「小林秀雄『正宗白鳥の作について』より_人物編(前編)」

「正宗白鳥の作について」
『小林秀雄全作品 別巻2 感想 下』新潮社
 「正宗白鳥の作について」は、小林秀雄 最晩年の作品であり、(未完)のままに完結した。以下では、当書にみられる「人物評」について記してみることにする。
 題名に示したように、「『正宗白鳥の作について』より」の「人物評」であり、それらは小林秀雄自身の手になる「人物評」とは限らない。なお、出自は明記する。

◇ 正宗白鳥
人間は如何に評価されようとも、竟(つい)に憐(あわ)れな人間である事に甲乙はないという信念を生涯動かさなかった正宗氏は、(後略)(小林秀雄評 219頁)


 まさしくこの作(正宗白鳥「自然主義文学盛衰史」)は「腹の底まで打解けて話の出来るような相手」は、自分自身しかなくなって了(しま)った人間の綿々たる誠心の記述であって、反省好きが行う自問自答という知的遊戯の如きものではない。その内容は、ただ独り世に残された者の悲しみで充填(じゅうてん)され、その個性的悲しみの中で、自然主義文学の盛衰が、何の成心(せいしん:したごころ)もなく語られる。この無私は、実証主義とか客観主義とかを標榜(ひょうぼう)している者の隠し持った心の空(むな)しさとは何の係わりもない。己の天与の個性を信ずれば足りる詩人の曇りない眼の働きを想えばよかろうか。それが、自然主義者と呼ばれた人間の表情を捕え、その心を見抜く、そういうことが行われたのである。この詩人(正宗白鳥)は、「私の自然主義文学回顧は、藤村を中心として回転しつづけ」たと述懐したが、その意味は、一世を風靡(ふうび)した自然主義文学の全体的展望も亦(また)、身近かに親しく見ている藤村という一個人の文筆稼業と全く同様に、その辛い苦しい内心を打ち明けてくれたという事だと見ていい。(小林秀雄評 206-207頁)


◇ 島崎藤村
正宗氏は、絶えず人生行路の艱難(かんなん)を書く藤村を「艱難の化身」と呼んでいるが、 ー「その間幾多の艱難を通り越した。ある時は死んでも足りないと思われる程、心の暗い時すらあった。僅(わず)かに夜が明けたかと思う頃は、辛酸を共にした母が亡くなった。(中略あちら向いてもこちら向いても、艱難が人間の形を帯びて待伏せしているのである。」(正宗白鳥評 202頁)

正宗氏の語法を借りれば、何故「自然主義文学回顧は、藤村を中心として回転しつづけ」たかと言うと、この作家の「小説でない小説」「面白くない小説」を目指して、全く他を顧みなかった異様とも見えるほどの努力に、心を打たれたからだと言うより他はないようである。(小林秀雄評 205頁


◇ 自然主義文学の作家たち
 其処(そこ)に、おのずから現れたと言っていい洞察は、次のように要約される。ー 「日本の自然主義作家と作品の一むれは、世界文学史に類例のない一種特別なものと云うべく、稚拙な筆、雑駁(ざつばく)な文章で、凡庸人の艱難苦悶(かんなんくもん)を直写したのが、この派の作品なのだ。人に面白く読ませようと心掛けないのも、この派の特色であった。」(正宗白鳥評 207頁)