彼の方で利用したのであって、それによって彼に何の妥協もなく、そこから彼の保守性を抽き出すのは、今日の人間が今日の尺度で既往を計っているに過ぎない。(140-141頁)

狩野芳崖と橋本雅邦が維新以来陋巷に逼塞して僅か手内職のような賃仕事で口を糊していた時、「毛頭なんかにゃ会わねえ」といって閉ざしていた門を叩いて出廬を促したのは、仏法を畏れて開扉を拒む寺僧を尻目に、夢殿の千古の秘仏を白日の下に曝したのと、意図まで同じフェノロサと天心の手口であった。芳崖と雅邦とがその儘の腕でわが近代的美術学校の祖にならねばならぬように、夢殿観音はやがて一群の同族と共に百貨店の陳列ケースに列ばねばならぬ運命の第一歩が始まったのだ。では天心は、それを自分の手柄として誇ったろうか? 或いは又、已むを得ぬ運命と悲しみつつ手を下したのだろうか? こういう疑問は、そもそも天心の評価を誤る手初めである。それを質したくなるのは我等近代人の病弊であって、天心はもっと素朴で線の太いロマンティストである。彼はわが明治の精神の健康的な側を代表しつつ、自分の宿命的な審美感の命ずるままにそういうことを行動していったまでだ。彼は明治草創期の人にふさわしく、強烈な実行家の精神で貫かれていた人である。(164頁)

 もし天心が理論家だったら、こんな疑惑が起こったかも知れない。然し彼は専ら現実的に自分の夢の実現を求める、正真のロマンティストであった。だから自分の情熱を愛する如く、日本美術を愛し、その生きた現れとして弟子の大観・春草の仕事を愛し、雅邦を尊敬した。これらは渾然とした一つの生きものであった。個々の部分を批判することはあっても、中の一つの存在を取上げて否定することは、自分が胃弱であるからといって胃を切り取って捨てるように、愚劣な自己否定である。(165頁)