「團伊玖磨、ちいがわかる男の哀しみ_『トルコ・コーヒー』」


「トルコ・コーヒー」
團伊玖磨『パイプのけむり 選集 食』
 十年も前の事だった。インスタント・コーヒーの宣伝に出て欲しいとの申し込みを受けた。何でも「ちがいがわかる男」とか言うキャッチ・フレーズで、インスタントのコーヒーを飲んでいる姿を写真とヴィデオに撮るのだと言う。貧乏な作曲家にとっては目の玉の飛び出るような礼金も約束されていた。然(しか)し、コーヒーには色々な淹れ方があって、その色々な淹れ方を楽しんでいる男が、ちがいがわかる等と言ってはインスタント・コヒーのメーカーや販売元に悪かろうと考えた。そして、この話しはお断りした。あとでお金が必要だった時、あの時の宣伝を引き受けていたならとの思いがちらちらと脳裡(のうり)を横切りはしたが、嘘(うそ)を吐(つ)く訳には行かなかったのだから致し方無い。
 トルコ・コヒーの香りの中で、ふと、急に昔の事を思い出した。そして、矢張り嘘を吐かなくて良かったと思った。(218頁)