天人 深代惇郎「収容所列島」


「収容所列島」
深代惇郎『深代惇郎の天声人語』朝日文庫(338-339頁)
 一人の偉大な作家は、一つの強大な政府に匹敵する。ただ一人、ロシアの大地にそびえ立つ作家ソルジェニーツィンの姿に、この言葉が決して形容のアヤでないことを知る。彼は、人間の勇気が何をなし得るかを私たちに教えてくれた。
 ソルジェニーツィンが死ぬ覚悟をしていることは疑いない。「私が何者かに殺されたら、秘密警察の手の届かぬ場所で私の作品は公表されるだろう」と公言してきた。秘密警察は躍起になってその原稿をさがし、極秘に保管していたレニングラードの婦人を逮捕した。
 彼女は百二十時間、一睡も許されぬ尋問をうけ、ついに保管場所を自白したあと自殺した。この知らせをうけたソルジェニーツィンは、用心のため国外に出した別のコピーによる二十六万語の『収容所列島』を、パリで出版することを承諾した。
 それは各国語に訳され、やがてソ連といくつかの国をのぞく世界中の人々に読まれることになるだろう。彼を投獄できるあらゆる理由を持ちながら、秘密警察はまだ手を下せずにいる。成り行き次第では、ソ連の国際的な立場を苦境に陥れるほど、世界の良識の目が彼の一管の筆をじっと見据えているからである。
 『収容所列島』は、半世紀にわたるソ連の恐怖体制を克明に描き出したものだ。レーニンは革命第一日に秘密警察をスタートさせ、それは国家存立の基礎となって今日までつづき、犠牲者数はヒトラーの恐怖政治さえ顔色なからしめた、と彼はいう。その実態をこれほど詳細に伝えた記録は他にない、と欧米の専門家もタイコ判を押す。
 ソルジェニーツィンはノーベル文学賞に決まったとき、スウェーデンに行かなかった。一度国外に出れば、再び帰れぬ片道切符になることを知り、亡命者より殉教者の道を選んだのであろう。祖国愛と人間の尊厳のためには屈することを知らぬ巨人に、脱帽する。(49・1・14)