「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」1/3

「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」

目次

平成3年9月卒業論文 2冊のうち1号
(指導教員)
主査 中島国彦先生 審査済印 中島
(題目)
「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
総頁数599頁



早稲田大学
第二文学部
日本文学専修 D50492-0 番
氏名 本多勇夫
現住所 〒171 豊島区雑司が谷2-17-6 星野荘1階2号室
TEL (03)-3980-9346


平成3年9月卒業論文 2冊のうち1号
目 次
1. はじめのはじめに
2. 註
3. はじめに



第一章 倉本聰のシナリオをさぐる

1. シナリオ一般の特徴
2. テレビ・シナリオの特徴
3. 間(ま)・沈黙の文学として
4. 主だった特徴あれこれ
5. 註

平成3年9月卒業論文 2冊のうち2号
第二章 倉本聰『北の国から』を探る
1. 恋
2. 別れ
3. 故郷(ふるさと)

4. 告白

5. 男であること
6. まとめ
7. 註

第三章 倉本聰 その底流にあるもの
1. 創る
2. 教育
3. その底流にあるもの
4. 註



おわりに


「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」

「はじめのはじめに」

 「年の瀬の煤払(すすはら)い。
 ここ何年か年の瀬を迎えるときまって、倉本聰のシナリオ文学を読むという行事が私を待ちうけている。
 知らず識らずのうちにたまったものなのか、意識的にためこんだものなのか、それはいざ知らず、とにもかくにも一年経つと、私は相当煤ばむ。そして、よけいなものを背負(しょ)い込んだ自分に気がつく。
 そこで重い腰を上げて、煤払い。
 倉本聰の作品は、私を浄化してくれるのである。懐かしい昔の自分にひき合わせてくれるのである。煤払いのうってつけの道具となるのである。
 しかし、悲しいかな、年年歳歳私にこびりつき、肉とまで化した煤は如何ともし難く、しかも、それが年を追うごとに増殖しているのを感じるのも、また事実である。」
 以前こんな文章を書いた。
 四年前、昭和六二年度のことである。当時砂田弘先生が担当されていた、「日本文学研究 IVA」におけるレポートの冒頭部分でのことである。題名は、「倉本聰『昨日、悲別で』(理論社、一九八五年)を読んで」というものであった。
 私と倉本聰との出会いは、私とHさんとの出会いと重なる。
  日本文学専修に歩を進め間もなくのことであった。東伏見のサッカー場で出会った。加藤久先生ご指導の体育、水曜日の三限、サッカーの授業で出会った。そのときはじめて、同じ学部、同じ学年、同じ専修、同じクラスであることを知った。
 年齢(とし)は今もって不明である。他人(ひと)の皺の数、年輪の数を数えるのは悪趣味にすぎるが、私よりも六つか七つ、もしくは八つは年上かと思われる。
 ともに東伏見でボールを蹴った。履修後も参加させていただいた。三年間もの長きにわたって、加藤先生の視野の中でともに気を吐いた。とかく休みがちだった私とは対照的に、Hさんは晴れると毎週出かけた。前夜、「お天気ダイヤル」に耳を澄ませ、“晴れ”の保証をもらうと、Hさんの内なるサッカーボールは、勢いよくはずんだ。Hさんのサッカーに寄せる想い、加藤先生を敬う気持ちには、並々ならぬものがあった。
 Hさんからは実に多くのことを学んだ。いや、今にしてなお学ばせていだだいている。
 素直さ、優しさ、思いやり。情熱、頑張り。ものごとに対する構え、姿勢、取り組み。読むこと、書くこと、ことば等々ーー心のあり方、心のもち方全般。人の基本。そして、何よりもサッカー。
 Hさんとの出会いは、私の早稲田で過ごした意味を何倍にもふくれあがらせた。
 東伏見からの帰途、心地よい疲れを乗せた西武新宿線は、今しも高田馬場駅のプラットホームにすべりこもうとしていた。
 そのとき。
 「倉本聰さんを知っていますか。『北の国から』、ぜひ読んでみてください。本多君にぴったりだから」
 (Hさんはいつも、「倉本聰さん」という。私を“君づけ”で呼んでくださり、年端のゆかない私にさえ、きちんと敬語で対してくれる)
 耳にしたことのない作家だった。目にしたことのない題名だった。手にしたことのない分野であった。
 これが私と倉本聰との“馴れ初め”だった。
 後々よくお話をうかがうと、Hさんの倉本聰さんによせる思いは、尋常ではなかった。
 教育、臨床心理学、仏教、東洋思想、和歌、小説、随筆、シナリオ、童話、童謡、“ことば”(1)ーー卒業論文のテーマ選びには四苦八苦した。決め手がなかった。さまざまな分野の周辺をふわふわ漂いながらの広く浅い読書だった。積読、併読であり、濫読であった。自分の核をなすものは、臨床心理学、わけてもカウンセリングのような気がしている。が、枠外であった。同様にして、枠からはみ出したいくつかの分野が姿を消した。そして、いくつかが残った。しかし、それとて一人の作家に絞りこむことは、至難のわざであった。
 三年時の秋、「卒業論文計画書」を提出した。題目は、大正期の童謡詩人、「金子みすゞについて」というものであった。この辺りの分野をご専門にされる先生についておけば、間違いないだろう、といういたって軽い気持ちで出すだけ出した。のらりくらりとかわしながら、なんとか「卒業論文仮指導」をしのいだものの、心は一つではなかった。あるときは松尾芭蕉の顔がうかび、あるときは夏目漱石の顔がちらついた。あるときは宮沢賢治の顔が、種田山頭火の顔が頭をよぎった。そして、その合間を縫うようにして、灰谷健次郎の、向田邦子の、倉本聰の顔が脳裏を駆け抜けた。
 結局、山頭火に決めた。
 相当数の書籍を読んだ。それなりの資料も集めた。が、なにも出てこなかった。とても書けそうになかった。山頭火と向き合っているうちに出てきたものはといえば、私の内なる無頼、そして頽廃ばかりだった。山頭火の自虐にとりつかれた。山頭火の自罰が我が身に巣食い、我が身をむしばんだ。
 「どうしようもないわたしが歩いてゐる」(2)
 酒に逃げた。苦い酒に浸った。
 「何でこんなにさみしい風ふく」(3)
 いつまでたっても出口は見つからなかった。そして、さらなる自縄自縛へと陥っていった。
 そんな折も折、北海学園「北海道から」編集室『倉本聰研究』(理論社、一九九〇年三月)が、出版された。気分転換にと思い、読み進めるうちに、ときめきはじめた。鼓動の高鳴りを耳にした。心移りしはじめた。やがて虜となり、ついにからめとられた。
 倉本聰には救いがあった。明るさがあり、楽しさにはちきれていた。そして、なによりも日常のもろもろが、“ことば”のなかに溶け合っていることがよかった。
 Hさんからのご紹介で、はじめて『北の国から』を手にしたのは、その年(大学二年、一九八六年)の夏休みに帰省したときのことだった。はじめてのシナリオに戸惑いを覚えた。人間関係をつかむのに手間取った。が、読みはじめるとやめられなかった。感動した。それは「小説など『文学』を読んだ場合のそれと本質的に変わらなかった。」(4) 何度も熱いものがこみ上げてきた。鳥肌がたった。乾ききっていたはずなのに、ーーそのことにもまた感動した。すてきなことばの数々、心地よいスピード感、作品の底を穏やかに流れる確固たる思想への共感。そして、なによりも斜に構えた生き方をよしとしない人々が、まぶしかった。その後何度となく読んだ。その都度新たな発見があり、新鮮な感動があった。そして、今回、「卒業論文のため」と意を決し、心を鬼にして頭で読もうと何度も試みたが、だめだった。常に論理よりも生理に軍配があがってしまうのであった。
 はたして、『北の国から』は文学たりうるのであろうか。
 「はじめのはじめに」、私が問題にしたいことである。
 「『北の国から』は文学たりうるか否かーー内容よりも形式をことさらのごとくに取りあげて問題にするこの種の議論に対して、私は虚しさを感じる。議論のための議論はさびしい。批評のための批評はあまりにも悲しい。卒業論文のテーマとして、『北の国から』を取りあげたこと、それが私のこの問題に対する自ずからなる答である」。
 以上が、私の結論である。
 私はこの手の議論になると口をつむぐ。この問題に関しては、これで勘弁していただきたいと思う。容赦していただきたいと思う。ようするに私はこの手の議論が厭なのである。
 が、かりそめにも「論文」であり、そうはゆくまい。したがって、この問題に対する私なりの考えを、「文学がもつ毒性」というただ一点のみにしぼって以下に述べておきたいと思う。
 「僕(倉本聰)自身テレビのドラマというものを必ずしも芸術だとは考えていない。だが、芸術であろうとなかろうと、悲劇であろうとドタバタであろうと、作品は少なくとも作る者たちにとって、一種狂気の産物でなければならないのではあるまいか。(中略)正しい狂気、正当な狂気は、それが作品である以上、こめられていなければならぬ気がする。(中略)自分の狂気が封じられた時、僕はテレビと別れようと思う。」(5)
 多かれ少なかれ文学(芸術)は「創造的破壊」という一面を備えている。文化的なとらわれ(自己概念)から人を解き放ち、「本来なる自己」に立ち返らせることを一つの大きな目的としている。なんの疑いもなく、あたかも当然のことと考えられている「文化的な約束ごと」(常識、通念、道徳。因習、固定観念、伝統等々)からはみ出した、という意味において、それは“毒”に相当する。倉本聰はこの“毒”の部分をさして、「正しい狂気、正当な狂気」といっているのではないだろうか。
 『北の国から』では、現代文明が、また現代を生きる人々が厳しく問いつめられている。 倉本聰は、現代が落とす影を白日のもとにさらけだし、五郎親子に古き良き日本人を追体験させることによって温故知新という名の「創造的破壊」をやってのけたのである。“毒”にあたった多くの若者たちが富良野塾(6)をめざし、北海道で新しい生活をはじめたこと一つをとってみても、それは明明白白な事実である。そして、何を隠そう、私自身もこの心地よい“毒”にしびれた一人なのである。
 『北の国から』は、倉本聰の「正しい狂気、正当な狂気」のこめられた言語作品である。今なお多くの人々を魅了し続け、感動させ続けている言語作品であり、多くの人々を“変える”だけの力を秘めた言語作品である。ここに私は、『北の国から』のまぎれもない文学性を思うのである。
 「私は、倉本さんと山田太一さんと向田邦子さんのテレビドラマをよく見るのです。それ以前は、少し疲れるとか、意気消沈しているときに、わざわざテレビドラマを見たんです。この人たちがお金をもらっているなら、ぼくももらってもいいわいなんてね、慰さめになったんですよ。それが、倉本さん以後はだめでね、ああいけねえ、まいったな、ぼくはお金もらえないなと思うことがあってね。ぼくにとってはマイナス面なんです。」(7)
 「実に、ぼくはあなた(倉本聰)の作品、見事なものだというふうに思いますけど。とにかく、あんなキメのこまかいーー本を読むととくにそう思いますけどーー作家というのは、今まで知らなかったですね。」(8)
 「ひとの悪口言うわけじゃないけど、『このあたり、うまい役者さんのアドリブにのっかって適当にやってくれ』という指定のシナリオがあるって聞いて、そういう点では非常に軽蔑して。そこが大事なんじゃないかという気がしていたんだけど、あなたの読むと、実によく書き込んであって。それから、本を読んであとで作者のいいところがわかったりするところもありますけど、実に感心しましたね。」(9)
 倉本聰との対談における山口瞳の談話である。
 なお、この対談の行われた時点で出版されていた倉本聰の作品は、『倉本聰テレビドラマ集1 うちのホンカン』(ぶっくまん、一九七六年)、ただ一冊のみである。
 そして、それは山口瞳が、『週刊新潮』への原稿執筆中のことであった。
 「ここまで書いたら、倉本さんから電話が掛った。
『山本有三文学賞というのを受賞しました』
『何で? ドラマで?』
『『北の国から』の脚本です。山本有三文学賞というのが嬉しい。文学です。』
 もう、そんなにこだわりなさんな、倉本さん!」(10)
 倉本聰の「文学」へのこだわりを示すエピソードである。
 一九八二年、倉本聰は、『北の国から 前編』(理論社、一九八一年)、『北の国から 後編』(理論社、一九八一年)によって、第四回「路傍の石文学賞」(11)を受賞した。さらに、一九八七年、『北の国から ’87 初恋』(理論社、一九八七年)によって、第三十六回「小学館文学賞」(12)を受賞した。
 シナリオが「文学」としてはじめて日の目を見たのである。『北の国から』が「良質な文学」として認められたのである。
 「テレビドラマのシナリオは、一般に文学のカテゴリーには入っていないようで文学事典類にも倉本氏、倉本氏の業績が取りあげられることはあまりない。
 たしかにテレビドラマは、新しい形態の表現である。そのシナリオは、今までの表現にはなかった特徴を持つものであり、またさまざまの制約もあって、たしかに旧来の文学観念では律しきれない諸点を含むであろう。(中略)私たちもはじめて読んだ倉本氏のテレビシナリオに強烈な印象を受けた。そして、その感銘の質は小説など『文学』を読んだ場合のそれと本質的に変らなかった。私たちは倉本氏のシナリオは良質の文学として評価されるべきものであり、むしろ固着的な文学観は修正しなければならないのではないかと考えている。」(13)
 これはなにも『北の国から』にかぎったことではない。倉本聰の作品の数々はまぎれもなく「文学」であり、「シナリオ文学」の呼び名こそがふさわしいものである、と私は確信している。
 以前より“伝え合い”には興味があった。特に“ことば”と「沈黙の言葉」(14)には強い関心があった。しかし、テレビ、映画、映像。演劇、演出、演技。戯曲、シナリオ等々の理論に接したのは今回がはじめてであった。
 「テレビ論は存在したのである!」
 まことにかわいらしい驚きからの出発だった。目にするもの、手にするものすべてに新鮮な驚きがあった。
 けっして、質、量ともに、十分な本にあたったわけではない。それとて私は食傷ぎみである。まだまだ熟(こ)なれていない分野である。そんなこんなで、第一章はみごとなまでに引用文で埋められることになった。それは、どの著者の、どの著作の、どの部分を、どのように引用し、いかに並べたかだけに、私が顔をのぞかせているにすぎないといった惨憺たるありさまである。自分の頭のなかにあったことどものすべては、人口に膾炙された、おきまりの、おざなりの言い古された陳腐なことばかりだった。かくいう私は、「はじめのはじめ」から、弱腰、及腰、逃げ腰なのである。
 倉本聰と取り組むことによって、テレビとのつき合い方が変わった。映画にしても然りである。俳優さんの“ことば”、表情、所作、立ち居に目が向くようになった。話者ではなく、聴き手の姿勢に注意が向くようになった。そして、それは日常へと敷衍していった。
 見えているものと観ているもの、見えること。聞こえているものと聴いているもの、聞こえること。これらの差異に今さらながらに感じ入っている。
 本来ならば、二年次で履修するはずの「日本文学研究 IB」が、なぜか最後の最後まで残った。竹本幹夫先生の“能”の講義であった。はからずも卒業論文と並行して進められた講義。余情にあふれ、幽玄であると形容される世阿弥の謡曲。また、能楽論。いずれも楽しく、興味深いものであった。この時期に聴いたからこそである。
 瓢箪から駒が出た。
 温存しておいた(?)私の先見を思う。六年次のこの時期に聴けた幸せをつくづく思う。
 すこし世界が広がった気がする。
 すこし目の前が開けた気がする。
 ありがたいことである。


「はじめのはじめに〔註〕」
〔註〕
  1. いわゆる「ことば」のことではなく、「はじめに」で述べる西江雅之の使う意味での「“ことば”」のことである。
  2. 種田山頭火『定本 山頭火全集 第一巻』(春陽堂書店、一九七二年)十頁。『草木塔』所収。
  3. 種田、前掲書、二六四頁。
  4. 今井美嶺子(昴の会)、恩村雅子(秋の会)「倉本文学の展開 北海道へ・北海道で・北海道から」(北海学園、前掲『倉本聰研究』一七三頁)。
  5. 倉本聰「テレビにとって狂気は不要か?」(倉本聰『テレビドラマ集1 うちのホンカン』ぶっくまん、一九七六年、九頁)。
  6. 一九八三年四月、倉本聰が自らの手で開いた、地に足のついた役者およびシナリオライターを養成するための、営利を目的としない全くの私塾。詳細は後述。
  7. 「対談=山口瞳 vs 倉本聰」(倉本聰『倉本聰テレビドラマ集3 前略おふくろ様』ぶっくまん、一九七七年、三0八-三0九頁)。
  8. 前掲「対談=山口瞳 vs 倉本聰」二八六頁
  9. 前掲「対談=山口瞳 vs 倉本聰」二八六頁
  10. (10)山口瞳「読切連載 男性自身」(『週刊新潮』一九八二年二月二五日号、五一頁)。
  11. (11)「青少年の読書に適する優秀な文学作品、作者に贈られる。山本有三の遺族と高橋健二氏により昭和53年に創設され、第9回から『路傍の石幼少年文学賞』(幼少年の読書に適する文学作品、作者に贈る)を一部門に加えた。」(大高利夫『最新文学賞事典
  12. (12)』日外アソシエーツ株式会社、一九八九年、七四頁)。
  13. (13)「小学館創業30周年を記念して、児童文化振興に寄与するために、昭和27年『小学館児童文化賞』を制定。文学部門と絵画部門の2本立てであったが、昭和35年から『小学館文学賞』と、『小学館絵画賞』の二つに分けられた。」(大高、前掲書、二六八頁)。
  14. (14)今井、奥村、前掲「倉本文学の展開 北海道へ・北海道で・北海道から」一七三頁。
  15. (15)エドワード・T・ホール『沈黙のことばーー文化・行動・思考』(國弘正雄、長井善見、斎藤美津子訳、南雲堂、一九六六年)の書名を借用したもの。


「はじめに」
ーー“伝え合い”における“ことば”と言語ーー

 シナリオは台詞とト書で構成された言語を媒介とする作品であり、物語は登場人物間での“伝え合い”によって展開される。
 作家は“伝え合い”の場面を記述し言語として定着させる。そして、読者はそれを読むという作業を通して“伝え合い”のイメージを創造する。さらに、倉本聰の作品に関していえば、それは映像化されるのである。ここには“伝え合い”と言語との重層的な関係がある。
 シナリオ文学においては“伝え合い”と言語、また“ことば”との関係は無視できない問題であり、それ自体がシナリオ文学を大きく特徴づけてさえいるのである。
 まず、論文をはじめるにあたって、「“伝え合い”における“ことば”と言語の位置」、「“ことば”と言語の関係」について、西江雅之『ことばを追って』(大修館書店、一九八九年)、西江雅之「“伝え合い”の人類学」(『言語』五巻一号~四号、六号~十一号、一九七六年)を要約することによって明らかにしておきたいと思う。
 思えば、早稲田の杜では数々の怪物に出会った、なかでも怪物の極めつけ、“奇人”中の“貴人”は、西江雅之先生であった。いつも熱いものを感じていた。常に熱い視線をおくっていた。大きな影響をうけた。卒業論文の「はじめに」、西江雅之先生の論文の要約を記すことのできる幸せを思う。
 それはそれとして。
 とにかく、はじめたいと思う。

〈“伝え合い”における“ことば”と言語の位置〉
 現場での直接的な個人間の“伝え合い”は、七種類の基本的な構成要素から成り立っている。(順序は重要度とは無関係である)
 1.  “ことば”ーー言語(文字により直接記述可能な部分)+パラ・ランゲージ(声の質、スピード、癖など“ことば”づかいにみられる個性)。その場でのテーマに関する知識背景、その場その時の脈絡、その例を判断する道徳や政治などのイデオロギー的背景。
 2. 身体の動きーー身体部分のさまざまな動き(顔の表情なども含む)、ジェスチャー、姿勢(静止したポーズ)、視線。
 3. 人物の特徴ーー性別、年齢、体型、性格、身体付加物(化粧、服装、飾りとしての付加物、装いなど)。
 4. 人物の社会的背景ーー社会構造上の背景(そのなかで当人の占める位置)、社会組織上の背景(そのなかで当人の占める地位)。
 5. 環境ーー与えられている固定した環境、演出された操作可能な環境。
 6. 空間と時間ーースペース、方角、距離、刻(年齢、春夏秋冬、朝昼晩など)。“伝え合い”に要する時間。
 7. 生理的反応ーー直接接触による反応、間接知覚的反応。(相手の五感の利用)

・“伝え合い”を行っている者達は、これらすべての要素を意識的、無意識的に使い分けている。
・“伝え合い”のなかで七種類の要素がそれぞれ占める割合は、“伝え合い”の進行状態、相手の態度などによって刻々と変化する。
・“伝え合い”のすべての要素は、現実には分離不可能なものとしてその領域が溶けあっているので、一部の要素のみを使い他の要素を除外した形で“伝え合い”を行うことはできない。
・“伝え合い”を行っている者達が交換し合っている情報は、七種類の要素の総体として成り立っているのみでなく、その一つ一つの要素はすべての要素をそのなかに組み込むことによって成り立っている。したがって、これらの要素のうちの一つを取り上げて話題とする場合は、その特定の要素のなかに七種類の要素を下位要素として再び含ませる必要がある。「要素1」に当たる「“ことば”」についてのみ示せば「図1」のようになる。(他のすべての要素に関しても同様である) 















要素1
要素2
    要素1 → 要素3
     要素2 要素4
     「伝   要素3 要素5
 え ←   要素4 要素6
 合   要素5 要素7
 い」   要素6 ect
    要素7
  ect

・現実の“伝え合い”では、情報の“与え手”は同時に“受け手”であり、“受け手”は同時に“与え手”である。
・“伝え合い”の一例をみた場合、それは常に一回限りの意味しかもたない。(常に安定した一定の意味をもつことはない)
・“伝え合い”では知識ばかりでなく“情動”も交換し合っている。日常の“伝え合い”のなかでは、人はいかなる表現を試みようとも、それを“情動”抜きで行うことは決してできない。それは受けとる側にとってもみても同様である。


〈“ことば”と言語の関係〉
 コードという語は「意味単位」とその「組み立て規則」という二つの側面をもっている。このコードという語を使うと、それに則って具体的に手渡されることになる“一回限りの意味”の一例を、メッセージという語で示すことができ便利である。
 ここでいうコードとメッセージとの関係を、“ことば”と言語との関係に即していえば次のようになる。
 言語とはある具体的な個人が声を出して実際に話したことのみを対象として、さらにそれを(文字、発音記号等)記述という手段で平面(紙など)の上に記述したものであり、その場、その時の話者の声を消し去ったものである。言い換えれば、言語とはこうした記述という背景に支えられた上での、ある一定数の音声単位と多数の意味単位とその両者を支配している組み立て規則の集合であり、それは人間のコミュニケーションを支えるさまざまなコードの一例に他ならない。
 他方“ことば”とはある言語に則って、誰かによって、どのようにか話されているもの、すなわち、具体的な誰かの話し声として、どこからか、何らかの話され方で、現実に聞こえてくるもののことである。言語としては同じ意味をもつ数例のセンテンスも、個々の人によって別々の環境で話された“ことば”の場合には、無限の意味のバリエーションをもつことになる。なぜならば、“ことば”は一回限りの出来事だからである。
 このように言語と“ことば”との関係はコードとメッセージとの関係に相当するものである。
 “ことば”のかなりの部分は、言語以外の要素で支えられている。“ことば”というものは最も基本的にみても、声なき言語に話者の声(音色、スピード、強弱、情動、性別等)が不可分なものとして溶けあっており、その話者の声の部分は“伝え合い”において非言語(ノン・バーバル)要素として働いている。非言語とは体の動きや装いなどのみでなく、実際に話されている“ことば”の大切な部分なのである。

 「“ことば”」の説明を示せば、以下のようになる。
「“ことば”」
  1. 言語
  2. 音声表情、個性


「第一章 倉本聰のシナリオをさぐる」

 「今あたらしい一ページがひらかれようとしている。」(1)
  静かなことばである。が、強さを秘めたことばでもある。
 「遂に、新しき詩歌の時は來りぬ。」
 藤村の一文にも似た響きのすることばである。
 そして、それは以下に続く。
 「たんに出版が新しいメディアから輸血を受けようというのではない。テレビ・シナリオが出版の世界に存在性を確立し得たというのでもない。テレビという魅惑にみちたメディア自体が、今ようやく独自の文学芸術的な表現を探り当てようとしているのだ。まぎれもなく倉本聰こそは、その試行の、その冒険の、先駆者であった。」(2)
 「創作児童文学の漠然とした停滞状況」のなか、「より広く、より新しい創造力を求めて、」倉本さんに、児童文学作品を「小説で」、という願いが、小宮山量平(現 理論社会長)にはあった。あえて「小説で」といったのは、小宮山量平には、『日本シナリオ文学全集』全一二巻(理論社、一九五五ー一九五六年)を企画、編集、出版し、社を窮地に陥れた苦い経験があったからである。
 ところが、なんという巡り合わせか、高校時代を過ごす倉本聰は、小宮山量平の「愛憎きわまる」『日本シナリオ文学全集』を、朱線でまっ赤になるまで読みこみ、それが倉本聰のその後の人生を決定づけたのである。
 「お約束でしたが、ぼくはやっぱり、このテーマを、シナリオで書くことにしました。もともと、ぼくはシナリオ作家なのです。シナリオというものの可能性を、改めて試してみたいのです!」(3)
 小宮山量平の依頼に対して、倉本聰は、「シナリオでならば」という条件で引き受けたのである。
 「テレビ・シナリオを、あえてそのまま児童文学として出版するということは、出版史上の一つの冒険」(4) であった。
 当時にあって倉本聰は、「シナリオでならば」という条件を提出し、小宮山量平はそれを受けて立ったのである。しかも、昔の手酷い失敗にも懲りずに、である。倉本聰のシナリオライターとしての矜持、意気地。小宮山量平の出版人としての度量、大度、心意気には、ただ脱帽、ただただ敬服するばかりである。
 『北の国から』の出版には、こんな経緯(いきさつ)があったのである。
 そして、ついに一九八一年九月、「さあ、あなた達の時代の、あなた達に贈る物語ですよ」(5) 『 北の国から 前編』は、「まず日本のジュニア世代の前に」、 理論社の「大長編シリーズ」の一冊として届けられたのである。そして、その一か月後、「文芸書版」『北の国から 前編』が、一般文学として上梓されたのであった。
 『北の国から』は、倉本聰の「テレビ語」による文学への挑戦であり、またシナリオの出版界への快進撃の嚆矢ともなった記念すべき作品である。


「1. シナリオ一般の特徴」

 『北の国から』は、テレビ・シナリオ(テレビドラマのために執筆されたシナリオ)の形式にのっとって書かれた文学であり、それはシナリオ(厳密にいえば、テレビ・シナリオ)としての特徴を備えている。シナリオは言語による映像である。 これはラジオドラマのシナリオについてもいえることである。なぜならば、ラジオドラマは音声を媒体として、聴取者の脳裏に映像を結ばせる、聴衆に観せる芸術だからである。
 そして、その特徴のすべてはここに起因し、ここに収束する、といっても過言ではない。 
 当節ではシナリオと小説(散文)、また戯曲とを対比することによって、その特徴を明らかにしてみたいと思う。
 「小説における作者の主観的な批判や解釈や抽象的な分析とかいったような内的言語を絶対にもたないという一線で、小説とシナリオははっきり区別されます。小説は文字それ自身が目的ですが、シナリオは文字を手段として映像を表現するものです。シナリオというものが、それによって映画をつくる台本である以上、あらゆる場合に視覚的表現ということを度外視しては成り立たないのです。」(6) 
 「(シナリオにおいて)『重要なものは、ライターが書く言葉ではなく、彼が言葉によて描く造形的な形象である』と、いうことである。つまり、文学に於ては言葉が占める場所を、シナリオでは、造形的な形象が占めると、いうことである。」(7)  
 次にシナリオと戯曲との対照である。
 舞台化される戯曲と映像化されるシナリオという目的の相違は、それぞれを特徴づける。それは主に時間、空間的な相違であり、映像の技術面(クローズ・アップ、モンタージュ、カットバック等)からくる相違でもある。
 「戯曲のト書が本来説明的であるのに対して、シナリオのト書はより描写的です。戯曲では、場が安定しているために場そのものの情景や、雰囲気や、人物配置が重要な表現要素になります。劇作家はそこに自分の意図を明示するために、いきおい説明的で詳細なト書を施こします。(中略)戯曲は文学の一形式といわれますが、すくなくともト書それ自体は文学的な性格はうすいといえます。戯曲が文学として成立するのは、台詞の面でしょう。(中略)シナリオのト書が説明を避けることによって、いきおい描写的になり、それによってシナリオに視覚的な構想をゆたかに盛ることに、本来の道を見出すことができたのです。従って、シナリオのト書ーー描写文が、読者のイメージを刺激する重要な足場として、作者の意図を表現するために用いられそこに文学的な性格が約束されるわけです。その点では、シナリオの文章形式は戯曲より小説に近いと考えられます。ところがシナリオが小説とも異るのは、シーン割りの形式を踏み外さないことと同時に、描写によって刺激されるイメージもまた映画的な性格を踏み外さない点です。」(8)
 そして、最後に、小説(散文)また戯曲、シナリオを系統発生的にみたとき、結論として、
 「ガブリロヰチが『シナリオとは、小説と戯曲との独特な統一である』と云っているのは、一寸面白い。
 この意味は、シナリオ・ライターは、戯曲からはドラマテックな構成と、計算されたセリフを学び、小説(散文)からは、時間と空間に於ける自由な行為を学べということだと考えていいであろう。戯曲が舞台という条件のために奪われているものを、散文(小説)は自由に持っているわけである。」(9)
 ようするに、「シナリオというものは、元来、伝統的な文学作品(小説、詩、戯曲など)から、脱出するための、ある形式であった。」(10) のである。
 以下は、『北の国から 前編』の「添え書き」、「読者へ 倉本聰」(10) の全文である。
 「シナリオというものをお読みになったことがありますか?
 この本は、テレビドラマのシナリオです。
 これまでシナリオは俳優や監督やテレビ・映画の関係者だけが読む、出版されない文学でした。だから普通の小説を読むのとはちょっと違って最初とまどうかもしれません。でもそのとまどいは最初のうちだけです。
 シナリオは読みながらその情景や主人公の表情や悲しみや喜びを、みなさんの頭のスクリーンに描きやすいように書かれています。単に「間(ま)」と書かれている時間の中で主人公が何を考えているのか。「誰々の顔」と書かれているところで登場人物がどんな顔をするのか。そういうことを読みながら空想し、頭に映像を創っていくことで、みなさんは自分の創造力の中の監督や俳優になることができるのです。そしてもしかしたらみなさんの創造力は、じっさいにこのシナリオを元にしてできたドラマより、より深いより高い一つのドラマを頭の中に創ってしまうかもしれません。
 シナリオを読むことに馴れてみて下さい。
 そこにみなさんはただ読むだけではない、創るよろこびをも同時に持てるでしょう。」(11)
  倉本聰のこの文章は、言語による映像であるシナリオの特徴をよく表わすものである。
 「シナリオは省略の芸術である」といわれる。省かれたために、ことばは含みをもつようになった。文章に綾ができ、より暗示的となった。シナリオは“読むもの”であると同時に“感じるもの”となった。捨てたがためにかえって多くのものを内包する結果を招じたのである。
 印刷された活字は氷山の一角であり、水面下では広大な広がりが相応の深みをもって、それを支えている。その深みをともなった広がりは、読者に豊かなイメージを喚起する。豊かなイメージは多くの意味を孕(はら)む。シナリオは固定された映像を読者に強いることなく、また一義的な意味づけを強要することもない。省略の芸術の芸術たる由縁がここにある。
 「創るよろこび」とは、「コード」(“伝え合い”の七つの要素)を「メッセージ」にするよろこびであって、シナリオを体験するよろこびである。
 台詞は“ことば”として表情をもち、音は声を発する。音楽はリズムを刻み、映像はことばの世界を広げ、ことばにならないことばを彷彿させる。生き生きとした“伝え合い”の場面が繰り広げられ、新しい可能性が生まれる。シナリオのためのシナリオの意味はここに存し、自立した作品として、また文学として、花開くのである。
 「テレビの場合、具体的な絵にされますでしょう。絵がはっきり見せつけられるわけですね、視聴者に。ところが、本とかラジオなんかの場合には、読んだ人間が絵を勝手に想像しますでしょう。想像力というのは、かなりレベルの高いものだという気がするのです。実際に絵を出しちゃうと、その絵というのは読者の想像をなかなか超えられないという場合があるわけですね。それがときどき、非常に欲求不満を起すもとなのですがね。」(12)
  「映像化のためのシナリオというよりも、シナリオのためのシナリオへと関心が傾斜してしまったんです。映像なんてものは、自分の心象として思い浮かぶものが絶対のもので、それ以上のイメージが再現できるはずはない。それより大切なものは、ストーリーとキャラクターとスピーチ(台詞)の三つだ。その三つで構成されるドラマだ。ドラマがすべてだ。自分の納得のいくドラマが出来上がれば、それが紙上のものでもそれですべての作業は終わり、シナリオは映像にならなくてもいい、シナリオは活字になればそれでよし、と思っていた節があるんです、初めから。つまり、シナリオは読まれればいいんだと。(中略)(シナリオの出版により)やっと自分の思いどおりのものが一つの作品になる。つまり読者に、演出家や役者を通りこしてストレートに問いかけができるし、読者のイマジネーションのほうがはるかに豊かに自分のシナリオを脹らませてくれるかもしれないでしょう。」(13)
 シナリオを読む場合と映像化された作品をを観る場合の相違は、「開かれている」か「閉じられている」かの相違である。「解放されている」か「向けられている」かの差異である。
 「やっぱり、台本というのは、ある意味で寝たものなんだよね。それを立たしてくれるのが、俳優さんであり演出家なんだよね。(中略)ある種の予想はしているけれど、予想が裏切られるということも、またものすごく楽しいことだし、超えてくれることも楽しいし、そこに面白さがあるんだけどね。書いている、ぼくは、『間(ま)』っていう字を書くとき、ほんとうに生甲斐を感じているような気がするね。へんな話だけど。」(14)
 これもまた事実なのである。


「2. テレビ・シナリオの特徴」

 シナリオの一分野であるテレビ・シナリオには、シナリオ一般の特徴がみられるとともに、テレビ・シナリオ固有の特徴がみられる。
 テレビ・シナリオの特徴を考えることは、すなわちテレビドラマの特色を明らかにすることでもある。それは如何なるシナリオであろうとも、形式的な差異はほとんど認められず、それはひとえにドラマの内容に関わる問題だからである。
 以下、P・チャエフスキー (15) の言である。
 「テレビドラマは幅を広げることができない。だから深さを広げなくてはならない。去年(一九五四年)あたりだったか、テレビ作家は内密(インティメート)なドラマーー『内密な』とは、人生の小さな契機をきわめて仔細に研究する意味だがーーを書き得ることを学び知った。(中略)今や、テレビドラマに対する合言葉は深さである。人間関係のより深い真実を求めて、人生の皮相下を掘り下げることである。これは他の劇的メディアがかつて扱ったことのない、あるいは適当に扱いえない領域である。それは遅かれ早かれタブーに、必ずしもテレビのみでなく、われわれの生き方全体に対するタブーに正面からぶつかるであろう領域である。しかも私は、これこそドラマの進む所と感じないではいられない。」(16)
 「私はちょうど今、この領域、平凡なもののこのふしぎな世界を知ろうとしている。現代はまさに残酷な内省の時代である。そうしてテレビはわれわれ自身に対するわれわれの新しい洞察を現わすべき劇的媒体である。平凡なもの、それからそのぼんやりした枝葉を扱うには、舞台はあまりに重苦しいし、映画はあまりに強烈にすぎる」(17)
 「(テレビドラマの)作家の機能は、視聴者に対して、ほんらいならば無意味なままの彼らの生活の型に、いくらかでも意味を与えることだというのである。われわれの生活を満たすものは、興奮と沈鬱との無限の連続である。われわれ相互の関係は、信じがたいまでに複雑に入り組んでいる。その関係を織りなす一すじ一すじが、劇的に研究してみる価値があるのだ。ある男が、なぜ殺人を犯すかということより、なぜ結婚するかということのほうに、はるかに刺激的なドラマがある。」(18)
 そして、以下は八住利雄の発言である。
 「テレビは、聴視者に直接アピールすることによって、『第四の壁』〈演劇では観客は登場人物と自分とを同一視することはなく両者は明確に区別される。つまり、そこには『見えない壁が存在するのである。スタニスラフスキーそれを『第四の壁』と名づけたのである〉を破壊する。(中略)聴視者に直接アピールするということは、聴視者が絶えずテレビの中へ入りこみ、参加する気持になるという意味だと考えてもいい。或いは又、テレビは常に話し相手であるように、聴視者に『向かっている』という意味にも、それ程テレビと聴視者との間には親近感が生まれるという意味だと考えてもいい。それと違って、演劇や映画のドラマの主人公は、舞台やスクリーンに展開する彼自身の人生を、まるで観客席などというものが存在していないように、生きて行くという感じである。」(19)
 「テレビに於ては、言葉は自立した価値の中に生きているのであり、テレビを『聞く』という意味もそこにある。テレビに於ては、言葉が映像を決定するのである。従って映画とテレビは、完全に違うものである。即ち映画に於ては、映像が機能をきめるが、テレビに於ては、映像は言葉によってきめられるのである。映像、又は映像による劇的行為の面だけを見て、映画とテレビは血縁的な間柄であると考えることは、この二つの芸術に於ける機能の面の決定的な違いを見逃がしていることになる。」(20)
 「映画のシナリオにおいては言葉は対話である。このことがシナリオの言葉の基本的な性格である。ということは、ドラマの主人公たちが観客を意識することなく、彼等自身の人生を生きようとしているからである。テレビの脚本においては、言葉は独白(モノログ)的な性格をもつ。ということは、それらの言葉は常に聴視者に対して『向けられて』いるもの、アピールしているものだからである。それは対話の形をとっていても、テレビの言葉は性格的にそうなのである。」(21)
 倉本聰の作品は、P・チャエフスキーの、また八住利雄の説くテレビドラマ(テレビ・シナリオ)論を踏襲しており、倉本聰のテレビ・シナリオの特徴を語る人々の発言は、あたかもこれらのテレビ・ドラマ論を敷衍して述べているかのようでさえある。
 「ここに、なんか、倉本ドラマのあるオリジンがある、という気が非常にするわけだけれども。要するにね、ドラマというのは、なんか大仰な、非日常的なことがつぎつぎと起っていくことだ、みたいな認識が一部にあるじゃない? が、これなんか、全くそうじゃないね。場は、全く小さなところに限定されてるし、ものすごく日常的な世界のことだし。日常的な、ものすごく、瑣末な人間の心の動きみたいなことが、ドラマの世界の中心に置かれてるしーー。なんかその辺に倉本ドラマの面白さの原点みたいなものが、あるような気がするんですけどね。」(22)
 「テレビドラマというのは、構えた姿勢で、抽象的なことを、高らかにメッセージとして伝えるみたいなやり方をするものじゃなくて、とても日常的な次元のなかで、日常的な人間の心と心の触れ合い、あるいは行き違いの機微みたいなことを、重要な契機として何かを描いていった場合にこそ、一番、優れたドラマが生める。核心に迫ったドラマが生める、みたいな認識があるんだな。これがやっぱり、凄いと思うな。」
「ここらにやっぱり倉本聰ドラマの凄さを解く一つの鍵があるような気が、したわけですよ。」(23)
 「これはね、ぼく、ものすごく倉本さんらしいことだ、と思うわけですよ。映像的なものごとの表現、とくにテレビというのは、なんか総て、すこぶる具体的であることが力だ、と思っているから。すこぶる日常的で、すこぶる具体的であることがね。」(24)
 白井佳夫の説く「倉本聰ドラマ」の特徴は、P・チャエフスキーのテレビドラマ論と見紛うばかりである。
「じつにコマーシャルの存在こそ、テレビ技法に最大かつ最も包括的な制限を示すものである。テレビは本質的には広告メディアであって、演芸のそれではない。(中略)この恐るべき制限に加えて存在するのが、視聴者は軽いドラマ、恋する若く美しい男女に関する明るい喜劇だけを見たがっているという広範不恋(変?)の幻想である。」(25)
 つぎにテレビドラマの限界という視点に立って、テレビ・シナリオの特徴をさぐってみたいと思う。
 倉本聰に『りんりんと』(26) と題する作品がある。一九七四年に北海道放送によって制作されたドラマである。北海道の老人ホームに入居する老母を、息子が送っていく旅を描いた作品であり、「珠玉と呼んでいい短編小説の趣き」をもった「ホン」である。老いた母親の、息子への、あまりにも哀しい問いかけを「ヘソ」にもった作品である。

 さわ「信ちゃんーー」
 信 「(見る)なあに?」
さわ、ーー夏みかんの袋をむいている。
海鳴り。
 さわ「(むきつつ、さり気なく)母さん本当にーー。生きてていいの?」
ドキンと母を見て凍りついた信。
ーー。(27)

 倉本聰自身の母親が、生前実際に口にしたことばでもある。
 「かつて僕自身の母が死んだ直後、『りんりんと』というシリアスな形で老人問題を書いたことをその頃僕は反省していた。茶の間に入ってくるテレビの中で、ああいう形のストレートな物云いはどうもよくないと思い始めていた。テレビはやはり娯楽であるべきだし、娯楽の中でこそ云いたいことをさり気なく出すのが筋だと思った。」(28)
 「これはシビアなストーリーである。
 恐らくテレビドラマとして、これがぎりぎりの限界だろう。
 僕自身、ここまでシリアスな作品は、テレビではあまり書いてはいけないと思っている。」(29)
  いっぽう、山田太一には、『早春スケッチブック』(30) と題された「ホン」がある。一九八三年にフジテレビによって制作されたドラマである。
 「いつかは自分自身をもはや軽蔑することのできないような、最も軽蔑すべき人間の時代が来るだろう」
 ニーチェの辛辣なことばを「ヘソ」にもった作品である。「ストレートな物云い」の作品である。「シビアなストーリー」の「ホン」である。
 「ニーチェの『いつかは自分自身をもはや軽蔑することのできないような、最も軽蔑すべき人間の時代が来るだろう』という言葉が、このドラマの糸口でした。(中略)(『北の国から』のプロデューサーでもある中村敏夫さんから)『いま一番書きたいものを書かないか。受けて立つから』といわれ、不意に学生の頃読んだその言葉が横切ったのでした。いや、前から時折、企画の話をしながら、そのモチーフが口から出かかったことはあるのですが、とてもそんなものは相手にされないだろうと思い、抑制し、このところは浮んで来もしなかったのです。見ていらっしゃる人々とそれほど違わない家族の生活を描き、そこに『なんてぇ暮しをしてるんだ』という罵声を浴びせかけるドラマが、いまのテレビ界で可能だとは思えなかったのです。しかし、私は私自身に向ける罵声として、そういうものの必要を感じておりました。いくつもの家族のドラマを書いて来たライターのやるべきことのひとつのような気持ちもありました。『面白い。やりましょう』中村さんは、即座に受けとめてくれました。(中略)(多くの反響を呼び、評価も高かったのですが)この作品は視聴率がよくありませんでした。平均視聴率が七.九%だったのです。通常十%を越えないドラマは失敗作ということになってしまいます。この作品も、駄目な作品ということになり、この傾向のドラマが書かれる道は、閉ざされてしまいました。(中略)(少なく見積っても四00万人に近い方々が見て下さったわけですが)しかしそんなことをいったってテレビの世界では相手にされません。視聴率のよくないものは、議論を越えてとにかく『よくない作品』なのです。」(31)
 ところが、別のところで、倉本聰は、
 「(テレビドラマのシナリオライターは)大局的にはコメディ作家であるべきだというのは極論かもしれませんけど、(中略)ただ気が滅入るドラマという爆弾も時々投じたくなるし、爆弾を投じられる立場であるわけですね。テレビを書いているということは、局という巨大な壁があって、その中へなかなか爆弾持ちこめないですけど、チャンスがあれば、ときどき爆弾を持ち込んで家庭へボンと放り込みたいという衝動もあるわけです。」(32)
 また、山田太一は、
 「今の多くのテレビドラマは安っぽい通念以外の観念は忌避してしまいがちなのですね。昨年『早春スケッチブック』を書いた時に、意識的にニーチェといった思想家から栄養を得ている人物を出しましたら、やはり視聴率がよくない。何も観念だけを肥大させようというつもりはありませんが、人間は感情と同時に観念によってもつき動かされていく存在です。だからまず、人間をリアルに表現しようとすれば、観念を無視することはできません。もう一つは、ドラマが現実の『見事な』反映だけで終わってしまうというのでは、つまらないと思う。戦争中の滅私奉公精神に対する反動で、戦後は私生活優先、あるがままの自分を肯定しようという考え方が強かった。しかし、もう『あるがままの自分』なんかじゃつまらない。少しでも『あるがまま』よりましになろうとする人間の魅力を書いてみたいという気がしています。それは、自分にないからかもしれませんけれど…。
 たんに現実を反映するだけの作品というのは、既に役割が終わったと思います。現実を反映していると同時に、どこかで現実を超えていく要素をもつ作品。夢に遊ぶというようなものでもいいのです。そういう作品を作りたいと思います。
 今の時代に耐えるような夢を描くことはとても難しいことだとは思いますが…。」(33)
  テレビドラマのあり方を熟知し、現代を代表するシナリオライターである両氏が、はからずも同じような考え方をしていることは興味深い事実である。
 私はそれぞれの作品を読んだだけであり、テレビでは観ていない。ーーことさらに好きな作品である。何よりも「爆弾」に相当する部分が好きである。
 P・チャエフスキーが、「それ(テレビドラマが人生の皮相下を掘り下げること)は遅かれ早かれタブーに、必ずしもテレビのみでなく、われわれの生き方全体に対するタブーに正面からぶつかるであろう領域である」といったのは、一九五五年のことであった。
 それが「今」なのかもしれない。
 「今」、そのタブーこそタブー視すべき元凶であることを旗印に、心あるシナリオライターたちが立ち上がったのである。戦いの火蓋は切って落とされたのである、とも考えられる。
 どうか、「道は閉ざされた」などとはいわずに、ゲリラ的戦法で、「爆弾」を投じ続けていただきたいものです。
 P・チャエフスキー同様、私自身も「これこそ(テレビ)ドラマの進む(べき)所と感じないではいられない」のである。
 テレビドラマには無数の制約があり、その枠内でしか執筆は許されない。テレビ・シナリオは、まさしく「テレビ語」で書かれた作品である。善かれ悪しかれ「テレビ語」でしか書けない作品なのである。
 「思えば、私(小宮山量平)たちが『映画』という映像言語によって青春の活力を育てたように、それにも増して『テレビ』という映像言語によって視界をひろげている今の若者たちにとって、シナリオという表現は、なんのさまたげもなく文学的に吸収されるのではないでしょうか。しかも、現代のテレビという媒体(ばいたい)が、最も腐蝕(ふしょく)しやすい泥沼(どろぬま)をくぐらずにはいられない現代においてーーそれだからこそ、広く深い大衆との緊張関係を踏まえて自己確証(アイデンティティ)を示さずにはいられない倉本さん的な創作行為こそが、真に若者たちの心底に語りかける親しさを持ち得る時代なのではないでしょうか。」(34)
 「(明治二0年代の言文一致運動について触れた後)最近、なぜ理論社がシナリオを出版するのか?ーーと、親しい疑問をぶつけられることが多いのですが、その都度、『新時代の言文一致運動さ』と、私(小宮山量平)は笑うのです。そんな私の笑いの奥で、エンタテイメント世代などと呼ばれる当代の大衆が、文化的に活性化してゆく過程を見失うまいとする思いがキラリと光るのを、大方の友人たちも見落としているような気がします。」(35) 
 「ご本人(倉本聰)が、そして同時代人たちが、いま考えている以上の国民文学的創造が、彼(倉本聰)によって、まぎれもなく進められていることを、臆面もなく指摘しておくことが、長年にわたって編集という仕事にたずさわって来た者ならではの、誇らかなつとめであると、いま私(小宮山量平)は思っているのです。」(36)
「テレビ語」には表情がある。
「テレビ語」は(“伝え合い”の七つの要素が溶け合ったという意味での)「ことば」により近い言語である。「テレビ語」は“伝え合い”の七要素に目の届く言語であり、その結果として、“伝え合い”はより“伝え合い”らしく紙面に記されることになった。「テレビ語」には、読者に忌避感を与えることの少ない、読者に受け容れられやすい、という特徴がある。それゆえに、高級な哲学や思想も「テレビ語」のもつ緩衝作用によってやわらげられ、現実と遊離することなく読者のもとに届けられる。これは、対談、鼎談等の逐次録が、本人の手になる著作物より、はるかにわかりやすいこととどこか似ている。
 「シナリオの出版は新時代の言文一致運動である」という小宮山量平の論拠のありかがここにある。
 小宮山量平のいうように、私たち読者は“軽み”のなかに秘められた“重み”につき動かされて、知らず識らずのうちに、「文化的に活性化」され、「この重苦しい時代のアンニュイ」を吹き払おうとしているのかもしれない。
 いずれ時が判断を下す問題である。
 「偉大なる芸術家とは、難渋することによって鼓舞され、あらゆる障碍を踏切台に用いる人間のことを云うのである。(中略)芸術は束縛から生まれ、闘争によって生き、自由になることによって死するのであるーー。」(37)
 テレビ・シナリオは、さまざまな制約を「踏切台」にして形作られ、その制約ゆえに、また独自の個性を保ち得ているのである。


「3. 間(ま)・沈黙の文学として」

倉本聰のシナリオの特徴は「ーー」、「間(ま)」にある。倉本文学は「間(ま)の文学」である、とよくいわれる。確かにこの特徴は、他のシナリオライターの作品と並べればひと目でわかるほど際立ったものである。多くのシナリオライターは、倉本聰の書く「ーー」や「間」に相当する大部分を読者にあずけ、直接シナリオに書きこむことをしない。倉本聰ほど、「ーー」や「間」を、いや、シナリオそれ自体を丹念に書きこむシナリオライターを私は知らない。倉本聰は、この辺りのことについて、以下のごとく述べている。一九七七年のことである。
 「僕の場合ホン自体で演出を規制しちゃうような書き方をするというのは、撮入三日前にホン渡して、照明美術その他のスタッフから端役の末端まで、百人近い人数にバァーッと一どきにみんなの意志統一を計るのがテレビのホンの役割だと思っているから、流れ出てくる最後の完成型が全員の人に伝わるように、できるだけホンの中にでき上ったかたちをみせたいと思っているからです。だから音楽指定が入ったり、〈誰々の顔〉みたいな表現が出たりするんだけれども、それはやっぱり完成の絵を想像できる書き方をできるだけしようと思うからなんです。」(38)
 『北の国から 前編』が出版されたのは一九八一年のことであった。これが契機となり、シナリオが多くの読者を獲得した。それ以前は、たとえ出版されたとしても、シナリオライター志願者だけにしか読まれないという状況であった。倉本聰の眼が、専らテレビ関係者のみに注がれていた時期の作品と、一般の読者を、そして多分に「文学」を意識して書かれた時期の作品とを比較したとき、そこにすこしの遜色も認められないことは、驚くべき事実である。倉本聰の芸術家としての矜持である。
 倉本聰は、「ーー」と「間」とをはっきり区別して書き分けている。
 以下は、『北の国から 前編』の冒頭の場面である。

 黒板令子の顔
   手にしたストローの袋を見ている。
   静かに流れているクラシック曲。
 雪子の声「お義兄さんたち、昨夜発ったわ」
 令子「ーー」

 喫茶店
   向い合ってすわっている雪子と令子。
   間(ま)。
 雪子「姉さんどうして送りに来なかったの」
 令子「ーー」
     間。
   クラシック曲。
 雪子「純も螢もーー。さびしそうだったわ」
 令子「ーー」
    間。
 雪子「かわいそうでーー」
 令子「ーー」
 雪子「まともに見てられなかったわ」
 令子「ーー」
   令子。
   ーーうつむいたままじっと感情にたえている。
   クラシック曲。
   間。
 雪子「子どもたちにどういう罪があるの? それに」
 令子「(低く)あんたもずいぶん残酷なこというわね」
 雪子「ーー」
   令子。
 令子「行きたかったわよ」
 雪子「ーー」
   令子。
 令子「行って、駅から純と螢をーー力づくでも取返したかったわよ」
 雪子「ーー」
   間。(39)

 これをみると、倉本聰は、「ーー」と「間」とを、その「空白」をはさんだ前後の台詞が連続しているか否かによって明確に区別していることがわかる。つまり、倉本聰は、「ーー」において「連続性の中の空白」を示し、「間」によって「ある断続性がある」ことを示しているのである。
 これは表記の際の書き分けであり、形式的な区別である。では、倉本聰は、「ーー」や「間」にどのような意味を託し、また書き分けているのであろうか。佐々木健一『せりふの構造』(筑摩書房、一九八二年)、「第五章 沈黙とパロール」にしたがってみていきたいと思う。
 以下は、佐々木健一によって明らかにされた“沈黙と間(ま)の構造”の要約である。

 (1) 沈黙は内容的概念であり、一つの事実を指している。それに対して間(ま)は、表現形式の問題である。沈黙は内世界的事実でありごく自然な行為もしくは反応であるが、間(ま)には表現に対する配慮や工夫が感じられる。
 (2) 沈黙はその主体もしくは所在によって「人の沈黙」、「劇場の沈黙」、「世界の沈黙」に分類される。
 (3) 間(ま)はその効果を生み出す主体によって「劇中人物の間」、「俳優の間」、「作家の間」に分類される。
 (4) 注意しなければならないのは、沈黙と間(ま)とが登場人物において重複している場合である。問いかけて返答を待っているときの沈黙は単に表現形式の問題であるから間(ま)と呼ぶのがふさわしく、問われて答えない場合の間(ま)はむしろ沈黙と呼ぶのがふさわしい。
(今後、倉本聰の使う「間」に対して、佐々木健一がいう意味での間(ま)を「マ」と表記することにする)
 では、佐々木健一の“沈黙と間(ま)の構造”にしたがって、『北の国から 前編』の冒頭部分での、「ーー」と「間」についてみていくことにする。
 倉本聰における「ーー」は、聴き手が無言の状態で話者の話に耳を傾けている状態を示す「マ」(「劇中人物の間」に相当する)であると同時に、倉本聰が聴き手の存在を読者に明示するために意図的に書き加えた表現形式としての「マ」ーー表現の主体は作者にあり、読者に行間を感じてとってほしいという役割を担った「作家の間」に属するものーーである。ただし、唯一の例外は、話者の問いかけに対して聴き手がなにも答えない(「ーー」で答える)場合の、「ーー」であり、これは聴き手の沈黙(「人の沈黙」に属する)を示すものである。②の令子の「ーー」は、これに該当する。令子の「ーー」は、「姉さんどうして送りに来なかったの」という雪子の問いかけに対する答えであり、令子の沈黙(「返答の拒否」)を示している。
 「ーー」が、「人の沈黙」をす場合を除けば、「ーー」はすべて「劇中人物の間」であり、かつ「作家の間」である。
 「劇中人物の間」は、「作家の間」からの派生したものであると私は考えている。つまり、倉本聰の力点は、常に「劇中人物の間」ではなく、「作家の間」におかれている。シナリオにおいて聴き手の存在を明示することの意味は大きい。読者は聴き手の存在を忘れ、話し手の独白を聴いているかのようなイメージで作品を読みがちだからである。“伝え合い”では、“与え手”は常に“受け手”であり、“受け手”は常に“与え手”である。聴き手のとる態度如何は、敏感に話者に反映され、ときには聴き手の仕草や感情の流れが、話し手のことば以上に重要な意味をもつことさえある。
 つまり、「ーー」は、読者に聴き手のあることを絶えず喚起し、どのようにか聴いている聴き手の「どのようにか」に相当する部分(「沈黙のことば」)をイメージさせる役割を担っている。
 「ーー」によって、作品は深まりをみせる。倉本聰は、「ーー」によって、創造をうながす“間(ま)”を提供したのである。
 「ーー!」、「ーー!!」、「ーー?」等は、「ーー」の変種であり、「ーー」に表情をもたせたものである。その意味するところは、「ーー」と同様である。一例を引けば、

 純 「おじさん」
 クマ「?」
 純 「ここらは熊出ませんか」
 クマ「なンもだ。平気だ。ここらの熊は、気立てがいいから」
    クマ、去る。
 純 「ーー!!」(40)

  なお、「ーー!!」は、「ーー!」の強調された形である。

 「間」は“伝え合い”に参加しているすべての者の沈黙(「人の沈黙」に属する)である。さらには、「間」=「人の沈黙」は、
  1. 自分の“ことば”に対する話し手自身の感情表現としての沈黙。
  2. 聴き手の話者に対する感情表現としての沈黙。
  3. 聴き手の示した感情表現に対する話者の感情表現としての沈黙。
  4. 言葉を紡ぎ出すための時間
と、表記可能な性質のものである。
(上記は、「間」が四つの要素から成り立っていることを示しているものではなく、これらの要素は“伝え合い”の七要素の場合と同様に考えるべき性格のものである)
 佐々木健一は、マクス・ピカート、マーテルリンク、両氏の文章を引用し、沈黙の核心に触れている。
 沈黙を時間的位相の差異により、「言葉に先立つ沈黙」と「言葉に続く沈黙」とに大別し、両者を比較対照している。
 「言葉は沈黙から、沈黙の充溢から生じた。(中略)言葉に先だつ沈黙は、精神がそこで創造的にはたらいていることの徴証(しるし)だ。…つまり、精神は産出力を孕んだ沈黙から言葉をとり出してくるのである。」(41)
 「思索の創造性は、言葉ではなく沈黙にあり、言葉はその沈黙の影の如きもの、『委託』を受けたものにすぎない。『はじめに沈黙ありき…』というわけである。」(42)
 「これとは逆の観察がマーテルリンクにある。『もしも私がほんとうにその人を愛しているなら、私が言った言葉の後の沈黙が、私の言葉にどれだけ深い根があるかをその人に解らせるだろう。そしてその人の心に、それもまた無言である確信を生むだろう。』(43) 沈黙が心の真実を映し出す。言葉はだませても、沈黙をだますことはできない。」(44)
 「マーテルリンクの例で言えば、沈黙がもたらすのは、パロールの語った愛が真実であるという保証である。この保証は、常に嘘の可能性をはらんでいるパロールには与える力のないものであり、沈黙がそれをなしうるのは、沈黙の表現が言わば自然現象だからである。言葉を発するのは口であるが、沈黙の中で語っているのはその人の全人格である。このようにして、沈黙は言語以上の表現力を獲得する。
 マーテルリンクの示した表現の論理は、先聞後見であると言ってよい。」(45)
  「言葉に先立つ沈黙は創造する沈黙であり、言葉に続く沈黙は検証する沈黙である。(中略)ここにある対立は、創造の論理と表現の論理との対立である。言い換えれば、何かを創り出すメカニズムと、創り出されてたものが何かを表わし、伝えるメカニズムとの対立である。(中略)創造の論理においては沈黙が主役であり、パロールはその従者である。これに対して表現の論理においては、言葉が主であり、沈黙はこの言葉の補助である。」(46)
 「表現の論理が創造の論理から分かれてくる根本は、創造している沈黙それ自体には表現力がない、という事実にある。」(47)
 「言われるあらゆる言葉はどれも結局たがいに似たようなものであり、沈黙はそれぞれ皆違う。」(48)
 つまり、沈黙は「心の真実を映し出す」ものであり、「全面的に個性的」なものである。沈黙は「無」ではなく「空」であり、「偉大なる暗闇」なのである。
 最後に倉本聡の数々の作品の演出を手がけた日本テレビのディレクター石橋冠の「ーー」、「間」についての考え、そして倉本聡自身の思いを掲げておきたいと思う。
 「“間”とか『ーー』は、倉本さんの脚本にはじめて出くわした時、ある種のカルチャーショックみたいな、ああこういうのもあったのかという鮮烈な記憶ってありますね。ぼくは最初、これは、俳優や演出者に対する不信感なのかなと思ったりもしたんです。つまり従来の脚本にはない、ひとつの作品である、あの作法というのはあくまで演ずる者、演出する者に対する、作家側の多分におしつけがましい要求に思えて、それは結局不信感なのかなと思っていました。けれども、最近になって、『昨日、悲別で』をやったとき、やっと、『ああ、あれ(「ーー」や「間」)は、ひとつの倉本さんのぬきさしならない文体なのだ』と思った。つまり、パーフェクトを求めているのね。かつて、倉本さん、ニッポン放送にいて、ラジオドラマのディレクターやってましたから音に対してとぎすまされた感性を身につけておられる。。音にたいする感性が、あのような“間”とか「ーー」に現われた。つまり、僕はあの“間”を一種の音ととらえるのだけれど、(後略)」(49)
 「山田太一さんは、すてきな散文詩の作家だと思うけれど、その対極に、倉本さんがいる。倉本さんのシナリオは韻文詩の文体で書かれていて、あの“間”は、なにものをもってしても埋めきれない詩集の余白のように思ってしまうことがあります。そう思うと一種納得のいく瞬間がある。」(50)
 「さっき、詩の余白の部分が“間”といったけれど、音楽でいうと、ブレイクというか、リズムを整えたり、転調したりする瞬間みたいなところがあり、ふたつ重ねて考えてみると、“間”というのは、ものすごくパワフルなもので、あながち、物理的に“間”と解釈し得ないものがありますね。要するに、詩集をもらったようなもので、(後略)」(51)
 「“間”とか『ーー』の中に、いかにイメージとしての力が内包されているか、次に押し出すリズムが要求されているかを考えると、(演出が)とめどなく難しくなってきます。もともとドラマに正解は無いようなものだけれど、気が狂いそうになることがありますね。」(52)
 そして、倉本聰は、
 「たとえば、ひとつの例というと、ぼく(倉本聰)は非常に間(ま)というものを書きますね。そうすると、間というのは、次のせりふを考えている間(ま)であるわけ。ぼくはわりと、言葉を考える人間を書いちゃうもんだから、次に何といおうか、あるいはその前のせりふを、いまの反応はどうだったかとか、自分の中で思っていることがいっぱいあるわけ。で、次に何といおうか、と。たとえば、おれは愛情を相手に対して持っていてそれを知って欲しいわけだけれども、こういっちゃ露骨すぎる、こういっちゃわかんないだろう、いろんなことを考えているというのが間(ま)になっているわけね。そうすると、ほんとうは、ぼくは演出というのは、その間(ま)のあいだに彼女は何を考えているかということを、役者さんと演出家が話合うのが、演出家の非常に大きなモメントだと思うわけ。」(53)
 「ーー」、「間」は「マ」や沈黙の代表例であり、これらによって「マ」、沈黙のすべてが表現されているわけではない。先に例示した「喫茶店」の場面をみただけでも、そこにはいくつもの「マ」や沈黙がみうけられる。
 ④ 「純も螢もーー。さびしそうだったわ」
 ⑤ 「かわいそうでーー」
 ⑩ 「行って、駅から純と螢をーー力づくでも取返したかったわよ」
にみられる「ーー」によって示された「マ」(「劇中人物の間」に属する)。
 ① 「手にしたストローの袋を見ている。」
 ⑥ 「令子。
    ーーうつむいたままじっと感情にたえている。」
のようにト書に描かれた所作により、表現された登場人物の「所作としての沈黙」(「人の沈黙」に属する)。(佐々木健一のいう「所作」とは、西江雅之が“伝え合い”の七要素の二番目にあげた「身体の動き」に相当するものであり、身体部分のさまざまな動き((顔の表情なども含む))、ジェスチャー、姿勢((静止したポーズ))、視線などをも含めた総称である、と私は考えている)。「所作としての沈黙」とは、「強いパトスが言葉を奪い、おのずと或る種の所作に表現を見出」(54)したものであり、「言葉では表わすことのできない心の真実を伝えるものである」(55)。「所作=沈黙とともに、言語行為の再現は全体的なものとなり、真実なものとなる。その写実性のゆえに、この所作=沈黙はディアローグと等質のものである。しかし、それの写し出す真実はパトスである」(56)
 ⑧ 「令子」。
 ⑨ 「令子」。
これらは「作家の間」であると同時に、それから派生した形での「人間の沈黙」である。他のシナリオライターの作品にはみられない倉本聰に特有のものである。読者の注意を特に人物の表情に喚起するために、「誰々の顔」と表記されることもしばしばある。
 ⑦ 「子どもたちにどういう罪があるの? それに」
という台詞を口にする俳優が、「子どもたちにどういう罪があるの?」と「それに」との間(あいだ)に、(直接シナリオには書きこまれていないものの)当然とるであろうと考えられる、「俳優の思い入れ」としての「マ」(「俳優の間」に属する)。
 そして、他の場面に目を転じたとき、
 「一瞬真っ白に変色した画面」(57)
 「画面いきなりまっ黒になる」(58)
 「スッとぼける」(59)
これらは佐々木健一によって「劇場の間」と名づけられたものである。「劇場の間」とは、作品の展開を追う読者の不安、緊張、期待を高める効果を担ったものである。
 さらに、倉本聰は「世界の沈黙」と対峙する。
 ワイパー
  動く。
 五郎の顔
 
 ワイパー
  動く。
  吹きつけてくる雪の中の、ヘッドライトが照らす白い世界。
  音楽ーー遠く去って。中断。(60)

 猛吹雪のなか、行方不明になった雪子と純の乗る車を、血眼になって捜す五郎。ヘッドライトの光に浮かびあがった光景は、雪片の舞いしきる、ただ、ただまっ白な音のない世界である。五郎の心中を暗示するかのように、また五郎の不安をかきたてるかのように、「せわしなく動くワイパー」。動揺する五郎。それに対して自然はかたくなに口を閉ざす。沈黙を守る。自然現象を巧みに折りこみ、「世界の沈黙」を描ききる倉本聰の手腕は見事である。
 以下は、正月の「華やかな」人の動きとの対照によって、「世界の沈黙」が描かれている場面である。この場面では、純とれいとの沈黙の重さに気圧されたかのように、世界は口をつむぐ。
 純とその初恋の相手(ひと)であるれいとは、ほぼ一年ぶりの再会である。

 ファミリーレストラン
   奥の席の片づけをしているれい。
   「いらっしゃいませ!」の声にちょっと一緒に顔あげて、
 れい「 いらしゃいませ」
   また方ずける。
   その手が止まる。
   ギクッとふりむく。
   入口にれいを見て立っている純。
   純の視線のれい。
   一切の音がなくなっている。
   華やかに動いている店内に、そこだけ凍結した純の場所、れいの場所。(61) 

 『北の国から』における、倉本聰の描く「沈黙」の例として、最後に、「人の沈黙」を見事に取りこむことによって、巧みに構成された場面を引いておくことにする。五郎が純と螢に令子との離婚を正式に告げる場面である。なお、「洗い物をしている」雪子(叔母)は、五郎と令子との正式な離婚話を前もって知っている。

 同〈廃屋〉・居間
   すわる二人。
 蛍「どうしたの」
   洗い物をしている雪子の背中。
   五郎。
   ーー煙草に火をつける。
 五郎「じつは今母さんが富良野に来ている」
   純。
   螢。
 五郎「今夜と明日の晩ホテルに泊まっている」
 二人「ーー」
 五郎「今度父さんと母さんは、正式に離婚することになった」
 二人「ーー」
 五郎「父さんも母さんも君たちに対してはーー本当にすまなく思っている」
   雪子の背中のインサート。
 五郎「許してほしい」
   音楽ーー低くつづいている。「愛のテーマ」。(62)

 終始雪子は沈黙している。この場面に立ち会う雪子が、その後の展開に影響をおよぼすことはない。雪子がこの場面に居合わせることの必然性はない。が、雪子の背中は、実に多くのことを我々に語る。「ただ居る」雪子の存在は大きい。「ただ居る」雪子の存在によって、この場面は深みをました。
 倉本聰は、「ただ居る」存在である第三者を、しばしば重要な場面に立ち合わせている。「ただ居る」第三者の「人の沈黙」を巧みに取り入れた場面構成は、倉本聰のテレビ・シナリオを特徴づけるものである。
 倉本聰の作品では、ここかしこに「マ」や沈黙が散見される。そして、それらは我々にことばにならぬことばを発している。
 いつもの歩調をすこしゆるめ、静かにそっと耳をすませる時間を心がけたいものである。
 そこここに散り敷かれた“感じる喜び”を堪能したいものである。
 シナリオは、決して私たちに読むことを急かすものではない。
 思いのままに立ち止まればいいのである。
 それが特典なのであるから。
 「(倉本作品は)情景、人物の会話や仕草の一つ一つに至るまで、みるものに語りかけ、みるもの自身が画面を前にして反芻し、じっくり考えることが出来るような仕組みになっている。だから、どんなにモノトーンで進行していても、否、モノトーンで満ちている場合にはなおのこと、画面と観客の間に対話めいたものが成立するのである。みるものの思い込みが激しくなるような作りをしているのである。」(63)
 「マ」や沈黙は、倉本聰の大きな特徴をなすものである。倉本聰の「ぬきさしならない文体」であり、生命線なのである。


「4. 主だった特徴あれこれ」

 「マ」や沈黙は、倉本聰のシナリオの大きな特徴となっている。しかし、その特徴は「マ」や沈黙にあるばかりではない。この節では、ことばやことばづかいにみられる特色をさぐってみたいと思う。
 ことばやことばづかいに関する、倉本聰のこだわりにはすさまじいものがある。それは、山口瞳をして、
 「山本周五郎さんに、君は言葉とか文字に神経使いすぎるといわれたことがあるのですよ。そうすると君は書けなくなるよと言われたことがあるのです。それと同じことを、あなた(倉本聰)にもいいたいような気がするのです。そこまで神経使わないほうが、むしろ見る側は気持ちがいいんじゃないかという感じがしますね。」(64)
といわしめるほどです。
 その一端は、
「ふりむきドキンと凍結した雪子。」
「なにげなく顔あげ化石した五郎。」
「ふりかえりハッとしたみどりの顔。」(65)
ーー同じ場所に居合わせた三者三様の驚きである。ーー(なお、傍点は私が付したものである。以下も同様である)や、
「裏の森にャキタキツネもいるしな。リスも出てくるゾ。それからエゾシカもやってくるし」
「リスが見れるの?!」(66)
に、みられる対照の妙。
「そのことばが胸に焼きついています。」(67)
「さっきの正吉のいったそのひと言が、僕の心につき刺さっていた。」(68)
「火事そのものと同じくらいに、僕の心の大きな傷になった。」(69)
「正吉にいわれたさっきのひと言が、僕の心に悲しく残っていた。」(70)
「その言葉が胸に突き刺さった。」(71)
のような、微妙なニュアンスの使い分けからもじゅうぶんにうかがい知ることができる。
  倉本聰は、一回限りの“伝え合い”をより忠実に記すために、音便、長音、擬音語、擬態語、擬人法、句読点、各種の符合(!、!!、!!!、?、?!、!?、!!?、!!/?)、平仮名・片仮名・漢字の使い分け、助詞の省略等々の表現技法を自在に使いこなし、常に、“伝え合い”の七要素に鋭い眼を光らせている。わけても、しっとりした老人のひかえめな語り口や、何気なく相手を気づかう恋人たちの会話は感動的でさえある。

  清吉。
  ーー湯のみを台に置く。
  その手がかすかにふるえている。
 清吉「深い事情はーーわし、知らんですよ。けど、ーー。それはちがうんじゃないですか」
(中略)
 清吉「金がーーどうにもなかったンですよ」
 一同「ーー」
 清吉「あの晩あいつーーわしとこに借りに来て、ーーはずかしいがうちにもぜんぜんな            
    くてーー近所の親しい農家起こしてーー大人一人と子ども二人ーー航空券と千歳  
    までの代ーーそれやっと工面してーー発たせたですよ」
   雪子。
 清吉「翌日の昼、中畑ちゅうあれの友だちが、それをきいてびっくりして銀行に走って      
   ーーでもあいつそれを、受け取るのしぶって」
 一同「ーー」
 清吉「だからあのバカ、汽車で来たんですよ。一昼夜かかって汽車で来たんですよ」
 一同「ーー」
 清吉「飛行機と汽車の値段のちがいーーわかりますかあなた。一万ちょっとでしょう。
   でもね、ーーわしらその一万ちょっとーー稼ぐ苦しさ考えちゃうですよ。
   何日土にはいつくばるか。ハイ」
 一同「ーー」
 清吉「おかしいですか、私の話」(72)
 
 喫茶店
   エ? と顔あげる純。
   コーヒーをまぜているれい。
   ゆっくりよみがえる店内の音楽。
 純 「何かいった?」
 れい「コーヒー飲んだらすぐ行こ」
 純 「どこに」
 れい「だからお医者さん」
 純 「いいよ!」
 れい「電話帳で探したのよ。待っててくれるって」
 純 「いいてっば」
 れい「ダメ。ずっと見てたら相当痛そう。純君の右手に何かあったら私、困る」
 純 「ーー」(73)
 
 また、
「ヘッドライトが切りさく闇を、目をこらしてさがしていく五郎の不安。」(74)
「五郎をおそっている激しい屈辱」(75)
「令子。ーーその心につきあげる孤独。」(76)
「反撃しようという空しい気力。」(77)
「予備校から出てきた勇次を、後からソッと気がつかれぬように尾行(つけ)る螢の倖せ。」(78)
 これらにみられる体言止めでは、不安、屈辱、孤独、気力、倖せといった抽象的な語が、映像的に表現され、これらの感情にすっぽりおおわれた人物のイメージが喚起される。これらは映像的であるだけに、我々の生理に直接訴えかけてくるのである。
 ところが、これらの特徴も「言外のふくみ」の前にはたちまち色あせてしまう。倉本聰のシナリオの最も大きな特徴は「言外のふくみ」にある。(先にシナリオは「省略の芸術」でありことばはふくみをもつようになったと述べたが、ここでいう「ふくみをもったことば」、また「ことばづかい」とは、省略のために自ずから「ふくみ」もつようになったもののことではなく、それ自体に「ふくみ」をもった「ことば」や「ことばづかい」を倉本聰自身が心がけているという意味である)
 
 「令子。
  ーーうつむいたままじっと感情にたえている。」(79)
   「あの人には東京が重すぎたのよ」(80)
   「卑屈で、力なく、しぼんで見えた。
   そうなンだ。この一年。
   ことにあの丸太小屋が燃えてしまってから、父さんはどことなくしぼんで
   しまった。」(81)

  「ふくみ」をもったことば、「ふくみ」をもたせたことばのほんの一例である。
 子どもたちにどうしようもなく会いたくて突然来富した令子。『北の国から 前編』・第九話でのことである。令子ははじめての来富である。令子はいかにもすまなそうに、
「コンニチワ」
と片仮名で挨拶した後、
「来ちゃった」
とつぶやくのであった。
 
 家・一階
   令子。
   ーーめずらしげに中を見まわしている。
   五郎。
   ーーはいって立つ。
   令子。
   ーーかすかに笑って見せた。
 令子「来ちゃった」
   音楽ーー鈍い衝撃。(82)

 かすかな笑いに続く、令子のこの「来ちゃった」。この台詞は意味を伝えるためのものではなく、感情の横溢により、ふと令子の口をついて出てきたことばである。感情の表出としておかれたことばである。令子の切なさ、さびしさ、悲しさ、また哀しみ。いたしかたなさ。五郎への遠慮、照れ、甘え、申し訳なさ等々の感情の束である。
 これらのことばづかいは、また、
 「おこられちゃったよ」(83)
 「(ちょっと笑う)バチね」、「バチがあたったのね」(84)
 「そういう土地だここは。ーーみんな出てくンだ」(85)
 などなど、作品のあちこちに散見される。 
 倉本聰は、これらに万感をこめたのである。諸々の感情をないまぜにし、いっしょくたにつめこんだのである。感情としてのことばづかいによって、人物の心のひだを鮮やかに照らし出したのである。
 以下に引いた場面は、令子の葬儀も一段落ついたその夜、今は亡き「令子の部屋」での一コマである。

 令子の部屋
   螢ー一人で絵を描いている。
   五郎、わきにしゃがむ。
   絵をのぞきこみ、煙草に火をつける。
   間。
 五郎「なんの絵だい」
 螢(首をふる)
 五郎「わかンない絵だな」
   螢。
   ーーやみくもに暗い色を使う。
   五郎、螢の頭をなでて立とうとする。ドキンととまる。
   螢の目に涙がゆれている。
   五郎。
 螢 「父さんおぼえてる?」
 五郎「ーー何」
 螢 「こわかった夜のこと」
 五郎「こわかった夜のこと?」
 螢 「父さんがーー急に早く帰ってきて、母さんおどかそうって美容院に行った日」
   五郎。

 イメージ(フラッシュ)
   情事の現場からふりむいた令子。
 
 令子の部屋
   五郎。
 五郎「螢はまだそんなことおぼえてたのか」
 螢 「思い出そうと思ってただけ」
 五郎「なぜ思い出す」
 螢 「ーーいやだったから」
   五郎。
 五郎「どうしていやなこと思い出す」
 螢 「いいことばかり思い出しちゃうから」
 五郎「ーー」
 螢 「いいこと思い出すとつらくなるから」
   五郎。(86)

 悲しい場面である。
 「思い出そうと思ってただけ」 
 「いいことばかり思い出しちゃうから」
 「いいこと思い出すとつらくなるから」
が効いている。

 一つ一つの台詞はなに気ないことばの積み重ねであり、直截の感情表出としては唯一、螢の「つらくなるから」があるのみである。螢の悲しさ、耐える螢のいじらしさ。向き合う五郎の悲しみ、つらさ。これらの感情は、「所作としての沈黙」、また「作家としての間」と抱きあわせにされた格好で、「言外のふくみ」として、すべてが行間に託されている。
 それだけにかえって、この場面は我々を「搏つ」ものとなったのである。託されたものの大きさに、ことばを失くす。
 行間にものをいわしめた例である。
 妙なるト書の例である。
 倉本聰の含蓄の勝利である。
 倉本聰は、このように巧みな構成とことばづかいによって、数々の場面に「ふくみ」をもたせている。これもまた、倉本聰のシナリオの大きな特徴である。
 ときに呼称は、対人関係における相互の位置を示す重要な指標となることがある。ことに、地の文がなく会話で物語が展開されていくシナリオにおいては、呼称が大きくものをいう場合がある。
 つぎに、呼称に託された「ふくみ」についてみることにする。
 北海道で新しい生活をはじめて数か月間、五郎と純との関係はぎくしゃくしており、冷ややかである。螢の名づけ親は五郎であるが、純は令子によって名づけられたことが、二人の関係に微妙な影を落としているかのようでさえある。
 五郎は螢を「螢」と呼び捨てにするのに対して、純を「純君」と「君づけ」で呼ぶ。螢との会話は「ふつうのしゃべり方」でなされるが、純とのやりとりは「ていねいな言葉」でかわされる。普通の父子関係としては、どことなくよそよそしく、他人行儀である。
 「父さんこれまでお前に対して、ていねいな言葉でいつもしゃべってきた」
 「そうするつもりはなかったがーーいつからかそういう習慣ができちまった。」(87)
とは、一九八0年の大晦日に、涼子先生にその不自然さを指摘された五郎の純にむかっての弁であるが、それは五郎の無意識の言動であっただけに根は深かったといえよう。

 五郎「でももうやめる」
 純 「ーー」
 五郎「いまからやめる」
 純 「ーー」
 五郎「だからお前もーー。いっしょにやめろ」
   間。
 純 「ハイ」
 五郎「ウン」
   間。(88)

 この日をもって「君づけ」、「ていねいな」ことばづかいは清算されたが、二人の溝が埋まるまでには、それ相応の時を待たなければならなかった。距離はことばをつくり、ことばは距離をつくる。倉本聰の意図するところである。
 草太の雪子への呼称「雪子さん」が、「ガバッとおさえて」「ブチュッとキスしてポン」と肩をたたいた直後、たちまちにして「雪子」に変化する場面はじつに愉快であり、純が恋する大里れいをはじめて「れいちゃん」と呼ぶシーンでは、純のかすかな鼓動までもが伝わってくるかのようで、なんともほほえましい。また、「あのバカ、痛みが治らないのに」(89) や「だからあのバカ、汽車で来たんですよ」「一昼夜かかって汽車で来たんですよ」(90) にみられる「あのバカ」は、ひどくあたたかく響き、つららの「トルコ」での呼び名「雪子」は、痛ましく、そら恐ろしく、悲しく、哀しい響きをもった呼称である。
 「令子」の呼称により、純は吉野が母親の愛人であることに気づき、令子の死後、前妻の二人の子どもたちに、「母さん(令子)にお別れいいなさい」と、焼香をすすめる吉野の「母さん」により、純と螢はその後の二人の関係を知らされる。この「母さん」は、純と螢にとって深刻なひと言であり、悲しみに新たな悲しみが追い討ちをかける。『北の国から』での呼称の使い方としては圧巻である。
 このほかにも、「あの人」、「おたく」、「お前」、「昨日の男」等々、適材を適所に配し、倉本聰は呼称に多くを託し、多くを語らせている。
 さらに、倉本聰は「声なきものの声」を巧みにすくいあげている。どれをとってみても、一応に哀しい響きのする声である。切なく響く声である。
 螢はパジャマのにおいにより、母の来訪に気づく。石鹸のかおりにより父親に「女の人」ができたことを察し、また令子の洋服ダンスの戸を開け、そのにおいに浸ることで亡き母をしのぶ。
 父を気づかうあまりに母とのつらい別れをした螢。ーー眠る螢の胸にしっかりと抱かれた「小さなラベンダーの束」。また、「目じりから頬をぬらしている涙のあと」ーー純の、また我々読者の胸の痛む場面である。
 純にとっての、煙草の灰、床の「焼けこげ」は、母の不倫をほのめかすものであり。泥のついたピン札は、五郎の純への思い、純の富良野への想いそのものである。そして、無造作に屑かごにうち捨てられた「旅費の封筒」は、純の心を、故郷の人々、また山へ川にとしきりに誘うのであった。

   急にギクンと表の地面を見る。
   純。
   ーーゆっくりとウォークマンをはずす。
   純の顔。
 語り「雪の上にれいちゃんの足跡があった!」
   足跡。
   間、
 語り「足跡はまっすぐ納屋の中へ入り、それから表へ出たところで、ーーもういちど立ち止まってふり返ったらしく」
   純。
 語り「れいちゃんーー!」
   音楽ーー雪崩(なだ)れこむ。B・G。
 語り「(泣き声で)それぁーーないじゃないか、れいちゃん!」

 足跡
   月光の下、転々とつづいている。
 語り「ひと言もいわないでーー。どこへ行くとも、ーー何もいわないで行っちゃうなンて」(91)

 雪の上に残されたれいの足跡は、れいの心の跡であり、想いのあらわれである。
 ほかにも、正吉によって半分だけ下ろされた屋根の雪、トラばさみにやられたキツネの痛ましい足跡等々ーー倉本聰は雪にものをいわしめている。
 開高健の本は、恋多きこごみを象徴し、「岩にひっかかったままの『YUKIKO』の残骸」は、草太と雪子との恋の終わりを告げる。丸太小屋の模型は、五郎の心のうちの、“雪子の占める位置”を示し、マッチのレッテルのスクップに哀しい女心がにじむ。
 ものは心との結びつきによって産声をあげ、自己を主張しはじめる。以後、それは語り部となり、時の忘れ形見となる。ものが物を言う由縁である。
 倉本聰の作品は、平易なことばにあふれている。普段何気なく口にする、また日頃何気なく耳にする平易なことばが、倉本聰の手にかかると、とたんに沸き立つ。にわかに匂い立つ。そして、それらが寄り添い、互いに手を取り合ったとき、そこに詩情が生まれ、余情が生まれる。一編の詩が生まれる。
 倉本聰は行間に多くのものを託した。倉本聰は私たちの日常にこそ、詩があることをそっと耳打ちしてくれるのである。


「 第一章 倉本聰のシナリオをさぐる_〔註〕」
〔註〕
  1. 「刊行のことば」、倉本聰コレクション第一期全十巻・パンフレット、理論社、一九八三年。
(2) 前掲「刊行のことば」。
(3) 小宮山量平「倉本聰 その国民文学的創造〔ある編集者的作家論〕」(北海学園、前掲『倉本聰研究』六三頁)。
(4) 小宮山量平「北の国から=解説 (2) 新しい開拓者精神の誕生をめざして」(倉本聰『北の国から 後編』理論社の大長編シリーズ、一九八一年、三二七頁)。
(5) 小宮山量平「北の国から=解説 (1) テレビ・シナリオと創作児童文学と」(倉本聰『北の国から 前編』理論社の大長編シリーズ、一九八一年、三0二頁)。
(6) 鬼頭麟平『シナリオ作法考ーーその二十講』(宝文館出版、一九七七年)七四頁。
(7) 八住利雄『シナリオ・演出・演技ーー映像芸術の原点』(ダヴィド社、一九八二年)五四頁。
(8) 鬼頭、前掲『シナリオ作法考ーーその二十講』七0ー七二頁。
(9) 八住利雄『シナリオ教室』(ダヴィド社、一九六四年)一九八頁。
(10) 八住、前掲『シナリオ・演出・演技ーー映像芸術の原点』八一頁。
(11) 倉本聰「読者へ 倉本聰」(倉本聰『北の国から 前編』理論社、一九八一年)三頁。
(12) 前掲「対談=山口瞳 VS 倉本聰」二八0ー二八一頁。倉本聰談。
(13) 「対談 シナリオの原風景 市川森一 / 山田太一」(『ちくま』第一六二号、一九八四年九月、八ー九頁)。市川森一談。
(14) 「仲間たちは語る 座談会 倉本聰、大滝秀治、八千草薫、桃井かおり、吉川正澄、実相寺昭雄(司会) 昭和50年5月13日(東京・渋谷)」(『倉本聰テレビドラマ集3 6羽のかもめ』ぶっくまん、一九七八年、二八九頁)。倉本聰談。
(15) P・チャエフスキー(一九二三ー一九八二年) ニューヨークに生まれ、舞台、映画、テレビという三つの劇的媒体においてはなばなしい活躍をした劇作家。「TV最大の作家」、「TV界最優秀の劇作家」等と評され、彼の作品はテレビドラマの典型、原点として今なおバイブル視されている。作品には『マーティ』、『母』、『独身送別会』などがある。なお彼はテレビドラマのことを「舞台劇の(映画につぐ)第二の継子」、「現世紀の基本的劇場」と呼んだ。
(16)  P・チャエフスキー『独身送別会』(江上照彦訳、社会思想社、一九八八年)二0四ー二0五頁。
(17)  P・チャエフスキー、前掲『独身送別会』二七四頁。
(18)  P・チャエフスキー、前掲『独身送別会』二七三頁。
(19) 八住、前掲『シナリオ教室』二五七ー二五八頁。
(20) 八住、前掲『シナリオ教室』二六二ー二六三頁。
(21) 八住、前掲『シナリオ教室』二六三頁。
(22) 「すこぶる具体的に / すこぶる日常的に 対談〔白井佳夫〕×〔倉本聰〕」(倉本、前掲『倉本聰テレビドラマ集1 うちのホンカン』二0五頁)。白井佳夫談。
(23) 前掲「すこぶる具体的に / すこぶる日常的に 対談〔白井佳夫〕×〔倉本聰〕」三0九頁。白井佳夫談。
(24) 前掲「すこぶる具体的に / すこぶる日常的に 対談〔白井佳夫〕×〔倉本聰〕」三0一頁。白井佳夫談。
(25) P・チャエフスキー、前掲『独身送別会』二0四頁。
(26) 倉本聰『倉本聰コレクション8 幻の町』(理論社、一九八三年)。
(27) 倉本、前掲『倉本聰コレクション8 幻の町』一二二頁。
(28) 倉本聰『さらば、テレビジョン』(冬樹社、一九七八年)二0四頁。
(29) 倉本聰「テレビドラマに思うこと」(倉本、前掲『倉本聰テレビドラマ集1 うちのホンカン』九四頁)。
(30) 山田太一『山田太一作品集ーー15 早春スケッチブック』(大和書房、一九八八年)。
(31) 山田太一「あとがき」(山田、前掲『山田太一作品集ーー15 早春スケッチブック』三二一ー三二二頁)。
(32) 前掲「対談=山口瞳 VS 倉本聰」二八七頁。倉本聰談。
(33) 「ザ・ライバルズ 倉本聰ーーシナリオライター 山田太一ーシナリオライター」(『太陽』NO.267、一九八四年、七四頁)。
(34) 小宮山、前掲「北の国から=解説 (1) テレビ・シナリオと創作児童文学と」三0二頁。
(35) 小宮山量平「新しい言文一致へーーテレビ・シナリオの出版」(『エディター叢書 34 こどもの本をつくるーー創作児童文学の時代』エディタースクール出版部、一九八四年)二二三頁。
(36) 小宮山、前掲「倉本聰 その国民文学的創造〔ある編集者的作家論〕」六六ー六七頁。(37) アンドレ・ジイド『演劇の進化』(河上徹太郎訳、((講演))。ーー野田高梧『シナリオ構造論』(宝文館出版、一九五二年)一0二ー一0三頁。(孫引き)。
(38) 「〈インタビュー〉ぼくとテレビドラマの熱い関係 倉本聰(シナリオ作家)」(『シナリオ』三三巻十二号、一九七七年、十一頁)。
(39) 倉本、前掲『北の国から 前編』五ー六頁。
(40) 倉本、前掲『北の国から 前編』十六頁。
(41) マックス・ピカート『沈黙の世界』(佐野利勝訳、みすず書房、一九六四年)十七頁。
(42) 佐々木、前掲『せりふの構造』二0九頁。
(43) マーテルリンク『貧者の寶』(片山敏彦譯、新潮社、一九五三年)十八頁。
(44) 佐々木、前掲『せりふの構造』二0九頁。
(45) 佐々木、前掲『せりふの構造』二一一頁。
(46) 佐々木、前掲『せりふの構造』二一0頁。
(47) 佐々木、前掲『せりふの構造』二一一頁。
(48) マーテルリンク、前掲『貧者の寶』十五頁
(49) 石橋冠(日本テレビ・ディレクター)、杉田成道(フジテレビ・ディレクター)「(対話)倉本脚本との格闘〔撮影の現場から〕」(北海学園、前掲『倉本聰研究』一五九ー一六0頁)。
(50) 前掲「(対話)倉本脚本との格闘〔撮影の現場から〕」一六0頁。
(51) 前掲「(対話)倉本脚本との格闘〔撮影の現場から〕」一六一頁。
(52) 前掲「(対話)倉本脚本との格闘〔撮影の現場から〕」一六二頁。
(53) 前掲「仲間たちは語る 座談会」二八七ー二八八頁。倉本聰談。
(54) 佐々木、前掲『せりふの構造』二二三頁。
(55) 佐々木、前掲『せりふの構造』二二五頁。
(56) 佐々木、前掲『せりふの構造』二二六頁。
(57) 倉本聰『北の国から 後編』(理論社、一九八一年)二ー五頁。
(58) 倉本、前掲『北の国から 後編』二七四頁。
(59) 倉本聰『北の国から ’89 帰郷』(理論社、一八八九年)九七頁。
(60) 倉本、前掲『北の国から 前編』二四五ー二四六頁。
(61) 倉本、前掲『北の国から ’89 帰郷』一七七ー一七八頁。
(62) 倉本、前掲『北の国から 後編』一一二ー一一三頁。
(63) 鷲田小彌太(札幌大学教授、哲学)「『赤ひげ』 黒澤明と倉本聰」(北海学園、前掲『倉本聰研究』七二頁)。
(64)前掲「対談=山口瞳 VS 倉本聰」三0七頁。
(65) 倉本、前掲『北の国から 前編』二二六頁。
(66) 倉本、前掲『北の国から 前編』十四頁。
(67) 倉本、前掲『北の国から 後編』三0二頁。
(68) 倉本聰『北の国から ’84 夏』(理論社、一八八四年)五七頁。
(69) 倉本、前掲『北の国から ’84 夏』八九頁。
(70) 倉本、前掲『北の国から ’84 夏』一五一頁。
(71) 倉本、前掲『北の国から ’89 帰郷』九0頁。
(72) 倉本、前掲『北の国から 後編』二九三ー二九四頁。
(73) 倉本、前掲『北の国から ’89 帰郷』一八七ー一八八頁。
(74) 倉本、前掲『北の国から 前編』五0頁。
(75) 倉本、前掲『北の国から 前編』七二頁。
(76) 倉本、前掲『北の国から 前編』二0三頁。
(77) 倉本、前掲『北の国から 後編』二三六頁。
(78) 倉本、前掲『北の国から ’89 帰郷』四四頁。
(79) 倉本、前掲『北の国から 前編』五頁。
(80) 倉本、前掲『北の国から 前編』六頁。
(81) 倉本、前掲『北の国から ’84 夏』九三頁。
(82) 倉本、前掲『北の国から 前編』二一0頁。
(83) 倉本、前掲『北の国から 前編』二四一頁。
(84) 倉本、前掲『北の国から 後編』一二三頁。
(85) 倉本聰『北の国から ’87 初恋』(理論社、一九八七年)一七八頁。
(86) 倉本、前掲『北の国から 後編』二九一ー二九二頁。
(87) 倉本、前掲『北の国から 前編』二0一頁。
(88) 倉本、前掲『北の国から 前編』二0一頁。
(89) 倉本、前掲『北の国から 後編』一00頁。
(90) 倉本、前掲『北の国から 後編』二九四頁。
(91) 倉本、前掲『北の国から ’87 初恋』一七二ー一七三頁。