投稿

遠藤周作「人生は、たのくるしい」

狐狸庵先生こと遠藤周作さんが、人生は楽しくもあり苦しくもあり、 「たのくるしい」 と言われていたことを覚えています。 以下、 「狐狸庵先生の快刀が『文化と文明』を分かつ」 です。ぜひご覧になってください。

三日遅れの「清明の日に思う」

四月四日から数え、三日遅れの「清明の日に思う」です。 前回が六日遅れの「春分」、そして今回が三日遅れの「清明」です。季節が先走っていきます。すっかり置いてきぼりを食っています。 二十四節気を検索すると、すぐに「清明」が出てきました。聞きなれない言葉です。同じ項には、 「万物発して清浄明潔なれば、此芽は何の草としれる也」(暦便覧) 清明とは「清浄明潔」の略。 と、書かれていました。 出典の「暦便覧」なるものが気になりましたので検索すると、「Yahoo! 知恵袋」で、 mosaic_telomere さん が、質問に答えているサイトが見つかりました。 以下、その URL です。 http://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q13113870773 ベストアンサーに選ばれた回答 mosaic_telomere さん 編集あり 2013/9/2221:32:34 質問者の見た「二十四節気のページ」というのが何なのか不明なので、確実ではありませんが、二十四節気に関する「暦便覧」ということであれば、江戸時代の本のことでしょう。国立国会図書館に蔵書されています。 http://iss.ndl.go.jp/books/R100000002-I000007293578-00 ----以下引用 タイトル こよみ便覧 著者 太玄斎 出版地(国名コード) JP 出版地 江戸 出版社 蔦屋重三郎[ほか1名] 大きさ、容量等 1冊 ; 23cm 注記 白井文庫 注記 装丁 : 和装 別タイトル 歳時暦便覧 別タイトル 暦便覧 出版年月日等 天明7 ----引用終わり 古い本なので、借りてきて手に取って読むことはできないですね。 そこで、国立国会図書館では画像化してインターネットに公開しています。 http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/2536637 7コマ目に二十四節気について記載されています。 大暑についても、質問のように書いてあるようです。 (楷書ではなく、くずし字で書かれていて、私には全部は読めません) 国立...

「悪い予感が的中し、息も絶え絶え!!_中学校教科書改訂」

 思うところあって、昨夜インターネットで検索してみました。  悪い予感はみごとに的中し、今年度中学校の教科書が改訂されることがわかりました。  一気に消沈しました。  小・中学校の教科書は、通常四年ごとに改訂されます。今回の改訂は、平成24年度(2012年度)に次ぐものです。前回は、「ゆとり教育」が改定された「新学習指導要領」の下での改訂でしたので、各教科とも内容が大きく変わりました。簡単にいってしまえば、前回の改訂では、「学習内容や授業時数が三割削減された、2002年度に施行された『ゆとり教育』」以前の学習内容にもどされました。今回の改訂はさほどのものではありませんが、教科書の改訂は私にとっては厄介です。 三学年・五教科の教科書 全15冊、国語と英語の教科書ガイド 全6冊、教科書準拠の国語の問題集 全3冊 をそろえ、読み、書き込みをし、必要ならばプリントを作りと、また教科書が変わればそれに伴って入試問題も変わるでしょうし、先を思うと気が重くなることばかりです。 教科書が一般書店の店頭に並ぶのは、教科書が子どもたちの手に渡ってからのことです。そういう約束事があるようです。書店に尋ねると、今年は 04/15 とのことでした。04/15 までの短い命です。04/15 からは生活が一変します。 「皆さんには全く責任のないことですが、」と前置きをし、「『ゆとり教育』世代のあなたたちは、教育行政の犠牲者であり、失敗作であって、できそこないです」と、私は子どもたちによく意地悪を言ったものです。このことにつきましては、頁改めて書くことにします。 かつて、私立中学に通う塾生がいました。公立の中学校とは異なった教科書を用いる、私立の中学校の生徒さんたちにまで、公立の中学校で使われる教科書が無償配布されているのを知ってあきれたことがあります。もう十年ほども前の話ですが、こんな無駄で不合理、馬鹿げたことが今でも行われているのでしょうか。もったいないお話です。

ブルーノ・ワルター「田園」

2016/02/26 に、 ◇  バーンスタイン「田園」 を購入し、繰り返し聞いていました。しかし、ワルター盤の「田園」のことが、ずっと気になっていました。Amazon の下記の「商品の説明」や「カスタマーレビュー」が頭を離れませんでした。 「商品の説明」 内容(「CDジャーナル」データベースより) ワルターの演奏には常に清楚な精神性のようなものが宿っている。思い入れとか野心とかがなく,スッと耳に入ってくる。端正な響きと肩の力のぬけた表現で刻みこまれる晴朗にして健全なベートーヴェンである。「田園」の原点ともいうべき演奏だ。  体調がすぐれず、寝たり起きたりを繰り返していた時期のことでしたので、他にこれといって楽しみもなく、 ◇  ブルーノ・ワルター 「ベートーヴェン:交響曲第6番『田園』」 コロンビア交響楽団 ソニー・ミュージックレコーズ を 2016/03/24 に購入しました。衰弱しており、ワルター盤とバーンスタイン盤を聴き比べる気力もないままに、明けても暮れても、寝ても覚めても、ワルターの「田園」の心地よさに身をまかせていました。そんなこんなで三か月が過ぎ 、七月を迎え、久しぶりにバーンスタインの「田園」を聴きました。その速さに戸惑いを覚えました 。それは MacBook Pro やその他の周辺機器の不具合に起因するものではないか、という疑念を抱いたほどでした。バーンスタインの「田園」は目まぐるしく、せわしなく、性急です。先を急ぎ、待っていてくれません。置いてきぼりを食います。演奏によってこうも違うものか、という愚ともつかない稚拙な感想をもちました。バーンスタインのおしゃべりと、ワルターの寡黙。しばらくの間、バーンスタインの「田園」はおあずけです。 Amazon「 トップカスタマーレビュー」より、 5つ星のうち 5.0 とにかく聴いて欲しい! 投稿者 ねじまき鳥 投稿日 2007/3/21  これが50年前の演奏とは信じられない。音質が素晴らしすぎる。まさに奇跡としか言えません。なんと美しく、温かく、幸福感に包まれた演奏だろうか。40分があっという間に過ぎる。聴き終わった後は、音楽って本当に素晴らしいという喜びで満たされる。生きる希望さえ湧いてくる。クラシックに興味がない人...

西江雅之「翻訳とは『演奏』である」

西江雅之『「ことば」の課外授業』洋泉社 † 翻訳とは「演奏」である  言語は互いに「置き換えられる」という話と「翻訳」の話とは大いに違うんです。  翻訳というのは、ある言語で表現されたことを、意味の上でも形の上でも原文に近い形を保ちながら、ほかの言語に置き換えることです。その置き換えは、制約の中での一種の「演奏」なんです。つまり、本来の文章をいかに訳すかは、翻訳者の腕によるわけです。 (106-108頁) ◇  須賀敦子「翻訳という世にも愉楽にみちたゲーム」(全) を書きました。「翻訳とは『演奏』である」と、西江雅之先生にこんな風に上手に表現されてしまうと、脱帽するしかありません。 「翻訳」は「演奏」です。創造的な行為によって、楽譜は音に昇華され、立ち上がっていくわけですから、それは「愉楽にみち」ていることでしょうし、またそれは、楽譜から逸脱することは許されないという、一定のルールの下で行われる「ゲーム」にも似ています。 一定のルールにさえしたがえば、あとは自由です。自分の裁量で動くことができます。  西江雅之『「ことば」の課外授業』洋泉社』は、2003/04/21 に出版され、時を同じくして読んだのですが、全く記憶にありませんでした。うかつでした。が、そのかいあって、再び喜びを味わうことができました。

西江雅之「人間だけがちぐはぐだ」

西江雅之『「ことば」の課外授業』洋泉社』 † 人間だけがちぐはぐだ   それから六番目が、「分離性」です。  たとえば犬が怒っているとき、声も「ワンワン!」と怒っています。それだけではなく、目も怒っている、耳も立っている、尻尾(しっぽ)まで体の毛が全部逆立っている、といったように、犬が伝え合いに使っている身体各部は、全部同じ意味の方向に向かっています。自分のうちの猫の喉(のど)をなでているときに、ゴロゴロゴロゴロ言って、目はすごく喜んでいるのに、尻尾だけがぴんと立って緊張しているというのはありえないわけです。  ところが人間の場合、口では「はい、わかりました」と言っていても、顔は「やだなあー」という表情をしているとか、足は震えていて相手をまったく拒否しているとか、そのようなことはザラにあります。学校で先生が、「明日、わたしのところに来て図書の整理を手伝ってくれますか」と言ったら、行かないとちょっとまずいことになるのではと思って、口では「喜んで参ります」と言っているけれど、顔はこわばっているとか、足はちょっと貧乏ゆすりをしているとか(笑)。これが普通なんです。すなわち、人間はやや分裂気味なんですね。  犬も猫もサルもライオンも、そんなことはありえない。人間は、していることがちぐはぐなんです。ここのところをもう一歩進めて言えば、実はその中の一部は本音を表わしてしまっているということにもなるんですね。こうしたことを「日常性の誤り」と言うんで すが、本当はふと出してしまった本音なんです。当人は気づけば「しまった!」と思うんで しょうが、だいたい気がつかない場合が多いんですね。口では「喜んで参ります」と言ったのだから、そのまま相手に伝わっていると思っているけれど、相手の方は、「ああ、この人いやがってるんだなあ」と、すぐに感じ取ります。 (158-159頁) 「面従腹背」。この人間のこころ と体の 「ちぐはぐ」さこそが、『生まれ出ずる悩み』 の源泉であることは、理解しているのですが…。

小林秀雄「学問をしたいというのは、人間の本能ですからな」_追記

2016/03/14 に書いたブログ  小林秀雄「学問をしたいというのは、人間の本能ですからな」   が好評ですので、下記の「音声ファイル」を添付しました。相当箇所は、 15分38秒からです。ぜひ小林秀雄さんの声をお聞きください。小林秀雄さんの講演を評する際には、よく古今亭志ん生さんの落語が引き合いに出されます。それほどまでに愉快です。名人芸 です。 小林秀雄「学問をする面白さは女遊びどころじゃない」(Google ドライブ 音声ファイル) 小林秀雄「学問をする面白さは女遊びどころじゃない」(iCloud Drive 音声ファイル) 2016/03/14 のブログは、 小林秀雄『学生との対話』国民文化研究会・新潮社編  からの引用です。『学生との対話』は、小林秀雄さんの「 〝 話しことば ″ を、文字という形で 〝 言語 ″化 」したものです。「ことば」を「言語」として書き留めたために、多くの情報が抜け落ちてしまいました。また、『学生との対話』は、講義 の逐語記録ではなく、編集されていますので、なおさらのことです。小林秀雄さんの「ことば」にぜひ触れてみてください。 追伸: 私としては、 小林秀雄「学問をしたいというのは、人間の本能ですからな」   よりも、 小林秀雄「学問をする面白さは女遊びどころじゃない」 の方がずっと面白いと思うのですが…。いかがなものでしょうか?

昨今しきりに思われる_『ゴンドラの唄』

歌詞とともに黒澤明監督、志村喬主演『生きる』とが重なり、近頃しきりに『ゴンドラの唄』のことが思われます。20年あまりも前に買った、おおたか静流さんの歌う『ゴンドラの唄』が手元にあります。 おおたか静流『リピート・パフォーマンス』テイチクエンタテインメント 「 ゴンドラの唄 」 1915年 (大正4年) 吉井勇 作詞。 中山晋平 作曲。 いのち短し 恋せよ乙女 あかき唇 あせぬ間に 熱き血潮の 冷えぬ間に 明日の月日は ないものを いのち短し 恋せよ乙女 いざ手をとりて かの舟に いざ燃ゆる頬を 君が頬に ここには誰れも 来ぬものを いのち短し 恋せよ乙女 波にただよう 舟のよに 君が柔わ手を 我が肩に ここには人目も 無いものを いのち短し 恋せよ乙女 黒髪の色 褪せぬ間に 心のほのお 消えぬ間に 今日はふたたび 来ぬものを

年のはじめに_辰濃和男「セーカイセーカイダイセーカイ」

  辰濃和男『四国遍路』岩波新書 (136-141頁)  お遍路をはじめてから、いつのころからか、夜、宿で夕食を終え、床につき、天井を見上げながらセエーカイセエーカイダイセエーカイとつぶやくことが多くなった。子どもじみた話で気恥ずかしいことだが、漢字で書けば「正解正解大正解」である。    今日もいろいろあったけれども、まあ、なんとかいい一日を過ごすことができたと思う。失敗も数々あったが、上出来の日だったと思いこむ。自分をそう思うように仕向ける。そのための呪文がこれだ。お参りしながらナムダイシヘンジョウコンゴウ、ナムダイシヘンジョウコンゴウ、セエーカイセエーカイダイセエーカイとなってしまうことが再三あった。  どちらの道を行こうか、どこまで歩いて行こうか、どの宿にしようかと迷うことがある。どんなに迷っても、一度きめてその道を選び、一度きめてその宿を選んだ以上は、その選択が「正解正解大正解」だったと思う。そう思いこむ。選択が間違っていたかどうかなどといつまでもぐじぐじ考えず、まずは正解だったと思う。それも一つの修行だろう。  セーカイセーカイダイセーカイというつぶやきがでてくる。迷ったからこそ、いまこの小宇宙に独りでいることができる。深い山の懐にあって、雲の流れをこころゆくまで眺めることができる。見渡す限り、人の姿はなく、山々は深い沈黙のなかにある。なんとぜいたくなことだろう。これこそ、大正解でなくてなんだろう。そんな感じをもった。   この世に生きていれば、迷うことばかりだ。小さな迷いもあり、大きな迷いもある。迷わない、という人がいればそれは自分を偽っているのだ。迷ったら、立ち止まればいい。立ち止まって新鮮な空気を思いっきり肺に流し込めばいい。迷ったことで初めて得られる体験、というものがあると思えばいい。  迷って遠回りをすることを恐れることはない。百の道のうち一つを選ぶということは、九十九の道を失うことになるのだ。失った九十九の道に執着することはない。どの道を選んでも、たくさんの道を失うことに変わりはない。それよりも、自分が選んだ道を楽しむことだ。  私たちは日常の暮らしで、迷うことを恐れすぎているのではないだろうか。  いまはもう消えてしまったらしく、見つけることができなかったが、昔、四十三番明石寺に...

年のはじめに_「そりゃ、あんたさん、なりふりかまわずですぜ」

辰濃和男『文章のみがき方』岩波新書 (237-238頁) 内田百閒「そりゃ、あんたさん、死にもの狂いですぜ」の向こうを張って、 「そりゃ、あんたさん、なりふりかまわずですぜ」。 「内田百閒の信者」だと自称する随筆家、江國滋はこう書いています。  「あの名文をどんなふうにして書くのかと問われて百閒先生いわく。  『そりゃ、あんたさん、死にもの狂いですぜ』」  さらさらと一気に書いたように見える百閒の文章は、「死にもの狂い」の産物だったのです。

年のはじめに_白洲正子「遊鬼」

『梁塵秘抄』より 遊びをせんとや生まれけむ 戯(たわぬ)れせんとや生まれけん 遊ぶ子供の声きけば  我が身さえこそ動(ゆる)がるれ 白洲正子さんは、『 遊鬼―わが師わが友 』という本を書かれています。「遊ぶ」ことは一大事です。「一所懸命」ということです。「極道」ということです。「遊戯三昧」ということです。「遊ぶ鬼」と化したいものですね。

年のはじめに_小林秀雄「我事に於て後悔せず」

小林秀雄『私の人生観』角川文庫 より 宮本武蔵の独行道のなかの一条に「我事に於て後悔せず」という言葉がある。 (中略)  今日の言葉で申せば、自己批判だとか自己精算だとかいふものは、皆嘘の皮であると、武蔵は言っているのだ。そんな方法では、真に自己を知る事は出来ない、さういふ小賢しい方法は、むしろ自己欺瞞に導かれる道だと言えよう、さういう意味合いがあると私は思う。昨日のことを後悔したければ、後悔するがよい、いずれ今日のことを後悔しなければならぬ明日がやつて来るだろう。その日その日が自己批判に暮れるような道をどこまで歩いても、批判する主体の姿に出会うことはない。別な道がきっとあるのだ、自分という本体に出会う道があるのだ、後悔などというおめでたい手段で、自分をごまかさぬと決心してみろ、そういう確信を武蔵は語っているのである。それは、今日まで自分が生きて来たことについて、その掛け替へのない命の持続感というものを持て、といふことになるでしょう。そこに行為の極意があるのであって、後悔など、先き立っても立たなくても大したことではない、そういう極意に通じなければ、事前の予想も事後の反省も、影と戯れるようなものだ、とこの達人は言うのであります。 『近代文学』昭和二十一年二月号、座談会にて 「僕は無智だから反省なぞしない。利巧な奴はたんと反省してみるがいいじゃないか」 自戒の意味を込めて…。 過去のできごとに拘泥して反省ばかりしていると、「今」というかけがえのない時間が、ないがしろにされてしまいます。「今」という時間が「過去」に置き換えられてしまいます。反省という、いつの間にか刷り込まれてしまった、つまらない悪徳はいいかげんにしてやめるのが賢明です。

年のはじめに_小林秀雄「本当に、死が到来すれば、万事は休する。」

小林秀雄最後の対談「歴史について」考える人 2013年 05月号 新潮社 (32頁) 「繰り返して言おう。本当に、死が到来すれば、万事は休する。従って、われわれに持てるのは、死の予感だけだと言えよう。しかし、これは、どうあっても到来するのである。」 ー「本居宣長」より 昨年よりインターネット上で自己主張をはじめました。それからというもの、残された時間について、死について思うことが多くなりました。当年とって五十四歳。人生の折り返し地点をとうに過ぎ、少なからぬ危機感を抱いています。焦燥感にまとわりつかれています。身辺の整理を、優先順位をつける必要を感じています。

「嘘も突き通せば真実になる?」

エイプリルフールにちなんで。 本当に、「嘘も突き通せば真実になる」んでしょうか? しかし、 嘘を嘘だと認識している自分だけは、ごまかすことはできませんよね。

「今日はエイプリルフールですね」_ウソかマコトか?

今日はエイプリルフールですね。人を煙(けむ)に巻くにはもってこいの日ですね。 実は、 2016/03/20 に、今シーズンはじめてブラックバスを釣りに出かけました。「 2016年 開幕シリーズ」の幕開けです。向かった先は、例によって「立ち入り禁止」、「釣り禁止 」の禁断の P池です。夜間に釣行しました。 昨秋からの一連の「池干し」騒動で、 『Silent Spring』 ( レイチェル・カーソン『沈黙の春』新潮文庫 ) 「"Silent spring” means"a spring without life”」 「生命なき春」 か、との懸念を払拭することができずに、のぞんだ開幕戦でした。 まっ先に命に触れたくて 、ダウンショットでピンポイントをねらいましたが、池の底に群生するオオカナダモにはばまれて、ワームを動かすことができずに敗退しました。底が取れないならばと、サーフェース、サブサーフェースへとねらいを変え、 Stroud 43R-F イトウカラー を投げると、早速 アタリが ありました。命は息づいていました。生命 に触れ、命の躍動を感じたことで胸をなでおろしました。 そのまま Stroud を投げ続けること数投目にして、 Stroud に 今季初のバスが飛びついてきました。Stroud をくわえたちびっ子バスは、春まだ浅き、ということなのでしょうか、 凍てついたような寒々とした乳白色をしていました。その後、 BAVY PENCIL にアタリが1 、WAVY 50S  チャートバック オレンジベリー で釣果2、 というでき過ぎの開幕戦でした。 真冬の衣装を着込んでのぞんだもののまだ寒く、手の冷たさには閉口しました。 帰路暖をとるためにマクドナルド一号線殿田橋店さんに駆け込み、一人反省会をしました。 以降、昨日で10戦の「 2016年 開幕シリーズ」をこなしました。すべてが夜間、または深夜釣行です。12日間で10戦です。ハードです。過密です。 「釣り」が目的というよりも「ベイトリールのセッティング」が主目的です。セッティングには、今しばらく時間がかかりそうです。元気に今夜も出かけます。頑張って明晩も釣行する予定です。 夜な夜な足繁く通い詰めます。 ウソかマコトか? 今日は...

「iPhone SE がお目見えしましたね」その一

家電量販店で、今日発売された iPhone SE を見てきました。 キーワードは、 「伝統美」 そして、 「SIMフリー化時代のお手ごろなお値段」 です。 ほんの短時間垣間見ただけの私の印象です。 To be continued.

「明日はエイプリルフールですね」

明日は、エイプリルフールですね。エイプリルフールから、新年度がはじまるのは意味深長です。 下記、ウィキペディアより、 エイプリルフール です。 エイプリルフール( 英語 : April Fools' Day )とは、毎年 4月1日 には 嘘 をついてもよい、という風習のことである。4月1日の正午までに限るとも言い伝えられている [1][2] 。英語の"April Fool"は、4月1日に騙された人を指す。 エイプリルフールは、 日本語 では直訳で「 四月 馬鹿 」 [3] 、 漢語 的表現では「万愚節」または「愚人節」、 フランス語 では「プワソン・ダヴリル」( Poisson d'avril, 四月の魚)と呼ばれる。

六日遅れの「春分の日に思う」

三月二十日から数え、六日遅れの「春分の日に思う」です。 ご無沙汰のしっぱなしで申し訳なく思っております。 寝たり起きたりして過ごしていた 、このひと月あまりのブランクは予想外に大きく 、生活全般、またブログに関しましても、メールにしましても、問題が山積しており困惑しております。 平癒しつつあります。今はこれといった受診するほどの症状もなく、リハリビ中です。なにをするにつけても億劫で、根気がなく、疲れてすぐに横になってしまいます。 生活にリズム感がありません、というよりも、今までどのように過ごしていたのかを思い出すことができません。 出直します。 一定の 回復を待って、「地下足袋で歩きながら、つらつらと」考えた、よしなしごとを書き留めようと思っています。その前哨戦として、「釣り道具」と戯れようかとも考えています。私の作業療法です。池では春の訪れを敏感に感じとっているお魚さんたちが待っています。「地下足袋をはいた漁師さん 」も一興かなとも思っています。 下記、2016/03/23 に、P教授よりいただきましたメールのさわりの部分 です。 「今年から、丸儲けぞよ、娑婆遊び」 「リミターを外して、異次元の世界へ」 ぜひ、ご一緒させてください!お供します!!「遊鬼」と化しましょう!!! お便り、どうもありがとうございました。 では、では。 時節柄くれぐれもご自愛ください。 TAKE IT EASY! FROM HONDA WITH LOVE.

バーンスタイン「田園」

レナード・バーンスタイン「ベートーヴェン:交響曲第6番『田園』、第8番」 ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団 ユニバーサル ミュージック クラシック 「究極の指揮者はふらない」ということで、バーンスタイン「田園」を買いました。言葉に頼らざるをえない自分を情けなく思っていますが、紛れもない事実ですので、受け容れるしかありません。 茂木健一郎 / 江村哲二『音楽を「考える」』ちくまプリマー新書 江村 音楽の世界なら、バーンスタインが言っているけれども「自分が指揮者になれるか、自分に指揮者の能力があるかどうか、など考えたこともなかった。ただただ音楽が好きで好きで仕方なくて音楽をやっていた」と。実際にウィーン・フィルのコントラバス奏者から聞いたのですが、バーンスタインの振る指揮棒は、全然テクニックがないらしい。でもそれでいいんだと言う。「テクニックなんて全く持ってない。ただハートがすばらしい。あの人が来るだけで、あのハートに酔っちゃうんだ」と言っていました。 茂木 バーンスタインについては同じような話を僕も聞いたことがある。前に立つだけで音楽が変わっちゃうって言いますね。 江村 あの人が出てくると棒なんてものは、はっきり言っていらないんだって(笑)。 茂木 江村さんのご友人の大野和士さんも、先日私が司会をしているNHKの番組( 『プロフェッショナル 仕事の流儀』)に出られたときに、「最後は指揮者は振らなくていいんだ。究極は、じいっと彫像のようにそこにいるだけで音楽が変わるということが指揮者の理想なんだ」と言っていました。 Amazon より 商品の説明 メディア掲載レビューほか バーンスタイン指揮、ウィーン・フィルハーモニーによる、牧歌的な楽想が横溢し自然に対する讃美と伸びやかな感情に彩られた、標題音楽的な書法による巧みな描写が印象的なヒューマニズム溢れる《田園》と、愛らしいユーモアさえ感じさせる、古典的で小規模な第8番を収録。 (C)RS トップカスタマーレビュー 5つ星のうち 5.0 モダンオケのすばらしさ・・・ 投稿者 ルネ 投稿日 2013/10/7  往時に大絶賛されていた全集のこの曲も8番とカップリングでこの値段ですか、いい時代になったものです。  それはさておき、この演...

長田弘「再読は友情の証」

長田弘「再読は友情の証」 長田弘『読書からはじまる』日本放送出版協会

小林秀雄「学問をしたいというのは、人間の本能ですからな」(音声ファイル)

 まあ、学問をしたいというのは、人間の本能ですからな。学問をしたいのが本能じゃなくなったのは現代ぐらいのもんです。(会場笑)。今は、ただ黙っていたって教えてくれるのだから、学問への欲望がなくなるのですよ。昔は黙っていたら教えてもらえないし、学問の機会もなかなかなかった。子どもの頃に、人生とは何ぞやなんて疑問が起こっても、誰も教えてくれないから、これは非常に熱烈なものになるのです。だから、京都のどこかにそれを教えてくれる人が出たとなれば、千里を遠しとせず、学びに行く。豆の袋を背負って、豆ばかり食べながら仁斎の講義を聞いたという人がいます。なにしろ面白いことが聞けるんだから、食うものは豆で充分なのです。仁斎の塾はそういう塾だった。  仁斎というのは、ご存知のように、その頃のアカデミーの学問に大反対をした学者です。つまり、学問をするから百姓がうまくいく、それが学問というものだろうと言った。いくら学問をしたって百姓の仕事に何の足しにもならん、町人の仕事にも何の足しにもならん。そんな幕府の学問というのは学問ではないと言い放った人です。学問とは、人間がどうやって生活したらいいか、その根本を教えるものだ。そういう学問なら、百姓にでも町人にでも役立つはずだな。 小林秀雄『学生との対話』国民文化研究会・新潮社編 (75-76頁) 「小林秀雄はかくも親切で、熱く、面白く、分かりやすかった!」 ぜひ小林秀雄さんの声をお聴きください。 ◇相当箇所は15:38 からです。 小林秀雄「学問をする面白さは女遊びどころじゃない」(Google ドライブ 音声ファイル) 小林秀雄「学問をする面白さは女遊びどころじゃない」(iCloud Drive 音声ファイル)

小林秀雄「直覚と分析」

小林秀雄『学生との対話』国民文化研究会・新潮社編 「小林秀雄はかくも親切で、熱く、面白く、分かりやすかった!」  両方使えばいい。直覚も分析も使えばいいのです。ベルグソンの分析というのはきわめて鋭いですよ。あなたがお読みになっても、そう思うでしょ?直覚したところを分析するんです。けれど、分析したところは直覚にはならない、とベルグソンは言っているだけです。逆は真ではないと言っているだけです。分析から直覚に行く道はない。でも、直覚から分析に行く道はあるんです。科学者も実はそれをやっているのです。  科学者の実際の仕事を見れば、僕らの知っている科学などというものは、これはもう子どもです。彼らの仕事そのものの中に入ってみますと、やはり立派な科学者は非常な直覚力を持っています。 (中略)  そんなふうに直覚から分析に行く道はあるけれども、分析からは先がないとベルグソンは言っているだけで、分析を決して軽蔑しているわけではない。分析がなければ、科学なんてありません。哲学もありません。というのは、概念というものに頼らずには、人間は論理的に話すことができないんです。ただ、直覚というものがなければ分析は始まらないとベルグソンは言っただけなんです。 (80-81頁)