井筒俊彦「華厳の,ある形而上的存在風景」〈「事事無礙・理理無礙」_はじめから〉
「事事無礙・理理無礙 ー 存在解体のあと」
この引用箇所で、(新プラトン主義の始祖)プロティノスは深い瞑想によって拓かれた非日常的意識の地平に突如として現れてくる世にも不思議な(と常識的人間の目には映る)存在風景を描き出します。「あちらでは…」と彼は語り始めます。「あちら」、ここからずっと遠いむこうの方 ー 勿論、空間的にではなく、次元的に、日常的経験の世界から遥かに遠い彼方、つまり、瞑想意識の深みに開示される存在の非日常的秩序、ということです。「あちらでは、すべてが透明で、暗い翳りはどこにもなく、遮(さえぎ)るものは何一つない。あらゆるものが互いに底の底まですっかり透き通しだ。光が光を貫流する。ひとつ一つのものが、どれも己れの内部に一切のものを包蔵しており、同時に一切のものを、他者のひとつ一つの中に見る。だから、至るところに一切があり、一切が一切であり、ひとつ一つのものが、即、一切なのであって、燦然たるその光輝は際涯を知らぬ。ここでは、小・即・大である故に、すべてのものが巨大だ。太陽がそのまますべての星々であり、ひとつ一つの星、それぞれが太陽。ものは各々自分の特異性によって判然と他から区別されておりながら(従って、それぞれが別の名をもっておりながら)、しかもすべてが互いに他のなかに映現している」
すべてのものが「透明」となり「光」と化して、経験的世界における事物特有の相互障碍性を失い、互いに他に滲透し、互いに他を映し合いながら、相入相即し渾融する。重々無尽に交錯する光に荘厳されて、燦爛と現成する世界。これこそ、まさに華厳の世界、海印三昧と呼ばれる禅定意識に現われる華厳蔵世界海そのものの光景ではないでしょうか。とにかく、華厳仏教の見地からすれば、今ここに引用したプロティノスの言葉は、「事事無礙」的事態の、正確な、そして生き生きとした描写にほかならないのでありまして、もしこの一節が『華厳経』のなかに嵌めこまれてあったとしても、少しも奇異の感を抱かせないことであろうと思います。(9-10頁)
『華厳経』が、徹頭徹尾、「光」のメタファに満たされていることは、皆様ご承知のとおりですが、先刻引用した『エンネアデス』の一節も、終始一貫して「光」のメタファの織り出すテクストでした。華厳もプロティノスも、ともに存在を「光」として形象する、あるいは、「光」として転義的に体験する。「光」のメタファとはいっても、ここでは、たんに表現形式上の飾りとしての比喩ではありません。観想意識の地平で生起する実在転義そのものとしての比喩なのです。質料的不透明性を脱却して完全に相互滲透的となった存在は、「光」的たらざるを得ない。そのような様態における存在は、おのずから、実在転義的に「光」となって現われる。だからこそ、二つのものがある時、「光が光を貫く」ということが、そこに起るのです。プロティノスの語る「光燦々」とは、このような意味で実在的に転義し、メタファ化した存在世界の形姿にほかなりません。(11-12頁)
『華厳経』が、徹頭徹尾、「光」のメタファに満たされていることは、皆様ご承知のとおりですが、先刻引用した『エンネアデス』の一節も、終始一貫して「光」のメタファの織り出すテクストでした。華厳もプロティノスも、ともに存在を「光」として形象する、あるいは、「光」として転義的に体験する。「光」のメタファとはいっても、ここでは、たんに表現形式上の飾りとしての比喩ではありません。観想意識の地平で生起する実在転義そのものとしての比喩なのです。質料的不透明性を脱却して完全に相互滲透的となった存在は、「光」的たらざるを得ない。そのような様態における存在は、おのずから、実在転義的に「光」となって現われる。だからこそ、二つのものがある時、「光が光を貫く」ということが、そこに起るのです。プロティノスの語る「光燦々」とは、このような意味で実在的に転義し、メタファ化した存在世界の形姿にほかなりません。(11-12頁)