天人 深代惇郎「筋金入り」
「筋金入り」
深代惇郎『深代惇郎の天声人語』朝日文庫(342-344頁)
作家ソルジェニーツィン氏は逮捕されたとき、歯ブラシを手に自宅から連行されたという。さすがに収容所生活で鍛えた「筋金入り」を思わせたが、行く先は収容所ではなく西独だった。
彼の逮捕後、夫人の手からただちに声明書が外人記者に渡された。「警察の尋問には絶対に答えない」「自分を抑圧する者のためには、三十分たりとも働かない」。それは火を吐くように激烈な、国家への果たし状である。
今月はじめには「脅迫電話が夜明けから真夜中まで鳴りつづけている」と、外人記者団にもらしていた。二度にわたる当局の召喚を拒否したことにも、覚悟のほどがうかがえた。彼の『収容所列島』(抄訳は『週刊朝日』連載)は、自分の体験と二百二十七人の証言によって暴露されたソ連体制の告発状である。
収容所生活の言語に絶する実相は、執拗(しつよう)で仮借ない筆で描かれている。常時六百万人の政治犯を収容所に押し込めることによって成立した国家権力の、恥ずべき歴史を認めることなしに、ソ連の将来はないというのが、彼のゆるがぬ信念だ。
またその糾弾はスターリンにとどまらず、ソ連で神聖不可侵とされるレーニンにまで及ぶ。彼はこの本で、過去を顧みて「私はどうして黙っていたのだろう。犠牲になる必要はないという理由なら、だれでも十ぐらいはすぐ並べることができるものなのだ」と、苦い悔恨の情を書いている。
戦争中、連行されてモスクワの白ロシア駅を通ったとき、群衆に真相を訴えるチャンスはあった。だがそこで、自分の声を聞くモスクワっ子は二百人だけだと思い返し、「いつの日か二億人の同胞に向かって声をあげるときが来るだろう」という思いをかみしめる。ソルジェニーツィン氏は西独に事実上追放され、愛するロシアの土と同胞から引き裂かれた。この小さな一人の人間を、巨大な国家がついに「処分」することも、収容所に送ることもできなかった事実に、あらためて歴史の歩みを見る。(49・2・14)