小林秀雄「神様の忘れもの」


年齢(とし)のせいか、物忘れ、置き忘れをすることが多くなりました。老眼のため、取っかえ引っかえするたびに眼鏡を置き忘れ、ときには眼鏡をかけていることを忘れて、あわてて眼鏡を探しまわり、眼鏡の上に眼鏡をかけて苦笑し、財布の所在を忘れ、自動車の鍵のありかを忘れます。


「小林秀雄の眼」
白洲正子『遊鬼 わが師 わが友』新潮文庫(49-50頁)
 それについては面白い話がある。ある日、例によって(骨董の)茶碗(ちゃわん)か何かを買い、一杯機嫌で横須賀線に乗ったが、鎌倉で降りる時、大事な買物を電車の中に忘れてしまった。酔っても本性違(たが)わずで、ほんとうに大事なものなら忘れなかったと思うが、そんな風に合理的に解釈する必要はない。何より「(骨董を)買うこと」の一事に集中していた時だから、買ってしまえばあとは野となれ山となれ、ーー そこに小林(秀雄)さんの実に端的で爽(さわ)やかな一面がある。
 お嬢さんの明子(はるこ)ちゃんが子供の頃、東京へ連れて行くというので、喜んでついて行ったが、鎌倉の駅に着くと小林さんはさっさと切符を一枚買って改札口へ入ってしまった。明子ちゃんがいることを忘れたのである。だが、彼女はちっともお父ちゃんを恨んではいない、あれはああいう人だと思っている。お父ちゃんを全面的に信頼しているからで、もし骨董にも心があるならば、あれはああいう人だ、といったに相違ない。

さすがに神様の忘れものは、私のちまちまとした置き忘れとはスケールが違い、「実に端的で爽やか」です。後くされがなく、おおらかで、あっぱれというほかありません。

いつしか私の置き忘れも習い性となり、置き忘れた物を見つけるには、探さないのが一番、と達観してみたものの、確かにあずかったはずの、三つ連なった父の差し歯をなくした際には、躍起になって探しまわりましたが、数ヶ月経った今も行方不明です。現在治療中で、抜け落ちた歯は用をなさない代物とわかりましたが、私はあっさりと諦観を返上しました。

行方をくらました父の歯は、ひょんなことから見つかるやもしれず、どこに影をひそめているかを想像することは楽しくもありますが、いつまでたっても愚にもつかないことを思っているうちは、歯は見つからず、私は父の抜けた歯に、諦念をうながされているのかもしれません。