「小林秀雄,岡潔『人間の建設』_思索は言葉なんです」
小林 岡さんの数学というものは数式で書かれる方が多いのですか、それとも文章で表されるのですか。
岡 なかなか数式で表せるようになってこないのです。ですから、たいてい文です。
小林 文ですか。つまり、その文のなかにいろいろな定義を必要とする専門語が入っているというわけですね。
岡 自分にわかるような符牒(ふちょう)の文章です。人にわからす必要もないので、他人にはわからないものです。自分には書いておかないと、何を考えたのかわからなくなるようなものです。やはり次々書いていかないと考え進むということはできません。だけど数式がいるようなところまではなかなか進みません。
小林 そうすると、やはり言葉が基ですね。
岡 言葉なんです。思索は言葉なんです。言語中枢(ちゅうすう)なしに思索ということはできないでしょう。
小林 着想というものはやはり言葉ですか。
岡 ええ。方程式が最初に浮かぶことは決してありません。方程式を立てておくと、頭がそのように動いて言葉が出てくるのでは決してありません。ところどころ文字を使うように方程式を使うだけです。
小林 そうですか。数学者の論文というのはそういうものですか。
(中略)
小林 私みたいに文士になりますと、大変ひどいんです。ひどいということは考えるというより言葉を探している言ったほうがいいのです。ある言葉がヒョッと浮かぶでしょう。そうすると言葉には力がありまして、それがまた言葉を生むんです。私はイデーがあって、イデーに合う言葉を拾うわけではないのです。ヒョッと言葉が出てきて、その言葉が子供を生むんです。そうすると文章になっていく。文士はみんな、そういうやりかたをしているだろうと私は思いますがね。それくらい言葉というものは文士には親しいのですね。岡さんの数学の世界にも、そういう独特の楽しみがあるでしょう。
(121-123頁)
この小林秀雄の問いかけに対する、岡潔の回答はなく、話題が飛躍している。編集時に省略されたことがはっきり見てとれる。惜しいことをしたものである。