井筒俊彦「『意味分節理論と空海 ー 真言密教の言語的可能性を探る』_はじめから」

「意味分節理論と空海 ー 真言密教の言語的可能性を探る」
 つい今しがた、「意味分節理論と空海 ー 真言密教の言語的可能性を探る」を読み終えた。
 本論は、空海の「真言密教」とファズル・ッ・ラーのイスラーム的「文字神秘主義」、そしてカッバーラー(ユダヤ教神秘主義)とを対照するなかで、「言語哲学」的、また「深層的言語哲学」的に、「ともにきわめて特徴ある同一の思考パターンに属」(414-415頁)することを確認しながら展開され、東洋哲学の「共時的構造化」の一例を披歴するものとなっている。
 副題に「真言密教の言語的可能性を探る」とあるとおり、井筒俊彦の眼は本稿でもまた未来に向けられている。実学としての哲学である。
 

◇以下、その経緯(いきさつ)です。
「去る年(一九八四年)の十月二十六日、秋色深まる高野山で、第十七回日本密教学大会のためにおこなった特別講演、「言語哲学としての真言」の論旨を、本稿は、論文体に書き移したものである。講演そのものは、その場で録音・速記されたままの形で、近く『密教学研究』誌に発表される予定である。
(中略)
今回の書き直しを機に、いろいろ訂正したり付加したりしてはみたものの、なんといっても、もともと実際に聴衆に語りかけたものであり、また始めからそのようなものとして準備されたものであるから、後でそれを論文的叙述形式に移しても、やはりどうしても、口頭コミュニケーションの原形が、内容だけでなく、発想それ自体を全体的に支配することになってしまう。私はそれをことさらに避けようとはしなかった。そのために、哲学論文としては、文体的に、いささか密度の低いものになるであろうことは、もとより承知の上で。」(529-530頁)

 井筒俊彦は、「存在はコトバである」と措定した。「言語哲学者」としての空海の内に、井筒は同様のものを認めた。空海は、日本で最初の「深層的言語哲学者」だった。
 なお、「井筒俊彦の風景」としての「空海の風景」とは、「言語に関する真言密教の中核思想を、密教的色づけはもちろん、一切の宗教的枠づけから取り外し」、「一つの純粋に哲学的な、あるいは存在論的な立場」(『井筒俊彦全集 第八巻 意味の深みへ 1983年-1985年』 慶應義塾大学出版会「言語哲学としての真言」,425頁)から眺めた際に広がる「空海の風景」のことである。

下記、