朝デジ通信「身内が『亡くなる』」


身内が「死ぬ」。私は「亡くなる」といいます。けっして「死ぬ」とはいいません。「死ぬ」は、露骨で、いかにも生々しいからです。あからさまで、有無をいわせず、忌避できないのが死です。私は死を直視することを避け、受容することができずに、そっぽを向いているだけのかもしれません。

 2017年4月11日 朝デジタル通信(メールマガジン)
(ことばの広場 校閲センターから)身内が「亡くなる」
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 身内の「死」を他人に伝える際に「亡くなる」と言うのをよく聞くが、私はためらいを感じる――。読者からそんなご意見をいただきました。
 筆者も今年初めに身内を見送った際、尊敬語のように感じたので「他界しました」「息を引き取りました」を使いました。
 「亡くなる」は、広辞苑によると「人が死ぬことを婉曲(えんきょく)にいう語」。自分自身のことには使いませんが、身内なら誤用とは言えないはずです。なのに、違和感も確かにあります。
 人が死ぬことを示す表現は、あの世に行く、息が絶える、往生する、お隠れになる、帰らぬ人となる、逝去する、天に召されるなど、たくさんあります。新聞記事では「死亡する」「死去する」が多く使われます。
 「日本語 語感の辞典」(中村明著)は、「死ぬ」は最も一般的な日常語で明確な直接表現で、露骨な感じを避けるために「なくなる」や「永眠する」など様々な間接表現が使われてきたと説明します。ただ、そうした婉曲表現も使われるうちに死の意味と直結するようになり、また新たな間接表現を次々生み出してきた、とのことです。
 身内の死を「亡くなる」と言うことについて、関西大文学部の森勇太准教授(日本語学)は「死の直接的な表現を避けたもので、私は違和感がない」と話します。江戸時代にも「親父が死去(なくなり)ました」と振り仮名が付いた文学作品があるそうです。
 同様に、身内に関して第三者の立場に立ったように言う表現には、自身の夫や妻に「さん」付けして「旦那さん」「奥さん」と呼ぶ例などもあります。自身の子に物を「やる」と言わずに「あげる」と謙譲語を使う表現も、よく耳にします。
 これらも違和感を指摘されますが、森准教授は「言葉が気軽に使われる中で、本来の意味より会話相手との一体感を重視して選ぼうという意識が反映しているのでは」とみています。
(田中孝義)


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「自身の子に物を『やる』と言わずに『あげる』と謙譲語を使う表現も、よく耳にします」は、いかがでしょうか。私は「あげる」といいます。また、私は男だてらに「おいしい」といいます。吉田健一が強く戒め、誤用だとは承知しているのですが、男言葉の「うまい」とはいえません。また、私は「食べる」という女言葉をつかいます。男言葉の「食う」とはいえません。私の「語感」のなせるわざです。