「存在はコトバである」_「井筒俊彦の風景」としての「空海の風景」〈『意識と本質』_はじめから〉

 井筒俊彦は、「存在はコトバである」と措定した。「言語哲学者」としての空海の内に、井筒は同様のものを認めた。空海は、日本で最初の「深層的言語哲学者」だった。
 なお、「井筒俊彦の風景」としての「空海の風景」とは、「言語に関する真言密教の中核思想を、密教的色づけはもちろん、一切の宗教的枠づけから取り外し」、「一つの純粋に哲学的な、あるいは存在論的な立場」(『井筒俊彦全集 第八巻 意味の深みへ 1983年-1985年』 慶應義塾大学出版会「言語哲学としての真言」,425頁)から眺めた際に広がる「空海の風景」のことである。


存在分節の過程を、空海は深みへ、深みへ、と追っていく。意識の深層に起って表層に達するこの世界現出の過程を、逆の方向に遡行するのだ、ついに意識の本源に到達するまで。「究竟して自心の源底を覚知」する、と彼の言う(『十住心論』)その「自心の源底」に至りつくまで。
 存在分節過程のこの遡行において、空海の鋭い眼は、存在分節の言語的性格を見抜く。存在分節が、元来、コトバの意味の作用によるものであるということは、表層意識の面だけ見ていたのでは、なかなかわからない。だが、分節された様々の事物の生起過程を意識の深みにまで追っていくと、分節そのものの言語意味的性格が、次第に現われてくる。すなわち、経験的事物として我々の表層意識に現象する前に、存在分節は、深層意識において、純粋な意味形象(イマージュ)だったのだ、ということが。
 これらの純粋意味形象は、いずれも、空海のいわゆる「自心の源底」のエネルギーが、本論で私が言語アラヤ識と呼んできた深層意識の言語的基底の網目構造を通して第一次的に分節された形姿。そして意識の源底はすなわち存在の源底。存在の究極の源底(「法身」)それ自体を、空海は大日如来として形象化する ー より正確には、空海の深層意識に、存在の源底が大日如来のイマージュとして自己顕現する。だから、空海にとっては、存在界の一切が究極的、根源的には大日如来のコトバである。つまり一切が深層言語現象である。(221-222頁)


若松英輔『井筒俊彦―叡知の哲学 』慶應義塾大学出版会
 空海における密教、すなわち真言密教もまた、「コトバ」を「万物の始原であり、帰趨」とする、「コトバ」の秘教的共同体だった。真言とは「根源的コトバ、まだまったく分節されていない、絶対無分節のコトバ」を意味する。すなわち、真言宗とは、世界の根源的実在が「コトバ」であると闡明する霊性であると考えてよい。(384頁)

 「存在界の一切が究極的、根源的には大日如来のコトバである」と書いた井筒は、カバラーを論じたときのように、大日如来のコトバ  ー より正確には、大日如来であるコトバ、と続けてもよかったのである。「法身」は万物を包摂する「最も根源的なコトバ」。つまり「存在者の意味の意味、全存在の『深秘の意味』」であると書いているように、彼(井筒俊彦)にとって、空海は日本で最初のそして、おそらく最高峰の「深層意識的言語哲学」者だったのである。(384-385頁)


(空海は、「空」を否定的に把えるのではなく、肯定的に把える。)
 だから、彼の見る「空」すなわち「法身」は「有」の充実の極。内に充実しきった「有」のエネルギーは必然的に外に向って発出しようとする。発出して、いまや一切万有になろうとする。この、全存在界生起の始点において、「法身」は、空海にとって、根源的コトバである。根源的コトバ、まだまったく分節されていない、絶対無分節のコトバ。「法身」が一切万有を内蔵する「有」の極限的充実であるということは、すなわちそれがあらゆる存在者の意味の意味、全存在の「深秘の意味」であるということ、つまり最も根源的なコトバであるということなのである。
 一切万有を「深秘の意味」的に内蔵するこのコトバは、無数の「意味」に分れて深層意識内に顕現する。その第一次的意味分節の場所は言語アラヤ識。言語アラヤ識で一たん分節された意味が「想像的」形象(イマージュ)として顕現する場所は意識のM領域(言語アラヤ識と表層意識との中間地帯)。それらの「想像的」イマージュの経験的事物としての顕現の場所は表層意識。従って、この見方からすると、我々が経験界に見出す一切の存在者は、要するに「深秘の意味」としてのコトバ、すなわち絶対語、あるいは絶対意味、の様々に分節された自己表出の形である。(223頁)


 (井筒俊彦と空海との)邂逅はおそらく「意識と本質」(『思想』岩波書店,論文)の執筆から、そう遠くない時期だと思われる。それは執筆中の出来事だったかもしれない。出会ったときにすでに、機は熟していたのだろう。井筒は自身の思想的淵源を確認するように、空海を読んだのではなかったか。かつてイブン・アラビーや荘子によって開かれた形而上学的地平を、千年以上も前に、思想的に構造化している日本人がいる事実を知った井筒の驚きは、想像に余りある。「存在はコトバである」という一節を彼が口にしたのも、空海とコトバを論じた講演「言語哲学としての真言」においてだった。(385頁)

 若松英輔の描く、井筒俊彦と空海との邂逅は劇的だったはずだが、少々それは勇み足のように思われる。が、「井筒俊彦の風景」としての「空海の風景」に触れるには格好な読み物となっている。