『倉本聰私論』_「3. その底流にあるもの」(19/21)


「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
「第三章 倉本聰その底流にあるもの」

「3. その底流にあるもの」(19/21)
 ご両親は敬虔なクリスチャンであった。倉本聰は幼児洗礼を受け、日曜学校へ「有無を云わさず通わされた」。ところが、中学、高校へと進むにつれて、その足はしだいに教会から遠のいていった。そして、ついに「キリスト教と縁が切れた」(32) と倉本聰はいう。
 キリスト教について、仏教について、老荘思想について、またアイヌ民族の思想について、私は通り一遍の知識しかもちあわせていない。したがって、非常に生半な、おぼつかない物言いになってしまうのであるが、はばかることなくいわせてもらえば、私は倉本聰のなかに、西洋というより東洋を、キリスト教的なものというよりむしろ仏教的なものを直感する。もうすこしいえば、、それは禅や老荘思想につながるものである。そして、北海道富良野市六郷に居を構えている倉本聰は、アイヌ民族の思想に関心を寄せ、また多分に影響を受けている。

 「自然を保護するという言葉の中には、人間を強者、自然を弱者と見なしてしまっている根本的錯覚と傲慢の姿勢がのぞいているように思えてならぬ。昔アイヌは自然を神とした。人はいつから『神』を『保護』する偉い存在に成り上がったのだろうか。百歩譲って自然を神ではなく、一つの人格と考えてみようか。僕はその時巨人を連想する。無限の純粋さと正義と力。それらを内にしっかりと秘めながら無口で不器用でじっと耐えているそういう男の姿を想像する。僕はたとえばそういう男に、『保護』という言葉はとても使えぬ。彼に対して僕の想うのは畏怖であり尊敬であり従属でありそして憧れだ。僕は彼から愛されたい。愛されて初めて僕らの生はその片隅に許されるのではあるまいか。まず、そのことをもう一度考えたい。そしてそこから更めて始めたい。巨人に健康でいてもらうことをーー」(33)

 ニングルは「身の丈凡(およ)そ一五センチ」。「平均寿命二七0年」。北海道は「富良野市六郷の背後に拡がる」「樹海(東大演習林)のどこか奥深く、人間社会から隔絶された場所」の住むという実在する「小人(こびと)」である。
 『ニングル』は、ニングルについて書かれた本である。手記である。「倉本聰の’黙示録’」である。
 ニングルの生き方、思想、哲学は、倉本聰の内なるものとみごとに符合し、響き合い、こだまし合った。倉本聰は、ニングルとの触れ合いを通して、自らの内なるものをはっきりと自覚した。『北の国から』の底に、力強くも静かに流れていたものが、『ニングル』において再確認され、さらなる発展をとげた。
 テレビ・シナリオという、ある種洗練された形で小出しに提出されたものが、『ニングル』においては、荒々しい原始の姿そのままに息づいている。
 『ニングル』は、倉本聰の思想の原点が記された作品である。
 ニングルは神様の近くで生きている。暮らしのテンポを「森の時計に合わせ」、自然とともに生きている。「あらゆる文明、あらゆる理屈、ーー混沌、複雑、詭弁、欲望。文化と云われる一切のものから純粋に隔離され」て生きている。「知らん権利」と「放っとく義務」とを「生活(の)信奉」として生きている。
 「『知らん権利』と『放っとく義務』。
 それは現在の日本人社会とは将(まさ)に対極にある思想ではないか。
 人間はその逆『知る権利』をふりかざし、ひっそり生きる者の神聖な領域へまでずかずか土足でふみこんでくる。人間は放っとく義務など持てない。自分に関わりない他人のことへまで、放っておけなくてしゃしゃり出てくる。ヒューマニズムとか正義の為とか適当な言葉を探し出し掲げて。」(35)
 「先生。(ニングルの長(おさ)の、倉本聰への呼びかけである。以下、ニングルの長の語ったことばである)
 人間が社会を作るとき、権利と義務という言葉を口にする。
 あれはそもそも人間の言葉でない。
 あれはそもそも神様の言葉だ。
 神様が自然をお創りになったとき、自然が永続して行く為に、権利と義務という言葉を作られた。
 あらゆる動物、あらゆる植物が、自然の中で生きて行く為に、それぞれの権利と義務を持たされた。
 今猶(なお)みんなそれを守っています。
 守っていないのは人間だけだ。
 人間だけが権利のみ主張し、自らの負うべき義務を果たさない。
 これは大変まずいことです。」(36)
 
「知らん権利」とは人間の「知識欲を忌(いま)わしいものとしてぴしりと封じ」ることである。
   「知識はすすンでも心はすすまんべ。」
  「考えてもみなさい、色んなこと知ってさ、知った分人は倖せになっとるか?」
  「倖せになることもそりゃあるだろうが、知って不幸になることも多いぞ?・」(37)
 「だったら元から知らんようにして、耳ふさいで生きるのも利巧かもしれん。イヤ、それで倖せに生きとるンだったら、その方がいいようにわしも思うンだわ」
 「先生、わしゃあ最近思うンだが、知らん権利ちゅう妙な言葉を奴ら(ニングルたち)がしきりと使う理由は、人間を見てきた結果とちがうかな」
 「あいつらは人間の三倍は生きる。人間の歴史をじっと見てきとる。もしかしたら人間自身なンぞより人間をよう見て考えとるかもしれん」(38)
    造園業を営む井上みどりさん、通称「井上のじっちゃん」の倉本聰へのこの金言は、倉本聰の我々への寸鉄でもある。
 「知らん権利」と「「放っとく義務」とは、同じものごとの表裏をなすものである。頭をつかうことなく放っておくこと。自我を捨て自ずからなものに由ること、自由になること。自然(じねん)に生きること、自在に生きること。ここに私は焚き染められたふんぷんたる抹香臭さを感じる。
 衆生悉有仏性ーー生きとし生けるものすべてに仏は宿っているのである。小賢しい頭をめぐらせ、知る必要はないのである。人為を捨て、安心してたたずんでいればよいのである。
 「知らん権利」と「放っとく義務」の意味するところであると思う。
 「諦める」とは「明らめる」ということであり、それは「諦観」へとまっすぐにつながっていく。

 「それとね、これもいえるんですよ。天災にたいしてねーーあきらめちゃうですよ。何しろ自然がきびしいですからね。あきらめることになれちゃっとるですよ。だからーーたとえば水害にやられたとき、ーー今年やられましたよ北海道さんざん、ーーめちゃめちゃにやられてもうダメッちゅうときーーテレビ局来てマイクさし出されたら、みんなヘラヘラ笑っとるですよ。だめだァって、ヘラヘラ笑っとるですよ。あきらめちゃうですよ神様のしたことには。そういう習慣がついちゃっとるですよ。だからねーー」。(39)
 「北海道の人々は自然の中で暮しているから、ある天災が起きたときあきらめる術(すべ)を知っている。神の所業に、運命に対し、甘受すること、あきらめること、それを習慣として身につけている。だから。もしそれが天災でなく、仮りに人災であったとしても、運命として呑みこむ、事態を甘受する。
 都会ではどうか。そうはいくまい。
 都会は、都会のマスコミたちは、あらゆる事態に責任者を求める。犯人を求める。犯人を決めねばどうしても気がすまない。犯人を制定し、その名を掲(かか)げ、徹底的に彼をしごきあげ、彼を社会から葬り去るまで叩きに叩いて潰(つぶ)さなねば気がすまぬ。
 殺伐陰惨たる村八分の儀式。
 正義のマスコミはそれを完遂する。
 都会では今やその如く見える。だが村はちがう。村はむしろちがう。
 村には運命を甘受する智恵、度量、風習、胆力が生きている。」(40)
 倉本聰のいう「諦める」とは、大いなるものに身を任せるということである。ものごとに執着しないということ。拘泥しないということ。これはこれでよし、とすること。それはそれでよし、とすること。過去を引きずらないということ。未来を引きこまないということ。今に留まるということ。今に丁寧に生きるということ。今を感じるということ。
 倉本聰は「神」といい、「仏」とは決していわない。しかし、私には、倉本聰の「神」は、どうしても「仏」と響くのである。
 「人は仏心の中に生まれ
  仏心の中に生き
  仏心の中に息を引きとる」(41)
 円覚寺の朝比奈宗源老師が口癖のようにいわれたことばを、紀野一義が書き留めたものである。
 「諦める」とは任運自在に生きるということである。私たちは、今、ここに、安心してたたずんでいれば、それでいいのである。

 倉本聰は「バカ」に「稚気」という漢字を当てる。
 昭和五六年十月二六日、「空知川イカダ下り大会」でのことであった。
 「河原は既に花園のようだった。
 いい齢をした男たちが笑い、そうして夢中で夫々のイカダを組み、女たちは興奮し、そしてはしゃいでいた。
 田中邦衛が僕に囁いた。
『先生、これはすごいことだね。こんだけの大人がこんだけ夢中にさ、マジに稚気(バカ)やるべく集るっていうのはさ、ーー先生、富良野って素敵なとこだね』
 そうなのだ。
 稚気(バカ)こそ貴重なのである。
 大の大人たちが一文にもならない、かなりバカバカしいこの祭典に子供のように目を輝かし何日も準備して大真面目に参加する。
 すてきではないか。
 わくわくするじゃないか。
 何発かの花火が空に舞い上り、数百の稚気(バカ)たちの熱い興奮が一挙にぐうんとエスカレートした時、稚気(バカ)を代表するわれらのチャバ(茶畑和昭氏)のスタートを告げるアナウンスがあり、そうしてイカダたちは空知川に流れた。
 ダムを放流した結構な流れに、富良野の夏は一気にフィーバーした。」(42)
  他の箇所での表記はすべて「馬鹿」であり、「稚気(バカ)」は、この本(『北の人名録』)のこの箇所にだけみられる特有の“漢字づかい”である。しかし、倉本聰の書く「馬鹿」には、いずれも“稚気”の意味合いが色濃く反映されており、「馬鹿」は「稚気」と表記されても一向にさしつかえのないものばかりである。
 「稚気(バカ)」は、倉本聰を解く際のキーワードである。
 倉本聰は「稚気(バカ)」が好きである。そして、軽率にも「稚気(バカ)」に感じ入り、感動さえおぼえてしまうのである。
 「宴が果て宿まで帰るべく、一同が小雨の中へ出て行くと、トシオがキャッと声を立てた。
 森の中の闇の太い木の枝から、等身大の人形が下っていた。
 それはざんばらの首を吊り、白いかたびらを着た一件であって恨めし気に目を剥き風に揺れていた。
 『コレデスヨコレデスヨ。これだからイヤですよ。あんちゃん(倉本聰のことである)これチャバがやったンでしょう』
 先刻闇の中に見た二つの影を僕は思い出し思わず吹出した。風呂から上って寝るとこだったチャバは僕らの宴に花を添えるべく、雨の中をわざわざ夫人同伴で幽霊を吊す為にやってきたらしかった。
 こういうところがチャバの偉さである。
 三十五歳にもなってるくせに、こういう馬鹿を徹底的にする。馬鹿の為には骨惜しみしない。そこに感動する。
 馬鹿の鑑である。」(43)
 「馬鹿の鑑」とまで謳われた偉大なるチャバ。そのチャバはあろうことか、倉本聰を軽快に笑いとばす。「稚気(バカ)」の「稚気(バカ)」たる由縁である。
 「なァンも先生、誰だって二度目から始めることは出来ねべさ。一回目は誰だって初体験だ?・」。(44)
 「先生はいつも物事をハナから深刻に考えるからいかん。これまで何だって何とかなっとるべ?・ 何でも最後にゃ何とかなるもンです」。(45)
 「悪い方向へ考えるンでない?・ 悪い方向へ物事を考えると人間段々暗くなる。」(46)
  チャバは徹底して“陽の人”である。
 ことを前にしてことに臆することのない“動の人”である。
 「云うことは常にホラだらけだが、引受けたとなると忽ち寡黙になる。能書きは並べない。黙々と実行する」、“全うの人”である。
 やるときは考えることなく「ただする」、“集中の人”である。
 心を頭の支配下におくことなく、今という刻(とき)に溶けこむ、“ただ今の人”である。物事にひっかかることなく生きるチャバ。自然に育まれた自然(じねん)の人。倉本聰は、こんなチャバのなかに一つの理想をみている。

 チャバが東の横綱ならば西の横綱は、「井上のじっちゃん」である。先にご登場いただいたあのじっちゃんである。
 「井上みどりさんは造園業である。
 みどりという名から想像してはいけない。七十余年の土との闘いが赤銅色の肌にしみこんだ世にもきたなげなじいさんである。いつもMボタンをしめ忘れ、ズボンの前はダラリと開いている。しかし歌人である。粋人である。そうしてチャバをそのまま老けさせたような子供のような純粋な目をしている。
(中略)
 じいさんは時々哲学的言辞を吐く。
 『人は裏切るからやだ。植物がいい?・』
 『盆栽。ありゃあんた見とったんじゃ育たん?・ 睨まにゃダメだ?・ 毎日睨むんだ?・ そうすると相手も緊張してよく育つ』
 『話しかけるのも一つの手だよ。植物、ちゃんときくよ。人の話を』
 『アインシュタインのアイタイセイゲンリから学んだ結果、人には絶対の勝者なンておらん?・ 敗者もおらん?・ だからオラいつも落着いておるの。ヒッヒッヒッ』
 四十数年の僕の人生の中で、こんな哲学を云うものはいなかった。僕は今次第にじいさんに感化され哲学的人間に変りつつある。」(47)
「森はダムだよ、判るか先生(倉本聰をさす)。それも一つや二つ分でない。何十何百のダムを合わせたその位のどでかい水がめだわさ。しかもその水がめは神様が管理しとる」、「神様の管理は凄いもンだよ。近頃はダムもコンピューターつうんかい。プラグラムたら何たら偉そうに云っとるが、神様のプログラムにゃ太刀打ちできねえ。太刀打ちできねえのに偉そうにまァ、水がめ作れ、村つぶせ、それで一方で別の役人がもっと開発だ、森の木ィ伐れ。森伐ることが神様の水がめをよ、ぶちこわしてることにちっとも気づいてねぇ。心臓けずっといて血が出んて騒いどる。判るか?」(48)
 井上のじっちゃんの「吐く」「哲学的言辞」の数々は活字からの借りものではない。それらは自分の肌に直接ふれたもの、自らの実感としてあるもの、自身の内からわき出てきたものである。それらには「七十余年」の人生に裏打ちされた持ち重りのする重みがある。松のことを松から習った確かさがある。竹のことを竹から習った明らかさがある。
 井上のじっちゃんは、自分を超えた大いなるもの、大いなるものにつながった自分をはっきりと見据えている。じっちゃんの「吐く」「哲学的言辞」の数々は、大いなるもの、換言すれば、「空」、「玄」、「本来なる自己」から聴き、学んだものである。私には、そんな気がしてならない。だからこそ、じっちゃんは安心しきって「ヒッヒッヒッ」と高笑いしていられるのである。
 観念を弄することなく、分別知に頼ることなく、実存として生きる井上のじっちゃん。
 「じっちゃんはイモの花だ。ラベンダーじゃない」(49) 
  陸に沈み埋もれるままになっていた井上のじっちゃん、そんなじっちゃんをすくい上げたのは倉本聰であった。
 
 仲世古 おっとし、井上のじっちゃん、市の文化奨励賞受けた。そのとき、先生祝辞を述べたんですが、「井上のじっちゃんが受賞するなんてことは札幌や東京では考えられない。まさに富良野だから」と言ってた。感動しましたね。いい話だった。
 宮川 井上のじっちゃん、先生ずいぶん買ってるね。われわれは全然そんなふうに思わなかった。人を見る目が違う。
 相澤 味のあるじっちゃんだからな。(50)

 「まさに富良野だから」である。
 倉本聰のお膝もとだからである。
 井上のじっちゃんにはかなわない、そんな思いが倉本聰の内でこだましている。
 倉本聰にとって、井上のじっちゃんとは眩(まばゆ)いばかりに輝く「大きなる存在」である。

 昭和五三年(一九七八年)。倉本聰、当年もって四三歳、男盛り。北海道は富良野市六郷に居を構える。
 この地は、この地の人々は、倉本聰を右に左に、上に下に容赦なく揺さぶった。倉本聰は北海道を全身に浴び、ついには富良野は肉とまで化した。
 「東京にいるときは芸能界としか付き合わなかったけど、富良野に来て世の中の見方がまるで変わっちゃいましたね。ここには午前四時から働く世界がある。地元の人たちからいろいろなことを学べる」。(51)
 「なんというか土地の人たちに、大自然の一部として生活している謙虚さがある」。(52)
 「ここには大らかなユーモアとロマンがある。」(53)
  「ユニークなのが多いね。金もうけにつながるとかそんなこと関係なく、なにかおもしろそうだというとワッと集ってくる」(54)
 倉本聰は自然に分け入り「自然(じねん)」を想った。風を感じ「神」を想った。人とふれ合い「本来なる自己」を想ったのである。
 私の考える、倉本聰における、北海道は富良野市六郷である。

 石橋冠は、倉本聰に「十二歳の少年」と「八十歳の老人」を感じるという。
 「ふだん、倉本さんと雑談したり、ばったり出くわして、遊んだりする時、ぼくは十二歳の少年を感じますね。時々、駄々っ子というか、やんちゃというか、未成熟というか、はらはらするくらいの少年の感性のようなもの。一緒にいると自分も知らないうちに、少年時代に戻ってしまうみたいな瞬間がありますよね。それくらい純粋で素直で未来に慄(おのの)いているというか、少年の魂さながらの倉本さんに出くわす時があります。もうひとつギョッとするのは、今度はもう八十歳なのかなと、すべてを見通した達観した老人のような眼を感ずる時がある。驚くべきは、その中間を全く感じないこと。少年か老人か、そのどっちかとつき合っているのではないかと思うのですよ。
 あの瑞々しいロマンチシズムというのは、結局少年と老人の対話なのではないか。少し難しい言い方なんだけれど、少年の心と老人の達観がせめぎ合っているから、倉本ロマンチシズムというのが出てくるのじゃないかと思います。そう思うと、彼の中にある奔放とも思える少年の魂と、すべて見通してしまった老人の達観というか、諦観というか、それの入り混じっている優しいロマンチシズム、あれは倉本さんの持ち味なんだなあと思うし、そのあたりを倉本さんは、無意識にさまよっているのではないか。ーーと思ったりすることがありますね。」(55)
 「十二歳の少年」と「八十歳の老人」。ともに透明度の、また純度の高い存在である。
 俗気にあたる前の、どこまでも澄んだ目をした「十二歳の少年」と、俗塵に紛れ大いなる凡俗として暮らす、優しいほほえみを目もとに、また口もとにたたえた「八十歳の老人」ーー「本来なる自己」の声の届きやすい地平に立つ人たちである。「自己が自己を自己する」ことの、無為にして自然なる、自然(じねん)にして法爾なる生き方の容易な立場にある人たちである。

 茶畑 倉本先生、富良野に入ってきたの、丁度おれのいまの年なんだ。四十三歳…。
 仲世古 へえー、そうか。
 茶畑 結構迫力あったね、あの先生。
 相澤 来た頃はあまり忙しくなかったようだね。いつも麻雀やってた。
 ーーお上手なんですか、(倉本聰)先生は。
 相澤 うまいよ。ただ、ああいう性格だ、血の気が多いから。負けてくると、すぐカァーッとするらしいんだ。まあ、おれからするとやりやすい相手だね。
 茶畑 負けると、倍、倍とかけてくる。
 仲世古 そうだ。
 茶畑 しんけんになっちゃう。マジに遊ぶ。いつだったかな。元旦にバクチ大会やったの。テラ銭というんだから、バクチはお寺でやったんだろうってね、お寺で新年恒例会をかねて開帳したわけ。ヤクザの恰好をしてね。みんな三百万の札束用意してくること。もちろん、上と下だけ一万円札、中身は古新聞。三百枚、揃えて切るんだ。まじめな仕事だね。倉本先生、やる以上は本格的に、正式に、というわけで、本物のバクチ打ちに聞いてきた。
 仲世古 あれだろ。阿佐田哲也。
 茶畑 そうだ。チンチロリンね、本物のバクチは。ところが、これがおもしろくないんだ。それで今年は、いい加減の時、合図すっから別のをやろうと皆で相談して決めていた。そのうち、合図があったんで、おれ、「さあ、このへんで別のバクチに変えましょう」といったら、「お前、そったらもんバクチでない」と怒鳴ったんだ、先生。おれも酔っぱらっているし、かっときて、「てめえ、人のナワバリに来てなにいうんだ!」とやり返した。とたんに、「なに!この野郎!」と投げてきた。見たらドス、本物のナイフ。おれのは子供の修学旅行の抜けないやつ(笑)。このへんで「まあ、まあ」って、だれか止めに入ってくれればいいのにさ、だれもとめないんだ。白けちゃった。
 ーーすごいですね。
 茶畑 二、三日たったら、「悪かった。酔っていた」なんて言ってくるの。それで元に戻る。とにかく、まじめなんだ。
 相澤 倉本先生、冒険的なこと何でも好きなんだ。挑戦する。血がさわぐんだべな。この間、会ったら、今度は十勝岳を馬で越えたいっていってた。そのため馬の稽古しにオーストラリアに行ってきたんだからって。自信ついたって言ってた。
(中略)
 相澤 それから、天塩川をカヌーで下りたいんだそうだ。そんなことできるかな。

 ーーみなさん、カナダに御一緒したのですね。
(中略)
 ーー何日ですか。
 仲世古 十一日間。ミスター・クラモトが来たって、ホテルの社長とか総支配人とかの歓迎会、三日もつづいたの。そしたら、先生、日本語教え始めたの。
 茶畑 とくに女性に教える。
 仲世古 日本語たって三つだけ。「ダイスキ」、「ネタイ」、「クソシタイ」。 
 ーーえっ! 
 仲世古 晩餐会で合唱させるの、女の子たちに。たまげたな。
 宮川 行く度に教えてくるそうですよ、それ。
 ーー奥さま、いらっしゃるでしょうに。
 宮川 ニヤニヤしてた。しょうがないなって顔して。(56)

  ーー演技指導のときはどうですか。
 仲世古 そりゃあ、すごいですよ。意見が対立することってあるでしょう。ふつう、対立しても妥協しますよね、いい加減のところで。先生はまず妥協しないんですよ。
 茶畑 ほとんどぶつかる。一生懸命だから。
 仲世古 ここまでは許せるけど、ここからは許せない、脚本家としての責任だからって聞いたことあります。
 宮川 横で見ていてハラハラすることありますね。
 茶畑 自分が世の中にどれくらい影響力があるかってこと気がついていないんでない?なんか、われわれと同じように怒鳴ったりする。ぶるっちゃうよ、ね。
 仲世古 だからいいドラマできるんだろうけど。
(中略)
 茶畑 先生、怒ってたって気がつかないんでしょ。
 相沢 うん。わかんないな(笑)。
 茶畑 向こうはそうとう頭に血がのぼってるんだ。知らないだけだあ(笑)。(57)

 まさに倉本聰こそ「稚気(バカ)」ではないか。
 「稚気(バカ)」ゆえに、自分を偽ることなく怒るのである。自分を繕うことなく、飾ることなく怒るのである。ところかまわず、なりふりかまわず怒るのである。執拗に怒るのである。無邪気に、健気に怒ることができるのである。

 「一九八一年十一月、『週間朝日』で、倉本さんと対談した。『森の博物誌ーー自然、動物、人ーー 』というテーマだった。その中からの抜粋・・・。」 
 高橋「ところで、倉本さんのいる文化村は、ぼくがデザインしたんだが、本当は、文化人というのは好かんのだよ。だけど、倉本さんはいわゆる文化人じゃないですよ。とにかくあそこでがんばっている。要領が悪いけれども、本物を追っているんだ」
 倉本「それは光栄です」
 倉本「自分は四十何年間、東京のめしを食っちゃって、能力もなくなっているし、いろんなことが退化しているんだけれども、少しずつ自分でやっていると、少しずつ何かが出てくるんですね。」
 高橋「倉さんはばかだから、あそこへ行って苦労してやっている。だけど、そうでなければならんよ。一つの作品を作るなら、いいかげんでつくってはいかんと同じようにね」

 対談のしめくくりが、乱暴な言葉になっていたのに、どろ亀さん、びっくりした。実は、対談前に一杯ひっかけてゆき、対談中もやっていたので酔いのなせる業でもあった。現代の代表作家に、こんな失礼なことをいって、すまなかったと思った。
 やがてできあがった『北の国から』は、すばらしいものだった。数々のシーンの強烈な印象は、どろ亀の目の中に心の中に、今も残っている。
 やっぱり、倉さんにはばかなところがあるから、いい作品ができたんだと、今も思っている。(58)

 「どろ亀さん」こと、高橋延清さんの書かれた文章である。
 倉本聰は、「ばか」でもあったのである。
 東大名誉教授である、かのどろ亀さんのお墨つきであるから、間違いのないところである。
 倉本聰は、「稚気(ばか)」である。「ばか」でもあった。そして、どこかぬけているのである。放たれつつあるのである。