「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」3/3
「第三章 倉本聰その底流にあるもの」
「1. 創る」
「『北の国から』というタイトル。これはまさしく東京向けの情報で、東京に読者を想定したシナリオではないかという疑問が私にはありました。」(1)
確かに、『北の国から』という「タイトル」には“北の国”から「東京」へ向けての「問いかけ」という意味合いがこめられていると思う。
「誰も入植とは云ってくれない。
自分では入植のつもりでいる。
鍬(くわ)や鋤(すき)こそたまにしか持たぬが原稿用紙とペンを持ってきた百年遅れの屯田兵だと自分では勝手に解釈している。」(2)
耕すべきものは自分の内なる土壌である。そして、活性化された土より生みだされた「作物」を原稿用紙でくるみ、読者のもとへ「作品」として届けるのである。
「あなた方は毎日似て非なる食品を食べさせられているのではないですか!?」
“北の国”の空気をじゅうぶんに呼吸した食物は、我々の胃袋を通し、我々の体に直接問いかけてくる。
では、なぜまた東京なのだろうか。
それは、いま「東京」が日本の政治・経済・文化の中心であるからではなく、倉本聰が生まれ育ち、暮らした地こそが「東京」だったからである。「ドラマをつくるという点で考えると、旅人として物を書くと絵はがきになってしまう」(3) と言い切る倉本聰は、自らが体験したことのない土地について云々する手の作家ではない。
たとえ地方の東京化がしきりにいわれる昨今であろうとも、倉本聰がかりそめにも口にできるのは、四十年近くを暮らした「東京」をおいて他にはないのである。
“北の国”での生活こそがドラマであった。
倉本聰は、ドラマのまっただ中に放りこまれた。それは倉本聰の体をゆさぶり、根底をゆるがすものであった。四十(しじゅう)になる男の価値観をひっくり返し、なお止まない力があった。生きることの根源に目を開かせ、変わることを強要した。
「何を書きたいとか訴えたいとか、さしたる大それた思い入り(れ)もなく、この数年間身近に起ったいわば日常の細々したことをエッセイ風に書こうと書き出した。
北海道の殊に富良野という“地方”に住み出して丸五年。いわば五歳の僕にとって見るものきくもの全てが新鮮で、だから少年のナレーションで進んだ。
ドラマの中で純は作者である。
だから少々ヒネており姑息である。
書き始めたら頭より筆先がぐんぐん勝手に進んでくれた、そんな感じの作業であった。
殆んどのドラマが東京人によって書かれ東京で作られ地方へ流される。それが不思議な情況だということに書きつつ次第に気がついていった。
『前略おふくろ様』でその前の数年を使い果し、以後の数年をこの作品(『北の国から 前編』、『北の国から 後編』)で使い切った。又数年間、充電せねば。」(4)
「僕は嘗つてドラマで方言を殆(ほと)んど使っていない。それは、深く知りもしない方言を書くことは、一種物真似的カリカチュアライズになり、その地方を茶化すことになると考えてきたからである。」(5) という倉本聰は、『北の国から』を「北海道弁のセリフ」で埋めた。
五年という歳月が、倉本聰を「旅人」から「住人」へと変えたのである。
「倉本さんの富良野への定住には、目下のわが文学の危機状況下において、あたかもこれら先人(プーシキンやユゴー)の『亡命』に匹敵するほどの重い意味がひそんでいる、と考えられるのです。
この時期において倉本さんが、当時の日本の社会状況もさることながら、テレビ社会のエスタブリッシュメントの総体から『亡命』するほどの距離をとった時、その複眼による観照が、どんなに深く、どんなに輝きを増したことか!(中略)同時に、そのように骨肉を削るようにして提出された一つ一つのテレビ作品が、実は当代の『芸術』創造の中でも、最も意義ある文学的試行であることが、次第に明白となりつつあるのでした。」(6)
「ーーおそらくは、現代の危機意識から出発するかどうかが現代文学の第一要件だとすれば、『北の国から』は、ともすれば最近のホーム・ドラマが喪失(そうしつ)しているこの第一要件を、しかも、あのきびしい大自然のまっただ中で、根底的に問いなおす現代的な作品となったわけです。危機を生きぬく日本人ぜんたいの自問自答が、北海道のヘソと呼ばれるこの原野でならば、いま、濁(にご)りなくみつめられるのではないでしょうか。
倉本さんは、こういう自問自答の先兵として、自身の生活を根こそぎその地に移し、その自問自答のゆくえを逐一(ちくいち)私たちに知らせてくれるために『北の国から』というメッセージを構築しはじめたのです。古き良き開拓者魂の系譜(けいふ)をたどって、たんに私たちのくたびれ果てた生活に活を入れようとするのではないようです。すでに自然を喪失した私たちに対して、ゆたかに残存している北辺の自然を栄養補給してやろうというのでもないでしょう。放置しておくならば絶望にのめりこみそうな現代生活の根元に、なおも生きて愛する活力をよみがえらせようとする文学そのものの耕作を、おめずおくせず不屈に試みようというのでしょう。呻き声ばかりが累積されてきた土壌に、改めて開拓の鍬(くわ)を打ちこもうとするのでしょう。」(7)
倉本聰が、「旅人」から「住人」になる過程で見つめたものとはいったい何だったのだろうか。
四十(しじゅう)になる男は、この地において何に触れたのだうか。
何に感じ入ったのだろうか。
「偉大なる平凡人」の足跡をたどってみようと思う。
倉本聰の力強くも静かなる闘いをすくい上げてみようと思っている。
「1. 創る」
「あなたは文明に麻痺していませんか。
車と足はどっちが大事ですか。
石油と水はどっちが大事ですか。
知識と知恵はどっちが大事ですか。
理屈と行動はどっちが大事ですか。
批評と創造はどっちが大事ですか。
あなたは感動を忘れていませんか。
あなたは結局何のかのと云いながら、
わが世の春を謳歌していませんか。」(8)
五郎親子が移り住んだのは廃屋であった。電気はいうにおよばず、水道もなければ瓦斯もない、かろうじて雨露がしのげるだけのあばら屋。東京での“あたりまえ”のない暮らし。ここでの第一の要件は生きることであった。生きることを確と見すえ、生きることからすべてを割り出すこと。日本人が彼方へと追いやってしまった知恵を思い起こすこと。創意工夫すること。創ること。
「豊饒(ほうじょう)は人を知恵から遠ざける。
豊かさは我々にあらゆることを、金や情報で解決させようとする。
全てを金に頼ってしまうとき、我々は知恵を使わなくなる。
貧しさの時代は少しちがった。
人々は頼るべき金も何もなく、必死に自らの知恵をふり絞った。そうせねば何事も進行しなかった。そしてその時代人は夫々(それぞれ)に、物事を押しすすめる知恵を持っていた。」(9)
倉本聰が終始一貫して説くことは「知恵」の重要さである。
(倉本聰のいう「知恵」((ときに「智恵」と表記されることもある))とは、生きるために、生き抜くために、また生活するために必要なものやことを創りだす働き、というほどの意味合いのものであり、仏教でいう「智慧」((般若))とは自ずから異なるものである。)
「ここの生活に金はいりません。欲しいもんがあったらーーもしもどうしてもほしいもンがあったらーー自分で工夫してつくっていくンです」、「つくるのがどうしても面倒くさかったら、それはたいして欲しくないってことです」(10)
「(ほがらかに)お金があったら苦労しませんよ。お金を使わずに何とかしてはじめて、男の仕事っていえるンじゃないですか」。(11)
「つくる」とは、「創る」ことである。必要なものは手を汚し、額に汗して創ることである。愉しんで創ることである。心をこめて創ることである。想いをこめ、祈りをこめ、時をこめ、今をこめて創ることである。時を惜しまず、骨を惜しまず創ることである。ただ創る、創るために創る。過程をいとおしみ黙々と創ることである。
創ることに対する倉本聰の美学である。
このように創ることを高めてゆけば、自ずと「道」にいきつく。なにごとにかぎらず、倉本聰の内では常住座臥、日常の茶飯がまっすぐに“芸の道”へと結びつくのである。一つの道を極めてそれを日常にまで敷衍すること、日常を極めてそれを一つの道へと昇華することーーと、倉本聰はいとも簡単にいってのける。そして、やってのける。実行にうつさないまでも、倉本聰にはそれらとむき合う気構えが感じられる。心意気が、気概がうかがえる。
私が倉本聰に魅かれる理由の一つである。
「『職人』。何とうれしい言葉だろう。最近は悪い代名詞のように使われる。彼はまァ云ってみりゃ職人ですからね。(中略)自分について云うならば、どんなに他人から悪い意味で、『あいつは職人だよ』と噂されても、僕は職人になりたく思っている。そりゃァ金も欲しい、ダメな男だから色んな欲もある。只しかし一点、己の脚本を書く仕事に関しては、たとえ一人をでもそのホンが誰かを心底摶ってくれさえすれば何もいらないと考えちゃう所がある。泣いて下すった旦那がいたら、あたしゃもういいよとそんな感じである。その一点に人生を絞り、他の全てには無知無学、お前馬鹿かなんて云われて生きたい。」(12)
倉本聰の創造の美学の頂点に立つものは、昔気質の「職人」である。
「昔の職人には、少なくとも自分の職業に対してだけ激しい情熱と誇りがあった気がする。彼らはたとえば柱一本、植木の刈込み一つにも、金銭を度外視した、いわば自分が納得できるまでの徹底的なこだわりがあった。それが職人の意地であり、他のことなどどうでもよかった。そして又それら職人の仕事を、理解(わか)ってくれるいい旦那がいた。今その旦那はいるンだろうか。(中略)職人は決して文化人じゃないし人の範となる人でもない。だからこそ職人は職人でいられたのだと、僕は今なつかしく思うのである。」
(13)
「決して文化人じゃないし人の範となる人でもない」市井の人、「職人」を頂点に立たせることにこそ、倉本聰の倉本聰のたる由縁がある。
「『よし五分引きだ!』
ヨシオさんが叫び、一同セエノと声を合わせてヨイヤッ、ヨイヤッとつなを引いた。成程少しずつ洞の木は動いた。
五分引きという言葉ははじめてであった。後にヨシオさんに訊ねてみると木材の方ではよく使うという。全く動かぬものに対して、五分ずつ動かして行くやり方である。十メートルあろうと百メートルあろうと一センチ程ずつ動かして行く。つもりつもらして事を成す。都会の人間の学ぶべき所である。
半日かかって洞の木は立った。」(14)
これは、倉本聰が実生活において、アメリカ開拓時代に行われていた原始的な方法に倣って燻製をつくろうと思い立ち、友人たちの手を借りて、洞の木を庭に運びいれたときの一コマである。(「五分引き」ということばこそ使われていないものの、この体験は五郎親子の燻製づくりに反映されている)
業者に頼み、クレーンでひょいと、などという洒落たことは決して考えない。思いもつかないのである。たのむべきは常に己の力だけである。時を稼ぐことによって、事をなすのである。
「今都会ではあらゆることが人に頼むことで要求を充たされる。一寸した困難、わずらわしさの度に我々は誰かに解決を依頼する。夫々の分野の専門家がいてつまらぬことにもすぐ来てくれる。そしてそのことに金を支払う。都会は依頼の構造でできている。それは確かに便利なことである。しかしその便利さは一方に於いて創造の喜びから人を隔てている。創造のない世界は人を貧しくする。弱くする。」(15)
『北の国から 前編』、『北の国から 後編』だけにかぎってみても、「メイド・イン・黒板家」の商標をもった物がたくさんある。五郎は実にたくさんの物を創った。気のいい仲間たちの協力を得て、さまざまな物を創りあげた。あるときは、純や螢もそれに加わった。手を貸さないまでも、常に出来あがるまでの過程をつぶさに観ていた。目を輝かせ、胸をときめかせて見つめていた。祈るような気持ちで目を凝らしていた。「創造のよろこび」を全身に浴びていた。
それらはすべて日常生活で手にする物ばかりであった。
廃屋の修理を手がけた。冬の間中の食料の貯蔵庫、丘ムロを創った。川の水をパイプで引き水道を創った。自らの手で図面をひき、元 土橋だった古材を材料に、丸太小屋を創った。
このような暮らしのなかで、純と螢は「感動」することをおぼえていった。
「父さんの水道がやっととおった日」、「風力発電で電気がついた日。東京で感じるうれしいこととぜんぜんちがった、そういううれしさを、ぼくらすこしずつ知っていったンだ」(16)
「現代は、日本人、感動というものを知らなくなっちゃたのではないか、という気がするんですね。たとえば、大学に受かったっていうことが感動なんだろうか。お金が儲かったってことが感動なんだろうか。試験に百点とったのが感動なんだろうか。それらは単なるよろこびであってね。感動っていうのはもうひとつ、ザワザワと、こう、軀の奥底をゆさぶるものでなければならない。そのことをあまりに皆さんが知らなさすぎる。」(17)
「物が何もなくても、何とか工夫して暮らすンだということ」、欲しいものは創るンだということ。「創造の喜び」、一つのことを為し遂げた後の感動ーーこれら手づくりの暮らしのなかで、純と螢を変えた最たるものは、物に対する態度であった。さまざまな物の、それぞれの履歴を感じるようになった。物の陰に隠れてみえなかった人の姿をそこに発見した。
物の有り難さを肌身で感じた二人は、必要な物とそうでない物とを区別しはじめた。
「何でも新しく流行を追って、つぎつぎに物を買うぜいたくな東京。
流行におくれると、まだ使えるのに簡単に捨てちゃう都会の生活」(18)
「今の道具でこと足りているのに、どうして人は新しいもの新しいもの、より複雑なものへと志向するのか。文明開化がそんなにうれしいのか。」(19)
物に対する感じ方が変わったとき、純と螢は、はっきりと東京と訣別した。踊らされ買わされ続けてきた自分、商業主義社会に毒され続けてきた自分、大いなる無駄のなかで暮らし続けてきた自分に気づいたとき、二人は迷うことなく地に足のついた生活の豊かさをとったのである。
以下に引いた文は、富良野塾・第一期生との切なくも感動的な別れをした倉本聰が「ぼんやり」と考えたことである。
「彼らに何もしてやれなかった。
しかし彼らは何かを得ただろう。
ただ。
その得たものが『教わったもの』でなく、彼ら自身が『産み出したもの』『創ったも
の』であったならうれしい。そういうものが一つでもあったなら、二年の歳月を納得で
きる。
此処(ここ)は即席のスターを生む場でなく、『創る』という感動、只それだけを、
体験してもらう谷なのであるから。」(20)
「彼らが周囲から九を教わり、一を思考し創造したのなら、その一に対して讃えてやり
たい。
一が二だったならもっと讃えたい。
二が三だったら更に讃えたい。
それが五だったら、絶讃に価する。」(21)
「創る」ことにこだわる“倉本聰”のよくあられた文章である。
倉本聰にとって、「創る」ことは生きることにまっすぐにつながった営みである。知恵をはたらかせることは、今を生きる私たちが、奥深くにしまいこんでしまったものの一つ一つを注意深く、丁寧に掘り起こす行為であり、よりよく生きる手立てなのである。
「2. 教育」
「学んだことの唯一の証(あかし)は変わることである」とは、林竹二の口癖であった。
“北の国”は、純や螢を変えた。“北の国”での暮らしにより、二人は日常から学んだ。
二人は生きる営みを学んだ。『農の情景』に接し、食べることを学んだ。創ることを学び、創ることで学んだ。二人は自分のもついろいろな顔を知った。風を感じ、四季の移ろいを知った。自然とともにあることを知り、自然とともにあることの大切さを知った。二人は開かれた生活のなかで、人の生きる姿を見つめた。幾多の出会いと別れを経験し、そして死を見つめた。さまざまな出来事に立ち会うなかで感動をおぼえ、悲しみを味わった。なににもまして、生きることにつながった学びがいい。歩きながらの学びがいい。
“北の国”は、純や螢にとって、かけがえのない教育の場であった。この地において二人は、すべての人、もの、ことを糧に、「都会の生活に見落した何かを確実に身につけて」いった。
むかし、子どもたちは
夢のなる樹だったよ
すり傷だらけで
いつも神様の隣りにいた
むかし、子どもたちは
ねずみ花火だったよ
どこにはじけてとんでくか
だれにもわからなかった (22)
都会での生活のなかで、あわただしい時間を過ごす子どもたち。輝きを失った子どもたち。極度に管理され、人間らしさに蓋をきせられた子どもたち。上手に目隠しをされ、生活のにおいから遠ざけられた子どもたち。子どもらしく生きることを拒まれ、大人しく生きることを強要された子どもたち。
子どもたちによかれと思い、信じ、行っていることの一つ一つを、今一度原点に返って、探ってみる必要がある。
分校の教諭は凉子先生だった。
「教師として私。ーーよくありませんよ」、「二十三だし。健康だし。女だし。だから。ーー人格者であるわけないしーー」。(23)
凉子先生は、のっけからこんなことをいってのける先生である。
「教師のくせに。ーー本当はぜんぜん自信ないのね」、「自信ないんですよ。教師として私」。(24)
「先生」と呼ばれることにくすぐったさを感じ、自分を静かにみつめ、問う、凉子先生。時代の要求とはどこかはずれた凉子先生。はずれた先生は、はずれた子どもたち同様教育現場からおっぽり出されるのが昨今のご時世である。凉子先生とて例外ではなかった。
子どもたちとの対話を通してともに考えながら、一つの問題を深く掘り下げてゆく授業はだめな授業ですか。子どもたちに押しつけることなく自分の考えを伝え、個々の意見を尊重する先生はいけない先生ですか。生活と密着した話題を教材にして、子どもたちに「生きることを問う」授業は許されない授業ですか。たとえテスト中であろうとも、解らないことはお互いに教えあうことを認める先生、解るまでつき合う先生、全員に百点をつけ評価しない(最高の評価をあたえる)先生は、いただけない先生ですか。笑いがあり、驚きや感動があり、思ったことを自由に口にすることができる教室は、否定されるべき教室ですか。困っている子どもを陰で支え、そっと見守る先生は、まかりならない先生ですか。休日に子どもたちと連れ立って、あるいは山菜採りに行き、あるいは川に行き、子どもたちと親しくする先生は「かんばしくない」先生ですか。
倉本聰は、理想の教師像を凉子先生に託したのである。分校を現代の学校教育の最後の砦にしたのである。が、倉本聰は、またその同じ手でその分校を廃校に追いやり、また凉子先生を UFO に乗せて連れ去ってもしまったのである。
このことのもつ意味は深長である。
「『北の国から』は富良野を反文明のユートピアと見立てた大人のためのメルヘンではないか。そうした意味で、純が宇宙人と遭遇するエピソード(凉子先生が UFO に乗って立ち去ってしまった一件)の夢幻的なイメージも肯定できるというものだ。」(25)
とは、鬼頭麟兵の言である。が、はたしてそうなのであろうか。私にはとてもそうとは思えない。「純が宇宙人と遭遇する」との表現にも首を傾げたくなる(純が実際に「見た」ものは「巨大な葉巻型宇宙船の底」であり、「宇宙人」とは「遭遇」していない)のだが、このエピソードを単に「大人のためのメルヘン」であるととらえるのは、あまりにも短絡的にすぎると思う。ひいては作品のもつ“重大さ”さえも損ないかねない、少々やりきれないとらえ方である。『北の国から』は緻密な計算にもとづいて、テレビドラマとしては異例の時間と労力をかけて制作された作品であり、そこに登場するほとんどの「エピソード」は、実生活に取材したものである。よって、我々にこたえ、重みのあるもの仕立てられているのである。
「僕は UFO を見た男を知っている。しかし世間はその男を信じない。
僕は幽霊を見た女を知っている。しかし世間はその女を信じない。
科学は己れを超えてしまうものを殆んど傲慢に笑って否定する。かつて自らの先駆者であるところのガリレオ・ガリレイやコペルニクスが被害にあったその同じ否定を、今や加害者として他所者に叩きつける。」(26)
倉本聰における一連の UFO 事件とは身近な問題であり、切迫した問題なのである。そして、倉本聰は、鋭い切っ先を我々の胸元に突きつけてくるのである。
科学は至上のものですか。“事実”こそが“真実”であり、動かしようのないものではないのですか。“信じる”とは、すべてをそのままに、ただ受け容れること、そこに一つの疑念もさしはさまないことではないのですか。他人(ひと)をこき下ろすことにより面白がり、平気で他人の神経を逆なでするテレビ番組は非難されるべきものではないのですか。あなた方はそんなテレビに毒されいるのではないのですか。
倉本聰は一連の UFO 事件にことよせて、現代を生きる我々に警鐘を鳴らしているのである。それは急を告げる早鐘であって、決して「メルヘン」の世界で語られる類の、心に深く沁みわたり、内でこだまし、人を陶然とさせる類の鐘の音ではないのである。
「かつて彼(ある中学校の教師・F氏)のいた中学の同僚で、ある晩 UFO を偶然目撃し、それを生徒に語ったところ地元の新聞に大々的に載り、それが教師として軽率な行為だと仲間たちから吊し上げられ遂に去って行ったものがいたと云う。」(27)
『ニングル』のなかにある文である。倉本聰がF氏から直接聴いた話である。
倉本聰は、この話を下じきに凉子先生の UFO 事件を書いたのではないか。そう考えたくなるほど、両者には類似点が認められる。しかし、両者は、時間的に前後している。
しかし、この問題に関して「大人のためのメルヘン」である、と結論づけるのは早急に過ぎる。
倉本聰は一九七六年二月八日に放送された「幻の町」(倉本聰『倉本聰コレクション8 幻の町』理論社 一九八三年 所収)のシナリオにおいて、はじめて「幻想」の世界を描いた。
倉本 ただ橋本(忍)さん、野田(高梧)さん、小津(安二郎)さんというのは、いわば、ぼく自身がシナリオの技術を習得するために必要な先生だったわけですよ。それでね、ぼく自身は個人的には加藤道夫の世界というのが、めちゃくちゃに好きなわけですよ。リアリティの中に幻想が持ち込まれてくるということが、一方でぼくの好きなテーマとしてあったわけですよ。ところがもう一方で、「りんりんと」が一つの節目なんですけれど、老人問題というのが、ぼくの中にあるわけですよ。自分がかかえていたテーマとして、ずっと長いことあったわけですね。老人問題というのはね、ぼくにとってはすごく救いようのない、結論の出ないテーマなのです。じゃ、結論の出ないテーマの結論というのは何か、というとね。自分としては現世の中に結論が出ないから、幻影の世界の中に結論を求めざるをえなかった、という、一つのテーマ的にいうと、そういうことがあったのですね。それと、加藤道夫にぼくがずっとひかれてきた、それをものすごく大事にしてたという部分みたいなものがある、たぶん未消化のまんま。それがブワーッとあふれ出ちゃった、というふうにしてつくられたのが「幻の町」という作品だ、と思うのです。だからぼくにとっては、どこが悪いとか、じゃどこを直せとか、そういうものじゃなくなっているわけです。白井 あなたにとっては、もう技術の問題じゃないわけですね?
倉本 技術じゃないんですよ。だから逆に、これを感受性で受けとめてくれる人だけが受けとめてくれりゃいい、というところまでいっちゃうんですね、こういうのというのは。
白井 なるほど。それだけに「幻の町」には、新しい次元への倉本ドラマの一つの始まり、みたいなものが感じられますね、確かに。じゃあ、それから後のこのテーマは、倉本聰テレビドラマ集、第二の巻頭で、やることにして、今回はこれくらいにしましょう。(笑)」(28)
倉本聰における「幻想」の世界とは、「現世」においては「救いようのない、結論のでないテーマ」に終止符をうつ場である。
『北の国から』に即していえば、倉本聰の目に映った現代の学校教育は、「救いようのない」ほど、解決策のみつからないほど、病んでいた。学校教育と向きあい、疲弊し悄然とした健気な凉子先生を救う手立ては、凉子先生を「幻想」の世界へと導くこと以外には方法がなかったのである。倉本聰の作家としてのせめてもの良心が、凉子先生を「幻想」の世界へと連れ去ったのである。
凉子先生が姿を消して以降、学校教育の風景もまた姿を消した。
『北の国から 後編』・第二四話には、純の元 受持の教師・小川が登場するが、小川は令子のうわべだけをほめる。勉強のことばかりを口にし、内面に目のとどかない、他人(ひと)の気持ちなどわかるべくもない先生である。東京で教師を自称する先生たちへの、倉本聰の批判の矢面に立たされた代表としての先生である。
また、『北の国から ’87 初恋』において、五郎が相談をもちかけた先生は、終始口をつぐみ、沈黙している。名前のない、顔をもたない先生である。
以降、学校教育の風景はなく、また教育に携わる者の登場は、以上の二か所にかぎられる。これは、倉本聰が現代の学校教育に絶望し、見切りをつけた結果だと思う。
死と再生。死なき再生はない。絶望のないところに希望はない。
一九八三年四月、倉本聰は自らの手で富良野塾を開いた。
「営利を目的としない」、「義務の教育とは対極の場」にある私塾である。「法律の枠外」でしかできないと思われる「“大切なこと”」を「のびのび」とやる、まったくの私塾である。
「実はここ何年間か、漠然と考えてきたことがあった。
僕がこの地に来て七年間に得たさまざまな感動、カルチュアショック。何よりも都会の生活のように本やマスコミから与えられる第二次第三次情報でなく体験から獲得する第一次情報。その情報にめぐり逢う感動。知識がそれ程価値のないことでそれより智恵こそが大事だと知ること。更に何よりも政治や社会や人智のつくったプラグラムでない神のプラグラムに動かされて生きること。それら諸々(もろもろ)を人に伝えたい。若者たちに分けてやりたいそんな考えが」(29) 形をとった塾である。
私はここに現代の学校教育への挑戦とでもいうべき、倉本聰の強い姿勢を感じる。
『谷は眠っていた』は、創成期の富良野塾、また、そこに生きた若者たちを描いた記録である。現代の学校教育に欠落した宝物がいっぱいつまった「教育書」である。昨今巷にあふれかえっている、教育ブームとやらに軽はずみにものった、まことしやかな書籍とは比すべくもない、感動のいっぱいにつまった、血の通った「教育実践書」である。
以下は、読後、私の印象に強く残った、『谷は眠っていた』からの引用である。
「これらの歳月、僕はこの谷の中で、無数の若者を見たような気がする。いや、若者というより人間と云ってしまうべきかもしれない。
谷はまさしく僕に対して、そうした無数の教材をくれた。
この谷で得たことの最も多かったのは、多分僕自身ではなかったか。」(30)
「塾の四年をふりかえってみて自分が唯一誇れることがある。それは、これまで関わった六十余人の若者全てを、まちがいなく自分が愛せたことである。
その愛が今も続いていることを、自分の為に臆面もなく誇りたい。
この道(シナリオライターや俳優への道)を諦めろと宣告したもの、卒塾を待たずに去って行ったもの、去らせてしまったもの全てを含めて、この谷に住んだもの全ての若者を愛せたことに僕は感動する。
だから卒塾の季節は耐えかねた。
世の教師たちは毎年このような、激しい辛さに耐えるのかと思ったら、到底教師にはなれないと思った。」(31)
倉本聰の教育者としての顔がここにある。
もし私が教壇に立つことがあるならばーー。
子どもたちと過ごす毎日のなかで「得たことの最も多かった」自分を感じていたい。
もし私が教壇に立つことがあるならばーー。
子どもたちのすべてを「自分が愛せた」ことを「臆面もなく」自分に「誇れる教師」でありたい。
もし私が教壇に立つことがあるならばーー。
子どもたちとの別れの季節は「激しい辛さに耐えかね」ひとり涙したい。
「臆面もなく」、恥ずかし気もなく、年齢(とし)甲斐もなく、私をその気にさせる本である。その気になる本である。
「3. その底流にあるもの」
ご両親は敬虔なクリスチャンであった。倉本聰は幼児洗礼を受け、日曜学校へ「有無を云わさず通わされた」。ところが、中学、高校へと進むにつれて、その足はしだいに教会から遠のいていった。そして、ついに「キリスト教と縁が切れた」(32) と倉本聰はいう。
キリスト教について、仏教について、老荘思想について、またアイヌ民族の思想について、私は通り一遍の知識しかもちあわせていない。したがって、非常に生半な、おぼつかない物言いになってしまうのであるが、はばかることなくいわせてもらえば、私は倉本聰のなかに、西洋というより東洋を、キリスト教的なものというよりむしろ仏教的なものを直感する。もうすこしいえば、、それは禅や老荘思想につながるものである。そして、北海道富良野市六郷に居を構えている倉本聰は、アイヌ民族の思想に関心を寄せ、また多分に影響を受けている。
「自然を保護するという言葉の中には、人間を強者、自然を弱者と見なしてしまっている根本的錯覚と傲慢の姿勢がのぞいているように思えてならぬ。昔アイヌは自然を神とした。人はいつから『神』を『保護』する偉い存在に成り上がったのだろうか。百歩譲って自然を神ではなく、一つの人格と考えてみようか。僕はその時巨人を連想する。無限の純粋さと正義と力。それらを内にしっかりと秘めながら無口で不器用でじっと耐えているそういう男の姿を想像する。僕はたとえばそういう男に、『保護』という言葉はとても使えぬ。彼に対して僕の想うのは畏怖であり尊敬であり従属でありそして憧れだ。僕は彼から愛されたい。愛されて初めて僕らの生はその片隅に許されるのではあるまいか。まず、そのことをもう一度考えたい。そしてそこから更めて始めたい。巨人に健康でいてもらうことをーー」(33)
ニングルは「身の丈凡(およ)そ一五センチ」。「平均寿命二七0年」。北海道は「富良野市六郷の背後に拡がる」「樹海(東大演習林)のどこか奥深く、人間社会から隔絶された場所」の住むという実在する「小人(こびと)」である。
『ニングル』は、ニングルについて書かれた本である。手記である。「倉本聰の’黙示録’」である。
ニングルの生き方、思想、哲学は、倉本聰の内なるものとみごとに符合し、響き合い、こだまし合った。倉本聰は、ニングルとの触れ合いを通して、自らの内なるものをはっきりと自覚した。『北の国から』の底に、力強くも静かに流れていたものが、『ニングル』において再確認され、さらなる発展をとげた。
テレビ・シナリオという、ある種洗練された形で小出しに提出されたものが、『ニングル』においては、荒々しい原始の姿そのままに息づいている。
『ニングル』は、倉本聰の思想の原点が記された作品である。
ニングルは神様の近くで生きている。暮らしのテンポを「森の時計に合わせ」、自然とともに生きている。「あらゆる文明、あらゆる理屈、ーー混沌、複雑、詭弁、欲望。文化と云われる一切のものから純粋に隔離され」て生きている。「知らん権利」と「放っとく義務」とを「生活(の)信奉」として生きている。
「『知らん権利』と『放っとく義務』。
それは現在の日本人社会とは将(まさ)に対極にある思想ではないか。
人間はその逆『知る権利』をふりかざし、ひっそり生きる者の神聖な領域へまでずかずか土足でふみこんでくる。人間は放っとく義務など持てない。自分に関わりない他人のことへまで、放っておけなくてしゃしゃり出てくる。ヒューマニズムとか正義の為とか適当な言葉を探し出し掲げて。」(35)
「先生。(ニングルの長(おさ)の、倉本聰への呼びかけである。以下、ニングルの長の語ったことばである)
人間が社会を作るとき、権利と義務という言葉を口にする。
あれはそもそも人間の言葉でない。
あれはそもそも神様の言葉だ。
神様が自然をお創りになったとき、自然が永続して行く為に、権利と義務という言葉を作られた。
あらゆる動物、あらゆる植物が、自然の中で生きて行く為に、それぞれの権利と義務を持たされた。
今猶(なお)みんなそれを守っています。
守っていないのは人間だけだ。
人間だけが権利のみ主張し、自らの負うべき義務を果たさない。
これは大変まずいことです。」(36)
「知らん権利」とは人間の「知識欲を忌(いま)わしいものとしてぴしりと封じ」ることである。
「知識はすすンでも心はすすまんべ。」
「考えてもみなさい、色んなこと知ってさ、知った分人は倖せになっとるか?」
「倖せになることもそりゃあるだろうが、知って不幸になることも多いぞ?・」(37)
「だったら元から知らんようにして、耳ふさいで生きるのも利巧かもしれん。イヤ、それで倖せに生きとるンだったら、その方がいいようにわしも思うンだわ」
「先生、わしゃあ最近思うンだが、知らん権利ちゅう妙な言葉を奴ら(ニングルたち)がしきりと使う理由は、人間を見てきた結果とちがうかな」
「あいつらは人間の三倍は生きる。人間の歴史をじっと見てきとる。もしかしたら人間自身なンぞより人間をよう見て考えとるかもしれん」(38)
造園業を営む井上みどりさん、通称「井上のじっちゃん」の倉本聰へのこの金言は、倉本聰の我々への寸鉄でもある。
「知らん権利」と「「放っとく義務」とは、同じものごとの表裏をなすものである。頭をつかうことなく放っておくこと。自我を捨て自ずからなものに由ること、自由になること。自然(じねん)に生きること、自在に生きること。ここに私は焚き染められたふんぷんたる抹香臭さを感じる。
衆生悉有仏性ーー生きとし生けるものすべてに仏は宿っているのである。小賢しい頭をめぐらせ、知る必要はないのである。人為を捨て、安心してたたずんでいればよいのである。
「知らん権利」と「放っとく義務」の意味するところであると思う。
「諦める」とは「明らめる」ということであり、それは「諦観」へとまっすぐにつながっていく。
「それとね、これもいえるんですよ。天災にたいしてねーーあきらめちゃうですよ。何しろ自然がきびしいですからね。あきらめることになれちゃっとるですよ。だからーーたとえば水害にやられたとき、ーー今年やられましたよ北海道さんざん、ーーめちゃめちゃにやられてもうダメッちゅうときーーテレビ局来てマイクさし出されたら、みんなヘラヘラ笑っとるですよ。だめだァって、ヘラヘラ笑っとるですよ。あきらめちゃうですよ神様のしたことには。そういう習慣がついちゃっとるですよ。だからねーー」。(39)
「北海道の人々は自然の中で暮しているから、ある天災が起きたときあきらめる術(すべ)を知っている。神の所業に、運命に対し、甘受すること、あきらめること、それを習慣として身につけている。だから。もしそれが天災でなく、仮りに人災であったとしても、運命として呑みこむ、事態を甘受する。
都会ではどうか。そうはいくまい。
都会は、都会のマスコミたちは、あらゆる事態に責任者を求める。犯人を求める。犯人を決めねばどうしても気がすまない。犯人を制定し、その名を掲(かか)げ、徹底的に彼をしごきあげ、彼を社会から葬り去るまで叩きに叩いて潰(つぶ)さなねば気がすまぬ。
殺伐陰惨たる村八分の儀式。
正義のマスコミはそれを完遂する。
都会では今やその如く見える。だが村はちがう。村はむしろちがう。
村には運命を甘受する智恵、度量、風習、胆力が生きている。」(40)
倉本聰のいう「諦める」とは、大いなるものに身を任せるということである。ものごとに執着しないということ。拘泥しないということ。これはこれでよし、とすること。それはそれでよし、とすること。過去を引きずらないということ。未来を引きこまないということ。今に留まるということ。今に丁寧に生きるということ。今を感じるということ。
倉本聰は「神」といい、「仏」とは決していわない。しかし、私には、倉本聰の「神」は、どうしても「仏」と響くのである。
「人は仏心の中に生まれ
仏心の中に生き
仏心の中に息を引きとる」(41)
円覚寺の朝比奈宗源老師が口癖のようにいわれたことばを、紀野一義が書き留めたものである。
「諦める」とは任運自在に生きるということである。私たちは、今、ここに、安心してたたずんでいれば、それでいいのである。
倉本聰は「バカ」に「稚気」という漢字を当てる。
昭和五六年十月二六日、「空知川イカダ下り大会」でのことであった。
「河原は既に花園のようだった。
いい齢をした男たちが笑い、そうして夢中で夫々のイカダを組み、女たちは興奮し、そしてはしゃいでいた。
田中邦衛が僕に囁いた。
『先生、これはすごいことだね。こんだけの大人がこんだけ夢中にさ、マジに稚気(バカ)やるべく集るっていうのはさ、ーー先生、富良野って素敵なとこだね』
そうなのだ。
稚気(バカ)こそ貴重なのである。
大の大人たちが一文にもならない、かなりバカバカしいこの祭典に子供のように目を輝かし何日も準備して大真面目に参加する。
すてきではないか。
わくわくするじゃないか。
何発かの花火が空に舞い上り、数百の稚気(バカ)たちの熱い興奮が一挙にぐうんとエスカレートした時、稚気(バカ)を代表するわれらのチャバ(茶畑和昭氏)のスタートを告げるアナウンスがあり、そうしてイカダたちは空知川に流れた。
ダムを放流した結構な流れに、富良野の夏は一気にフィーバーした。」(42)
他の箇所での表記はすべて「馬鹿」であり、「稚気(バカ)」は、この本(『北の人名録』)のこの箇所にだけみられる特有の“漢字づかい”である。しかし、倉本聰の書く「馬鹿」には、いずれも“稚気”の意味合いが色濃く反映されており、「馬鹿」は「稚気」と表記されても一向にさしつかえのないものばかりである。
「稚気(バカ)」は、倉本聰を解く際のキーワードである。
倉本聰は「稚気(バカ)」が好きである。そして、軽率にも「稚気(バカ)」に感じ入り、感動さえおぼえてしまうのである。
「宴が果て宿まで帰るべく、一同が小雨の中へ出て行くと、トシオがキャッと声を立てた。
森の中の闇の太い木の枝から、等身大の人形が下っていた。
それはざんばらの首を吊り、白いかたびらを着た一件であって恨めし気に目を剥き風に揺れていた。
『コレデスヨコレデスヨ。これだからイヤですよ。あんちゃん(倉本聰のことである)これチャバがやったンでしょう』
先刻闇の中に見た二つの影を僕は思い出し思わず吹出した。風呂から上って寝るとこだったチャバは僕らの宴に花を添えるべく、雨の中をわざわざ夫人同伴で幽霊を吊す為にやってきたらしかった。
こういうところがチャバの偉さである。
三十五歳にもなってるくせに、こういう馬鹿を徹底的にする。馬鹿の為には骨惜しみしない。そこに感動する。
馬鹿の鑑である。」(43)
「馬鹿の鑑」とまで謳われた偉大なるチャバ。そのチャバはあろうことか、倉本聰を軽快に笑いとばす。「稚気(バカ)」の「稚気(バカ)」たる由縁である。
「なァンも先生、誰だって二度目から始めることは出来ねべさ。一回目は誰だって初体験だ?・」。(44)
「先生はいつも物事をハナから深刻に考えるからいかん。これまで何だって何とかなっとるべ?・ 何でも最後にゃ何とかなるもンです」。(45)
「悪い方向へ考えるンでない?・ 悪い方向へ物事を考えると人間段々暗くなる。」(46)
チャバは徹底して“陽の人”である。
ことを前にしてことに臆することのない“動の人”である。
「云うことは常にホラだらけだが、引受けたとなると忽ち寡黙になる。能書きは並べない。黙々と実行する」、“全うの人”である。
やるときは考えることなく「ただする」、“集中の人”である。
心を頭の支配下におくことなく、今という刻(とき)に溶けこむ、“ただ今の人”である。物事にひっかかることなく生きるチャバ。自然に育まれた自然(じねん)の人。倉本聰は、こんなチャバのなかに一つの理想をみている。
チャバが東の横綱ならば西の横綱は、「井上のじっちゃん」である。先にご登場いただいたあのじっちゃんである。
「井上みどりさんは造園業である。
みどりという名から想像してはいけない。七十余年の土との闘いが赤銅色の肌にしみこんだ世にもきたなげなじいさんである。いつもMボタンをしめ忘れ、ズボンの前はダラリと開いている。しかし歌人である。粋人である。そうしてチャバをそのまま老けさせたような子供のような純粋な目をしている。
(中略)
じいさんは時々哲学的言辞を吐く。
『人は裏切るからやだ。植物がいい?・』
『盆栽。ありゃあんた見とったんじゃ育たん?・ 睨まにゃダメだ?・ 毎日睨むんだ?・ そうすると相手も緊張してよく育つ』
『話しかけるのも一つの手だよ。植物、ちゃんときくよ。人の話を』
『アインシュタインのアイタイセイゲンリから学んだ結果、人には絶対の勝者なンておらん?・ 敗者もおらん?・ だからオラいつも落着いておるの。ヒッヒッヒッ』
四十数年の僕の人生の中で、こんな哲学を云うものはいなかった。僕は今次第にじいさんに感化され哲学的人間に変りつつある。」(47)
「森はダムだよ、判るか先生(倉本聰をさす)。それも一つや二つ分でない。何十何百のダムを合わせたその位のどでかい水がめだわさ。しかもその水がめは神様が管理しとる」、「神様の管理は凄いもンだよ。近頃はダムもコンピューターつうんかい。プラグラムたら何たら偉そうに云っとるが、神様のプログラムにゃ太刀打ちできねえ。太刀打ちできねえのに偉そうにまァ、水がめ作れ、村つぶせ、それで一方で別の役人がもっと開発だ、森の木ィ伐れ。森伐ることが神様の水がめをよ、ぶちこわしてることにちっとも気づいてねぇ。心臓けずっといて血が出んて騒いどる。判るか?」(48)
井上のじっちゃんの「吐く」「哲学的言辞」の数々は活字からの借りものではない。それらは自分の肌に直接ふれたもの、自らの実感としてあるもの、自身の内からわき出てきたものである。それらには「七十余年」の人生に裏打ちされた持ち重りのする重みがある。松のことを松から習った確かさがある。竹のことを竹から習った明らかさがある。
井上のじっちゃんは、自分を超えた大いなるもの、大いなるものにつながった自分をはっきりと見据えている。じっちゃんの「吐く」「哲学的言辞」の数々は、大いなるもの、換言すれば、「空」、「玄」、「本来なる自己」から聴き、学んだものである。私には、そんな気がしてならない。だからこそ、じっちゃんは安心しきって「ヒッヒッヒッ」と高笑いしていられるのである。
観念を弄することなく、分別知に頼ることなく、実存として生きる井上のじっちゃん。
「じっちゃんはイモの花だ。ラベンダーじゃない」(49)
陸に沈み埋もれるままになっていた井上のじっちゃん、そんなじっちゃんをすくい上げたのは倉本聰であった。
仲世古 おっとし、井上のじっちゃん、市の文化奨励賞受けた。そのとき、先生祝辞を述べたんですが、「井上のじっちゃんが受賞するなんてことは札幌や東京では考えられない。まさに富良野だから」と言ってた。感動しましたね。いい話だった。
宮川 井上のじっちゃん、先生ずいぶん買ってるね。われわれは全然そんなふうに思わなかった。人を見る目が違う。
相澤 味のあるじっちゃんだからな。(50)
「まさに富良野だから」である。
倉本聰のお膝もとだからである。
井上のじっちゃんにはかなわない、そんな思いが倉本聰の内でこだましている。
倉本聰にとって、井上のじっちゃんとは眩(まばゆ)いばかりに輝く「大きなる存在」である。
昭和五三年(一九七八年)。倉本聰、当年もって四三歳、男盛り。北海道は富良野市六郷に居を構える。
この地は、この地の人々は、倉本聰を右に左に、上に下に容赦なく揺さぶった。倉本聰は北海道を全身に浴び、ついには富良野は肉とまで化した。
「東京にいるときは芸能界としか付き合わなかったけど、富良野に来て世の中の見方がまるで変わっちゃいましたね。ここには午前四時から働く世界がある。地元の人たちからいろいろなことを学べる」。(51)
「なんというか土地の人たちに、大自然の一部として生活している謙虚さがある」。(52)
「ここには大らかなユーモアとロマンがある。」(53)
「ユニークなのが多いね。金もうけにつながるとかそんなこと関係なく、なにかおもしろそうだというとワッと集ってくる」(54)
倉本聰は自然に分け入り「自然(じねん)」を想った。風を感じ「神」を想った。人とふれ合い「本来なる自己」を想ったのである。
私の考える、倉本聰における、北海道は富良野市六郷である。
石橋冠は、倉本聰に「十二歳の少年」と「八十歳の老人」を感じるという。
「ふだん、倉本さんと雑談したり、ばったり出くわして、遊んだりする時、ぼくは十二歳の少年を感じますね。時々、駄々っ子というか、やんちゃというか、未成熟というか、はらはらするくらいの少年の感性のようなもの。一緒にいると自分も知らないうちに、少年時代に戻ってしまうみたいな瞬間がありますよね。それくらい純粋で素直で未来に慄(おのの)いているというか、少年の魂さながらの倉本さんに出くわす時があります。もうひとつギョッとするのは、今度はもう八十歳なのかなと、すべてを見通した達観した老人のような眼を感ずる時がある。驚くべきは、その中間を全く感じないこと。少年か老人か、そのどっちかとつき合っているのではないかと思うのですよ。
あの瑞々しいロマンチシズムというのは、結局少年と老人の対話なのではないか。少し難しい言い方なんだけれど、少年の心と老人の達観がせめぎ合っているから、倉本ロマンチシズムというのが出てくるのじゃないかと思います。そう思うと、彼の中にある奔放とも思える少年の魂と、すべて見通してしまった老人の達観というか、諦観というか、それの入り混じっている優しいロマンチシズム、あれは倉本さんの持ち味なんだなあと思うし、そのあたりを倉本さんは、無意識にさまよっているのではないか。ーーと思ったりすることがありますね。」(55)
「十二歳の少年」と「八十歳の老人」。ともに透明度の、また純度の高い存在である。
俗気にあたる前の、どこまでも澄んだ目をした「十二歳の少年」と、俗塵に紛れ大いなる凡俗として暮らす、優しいほほえみを目もとに、また口もとにたたえた「八十歳の老人」ーー「本来なる自己」の声の届きやすい地平に立つ人たちである。「自己が自己を自己する」ことの、無為にして自然なる、自然(じねん)にして法爾なる生き方の容易な立場にある人たちである。
茶畑 倉本先生、富良野に入ってきたの、丁度おれのいまの年なんだ。四十三歳…。
仲世古 へえー、そうか。
茶畑 結構迫力あったね、あの先生。
相澤 来た頃はあまり忙しくなかったようだね。いつも麻雀やってた。
ーーお上手なんですか、(倉本聰)先生は。
相澤 うまいよ。ただ、ああいう性格だ、血の気が多いから。負けてくると、すぐカァーッとするらしいんだ。まあ、おれからするとやりやすい相手だね。
茶畑 負けると、倍、倍とかけてくる。
仲世古 そうだ。
茶畑 しんけんになっちゃう。マジに遊ぶ。いつだったかな。元旦にバクチ大会やったの。テラ銭というんだから、バクチはお寺でやったんだろうってね、お寺で新年恒例会をかねて開帳したわけ。ヤクザの恰好をしてね。みんな三百万の札束用意してくること。もちろん、上と下だけ一万円札、中身は古新聞。三百枚、揃えて切るんだ。まじめな仕事だね。倉本先生、やる以上は本格的に、正式に、というわけで、本物のバクチ打ちに聞いてきた。
仲世古 あれだろ。阿佐田哲也。
茶畑 そうだ。チンチロリンね、本物のバクチは。ところが、これがおもしろくないんだ。それで今年は、いい加減の時、合図すっから別のをやろうと皆で相談して決めていた。そのうち、合図があったんで、おれ、「さあ、このへんで別のバクチに変えましょう」といったら、「お前、そったらもんバクチでない」と怒鳴ったんだ、先生。おれも酔っぱらっているし、かっときて、「てめえ、人のナワバリに来てなにいうんだ!」とやり返した。とたんに、「なに!この野郎!」と投げてきた。見たらドス、本物のナイフ。おれのは子供の修学旅行の抜けないやつ(笑)。このへんで「まあ、まあ」って、だれか止めに入ってくれればいいのにさ、だれもとめないんだ。白けちゃった。
ーーすごいですね。
茶畑 二、三日たったら、「悪かった。酔っていた」なんて言ってくるの。それで元に戻る。とにかく、まじめなんだ。
相澤 倉本先生、冒険的なこと何でも好きなんだ。挑戦する。血がさわぐんだべな。この間、会ったら、今度は十勝岳を馬で越えたいっていってた。そのため馬の稽古しにオーストラリアに行ってきたんだからって。自信ついたって言ってた。
(中略)
相澤 それから、天塩川をカヌーで下りたいんだそうだ。そんなことできるかな。
ーーみなさん、カナダに御一緒したのですね。
(中略)
ーー何日ですか。
仲世古 十一日間。ミスター・クラモトが来たって、ホテルの社長とか総支配人とかの歓迎会、三日もつづいたの。そしたら、先生、日本語教え始めたの。
茶畑 とくに女性に教える。
仲世古 日本語たって三つだけ。「ダイスキ」、「ネタイ」、「クソシタイ」。
ーーえっ!
仲世古 晩餐会で合唱させるの、女の子たちに。たまげたな。
宮川 行く度に教えてくるそうですよ、それ。
ーー奥さま、いらっしゃるでしょうに。
宮川 ニヤニヤしてた。しょうがないなって顔して。(56)
ーー演技指導のときはどうですか。
仲世古 そりゃあ、すごいですよ。意見が対立することってあるでしょう。ふつう、対立しても妥協しますよね、いい加減のところで。先生はまず妥協しないんですよ。
茶畑 ほとんどぶつかる。一生懸命だから。
仲世古 ここまでは許せるけど、ここからは許せない、脚本家としての責任だからって聞いたことあります。
宮川 横で見ていてハラハラすることありますね。
茶畑 自分が世の中にどれくらい影響力があるかってこと気がついていないんでない?なんか、われわれと同じように怒鳴ったりする。ぶるっちゃうよ、ね。
仲世古 だからいいドラマできるんだろうけど。
(中略)
茶畑 先生、怒ってたって気がつかないんでしょ。
相沢 うん。わかんないな(笑)。
茶畑 向こうはそうとう頭に血がのぼってるんだ。知らないだけだあ(笑)。(57)
まさに倉本聰こそ「稚気(バカ)」ではないか。
「稚気(バカ)」ゆえに、自分を偽ることなく怒るのである。自分を繕うことなく、飾ることなく怒るのである。ところかまわず、なりふりかまわず怒るのである。執拗に怒るのである。無邪気に、健気に怒ることができるのである。
「一九八一年十一月、『週間朝日』で、倉本さんと対談した。『森の博物誌ーー自然、動物、人ーー 』というテーマだった。その中からの抜粋・・・。」
高橋「ところで、倉本さんのいる文化村は、ぼくがデザインしたんだが、本当は、文化人というのは好かんのだよ。だけど、倉本さんはいわゆる文化人じゃないですよ。とにかくあそこでがんばっている。要領が悪いけれども、本物を追っているんだ」
倉本「それは光栄です」
倉本「自分は四十何年間、東京のめしを食っちゃって、能力もなくなっているし、いろんなことが退化しているんだけれども、少しずつ自分でやっていると、少しずつ何かが出てくるんですね。」
高橋「倉さんはばかだから、あそこへ行って苦労してやっている。だけど、そうでなければならんよ。一つの作品を作るなら、いいかげんでつくってはいかんと同じようにね」
対談のしめくくりが、乱暴な言葉になっていたのに、どろ亀さん、びっくりした。実は、対談前に一杯ひっかけてゆき、対談中もやっていたので酔いのなせる業でもあった。現代の代表作家に、こんな失礼なことをいって、すまなかったと思った。
やがてできあがった『北の国から』は、すばらしいものだった。数々のシーンの強烈な印象は、どろ亀の目の中に心の中に、今も残っている。
やっぱり、倉さんにはばかなところがあるから、いい作品ができたんだと、今も思っている。(58)
「どろ亀さん」こと、高橋延清さんの書かれた文章である。
倉本聰は、「ばか」でもあったのである。
東大名誉教授である、かのどろ亀さんのお墨つきであるから、間違いのないところである。
倉本聰は、「稚気(ばか)」である。「ばか」でもあった。そして、どこかぬけているのである。放たれつつあるのである。
「第三章 倉本聰その底流にあるもの_註」
〔註〕
- 前掲「(シンポジウム)『北の国から』研究」一三五頁。高橋世織談。
(2) 倉本、前掲『北の人名録』七八頁。
(3) 堂垣内尚弘(元 北海道知事)「七年前の鼎談」(北海学園、前掲『倉本聰研究』二0頁)。
(4) 倉本聰「作者の言葉ーー北の国よりーー」(日本放送作家組合 編者協同組合『テレビドラマ代表作選集 1982年版』協同組合日本放送作家組合、一九八二年、四四頁)。
(5) 倉本、前掲『北の人名録』一四二頁。
(6) 小宮山、前掲「倉本聰 その国民文学的創造〔ある編集者的作家論〕」六二頁。
(7) 小宮山、前掲「北の国から=解説 (2) 新しい開拓者精神の誕生をめざして」三二九ー三三0頁。
(8) 倉本、前掲『谷は眠っていた』一0六ー一0七頁。
(9) 倉本、前掲『谷は眠っていた』七三頁。
(10) 倉本、前掲『北の国から 前編』三三頁。
(11) 倉本、前掲『北の国から 前編』八三頁。
(12) 倉本聰『さらば、テレビジョン』(冬樹社、一九七八年)一四七ー一四八頁。
(13) 倉本、前掲『さらば、テレビジョン』一四八ー一四九頁。
(14) 倉本、前掲『北の人名録』一一一ー一一二頁。
(15) 倉本、前掲『北の人名録』一00頁。
(16) 倉本、前掲『北の国から 後編』三一八頁。
(17) 前掲「(インタビュー)倉本聰ーー歩いてきた道、そして今ーー」三六頁。
(18) 倉本、前掲『北の国から 後編』四五頁。
(19) 倉本聰『冬眠の森ーー北の人名録 PARTIIIーー』(新潮社、一九八七年)二一七頁。(20) 倉本、前掲『谷は眠っていた』二五四頁。
(21) 倉本、前掲『谷は眠っていた』二五二ー二五三頁。
(22) 倉本、前掲『北の国から 後編』二八三ー二八四頁。
(23) 倉本、前掲『北の国から 前編』四一頁。
(24) 倉本、前掲『北の国から 後編』七七ー七八頁。
(25) 鬼頭麟兵(日本大学芸術学部講師)「テレビドラマ創作の秘密をさぐる 倉本聰の世界ーー第一回 “母の主題”ーー」(『ドラマ』五巻七号、映人社、一九八三年、九五頁)。
(26)倉本聰『ニングル』(理論社、一九八六年)一四頁。
(27) 倉本、前掲『ニングル』二五一頁。
(28) 前掲「すこぶる具体的に / すこぶる日常的に 対談〔白井佳夫〕×〔倉本聰〕」三一六一三一七頁。
(29) 倉本、前掲『冬眠の森ーー北の人名録 PART2ーー』一四三頁。
(30) 倉本、前掲『谷は眠っていた』二九七頁。
(31) 倉本、前掲『谷は眠っていた』二九九ー三00頁。
(32) 倉本、前掲『いつも音楽があった』四0頁。
(33) 倉本聰「自然保護という聞き馴れた言葉が今何となく怖ろしい」(「朝日新聞」一九八三年一一月一0日、夕刊)。
(34) 倉本、前掲『ニングル』一九七頁。
(35) 倉本、前掲『ニングル』一一0頁。
(36) 倉本、前掲『ニングル』二六五ー二六六頁。
(37) 「ここで文章について断らねばならぬが、北海道弁のニュアンスをセリフで伝えるのはむずかしい。変な所で語尾がはね上る。『連れてく?・』と、最後に?・をつけたのは『連れていくかい?』の意味ではない。『連れて行くよ』の意味である。但しその語尾がはね上る。そのはね上りを表現する為に?・というマークをつけている。」(倉本、前掲『北の人名録』二三ー二四頁)。
(38) 倉本、前掲『ニングル』一八六ー一八七頁。
(39) 倉本、前掲『北の国から 後編』二九四頁。
(40) 倉本、前掲『冬眠の森ーー北の人名録 PART2ーー』三八ー三九頁。
(41) 紀野一義『「般若心経」講義』(PHP研究所、一九八三年)一四0頁。
(42) 倉本、前掲『北の人名録』二二八ー二二九頁。
(43) 倉本、前掲『北の人名録』一二六ー一二七頁。
(44) 倉本、前掲『北の人名録』六三頁。
(45) 倉本、前掲『冬眠の森ーー北の人名録 PART2ーー』二六四頁。
(46) 倉本、前掲『冬眠の森ーー北の人名録 PART2ーー』二六九頁。
(47) 倉本、前掲『北の人名録』二二一ー二二二頁。
(48) 倉本、前掲『ニングル』五五頁。
(49) 仲世古善雄、相澤寅治、茶畑和昭、宮川泰幸 司会・今野洲子「(座談会)北の国・富良野・から(富良野紳士談義録)」(北海学園、前掲『倉本聰研究』二0五頁)。仲世古善雄談。
(50) 前掲「(座談会)北の国・富良野・から(富良野紳士談義録)」一九八頁。
(51) 前掲「人物クローズアップ 倉本聰「北の国」に根を下ろして十年」一三頁。
(52) 鶴田玲子(俳人)「富良野塾の四季」(北海学園、前掲『倉本聰研究』二一三頁)。(53) 倉本、前掲『北の人名録』一三頁。
(54) 前掲「(座談会)北の国・富良野・から(富良野紳士談義録)」一五九頁。仲世古善雄談。
(55) 前掲「(対話)倉本脚本との格闘〔撮影の現場から〕」一七一頁。
(56) 前掲「(座談会)北の国・富良野・から(富良野紳士談義録)」一九七頁ー一九八頁。
(57) 前掲「(座談会)北の国・富良野・から(富良野紳士談義録)」一九九ー二00頁。
(58) 高橋延清(通称・どろ亀さん 元 東大演習林長)「倉さんはばかだから」(北海学園、前掲『倉本聰研究』一八ー一九頁)。
「おわりに」
某国立大学・工学部に入学した。高校を卒業したその年、十八歳の春であった。エネルギー工学を専攻した。文学にはまったく興味がなかった。高校ではボールばかり蹴っていた。文学とはおよそ遠い世界にいた。
二十一歳の夏、本を読むことをおぼえた。読むことの楽しさを知った。夢中で読んだ。と、ともに、大学への足取りはしだいに重くなっていった。
本に読まれることを知った。読まれることの怖さを身をもって体験した。いろいろな世界、さまざまな考え方が、頭の中を無秩序にかけめぐった。混乱をきたした。それはあたかも十二色の水彩絵の具が一時(いっとき)にぶちまかれ、溶け合い、まっ黒になったかのようであった。身動きがとれなかった。苦しかった。虚ろな時間だけがむなしく過ぎていった。一時に大量に取りこまれたものを消化するには、それなりの時間を待つ必要があった。
以後、性懲りもなく読み続けた。
大学から身を退(ひ)き受験勉強をはじめたのは、二十三歳を迎えた年の晩秋のことであった。
そして、二十三歳の春。早稲田大学・第二文学部に入学した。
書くことにはまったく興味がなかった。翌年日本文学を専修した。書くこととはおよそ遠い世界にいた。
早稲田の杜での五年あまりを暮らした二十九歳の夏、遅ればせながら、卒業論文の準備にとりかかった。ようやく重い腰を上げた。書くことをしだいにおぼえていった。
一人前にももの書きのつらさを大いに味わった。もの書きの楽しさを少し呼吸した。もの書きの喜びをたっぷりと浴びた。
論文の冷ややかさに身をすくめた。論文のすげなさがやるせなかった。「文の接続」と「文末表現」のやっかいさ加減に右往左往した。原稿用紙の升目を一文字ずつ埋めることのしんどさに、目は白黒しっぱなしであった。
ここにおよんではじめて、読む者のそれなりの責任ということに思いがいたった。読みの難しさにいすくまった。深い読みの味わいをかみしめた。作品の周辺を知ることの楽しさにひたった。周辺を知ることの大切さが身にしみた。
「語釈、解釈、鑑賞、批評という過程(読み)に支えられて、はじめて作物は作品になる」
ーー清水茂先生(早稲田大学・日本近代文学)のいわれたことばが、妙に耳に痛かった。
一九九0年一二月八日。卒業論文提出十日前。ない頭を悩ませた。出すべきか、出さぬべきか。それが問題であった。枚数はあった。が、とても納得のゆくものではなかった。先は見えていた。出すということは、どこかでケリをつけるということ、諦めるということ。少なくとも自分の納得のゆくところで諦めたかった。心は両極に揺れた。が、結局、提出を諦めた。卒業論文を長かった学生時代の墓標としたかった。二十代を不器用ながらも、確かにつめこみ、優しく葬ってやりたかった。三十代への道標にしたかった。出発点にしたかった。そのためにも時間が欲しかった。はやる気持ちだけは抑えたかった。寝かせておく時間を稼ぎたかった。諦めた背景には、こんな私の頭があった。
一九九一年三月。下書き脱稿。ものが形をなすことの喜びを満喫した。
一九九一年九月。ここにささやかな卒業論文が完成をみた。ものが形をとったことの喜びに胸を躍らせた。私にとっては長い道のりであった。持ち重りのするものであった。実にうれしかった。
あの時点で提出を諦めたことの正しさを、つくづく思う。やはり、「諦めること」は「明らめること」であった。
さて、さて、お上のご裁きは?
神のみぞ知るということか。
つくづく十年遅れの自分を感じる。ひょとするとそれ以上なのかもしれない。しかし、それはそれでよしとすることにしよう。これはこれでよしとすることにしよう。人生に遅速はないのだから。やったか、やらなかっただけが問題なのだから、とご都合よろしく手前勝手に決めこんでる。
実はやったか、やらなかったのかさえも大した問題なのかもしれない。
「人の頭からわいてくるのは、虱くらいのものである」
と言ってのける人がいる。
そうなのかもしれない。
倉本聰は真夏の太陽のような人であった。
時代を先駆けることは、基本にもどること。
まっすぐに射しこむ日差しは眩しかった。
無為にして自然であること。自然(じねん)にして法爾であること。
真夏の太陽は大きかった。痛かった。
二十代の煤払いは終わった。
どれだけの煤を払いのけ、どれだけの煤が残ったのか、私にはわからないが、少々身軽になった自分を感じる。すこし風通しのよくなった自分を想う。
学生時代は立ち止まって考えた時代であった。まず、三十にして立とうと思う。そして、三十代を歩きながら考えてゆこうと思う。
「稚気(バカ)」、「ばか」を大きくふりかざして、心を「クリン・アンド・クリア」に保ちつつ、「偉大なる平凡人」を目指して、不惑の四十に向かって、ただ一歩、ただ一歩ずつ。
「共に笑いころげ、肩叩き合って叫び合い、見つめ合ったまま互いの目の中にあふれてくる涙を確認し合う、この人生の最高の行為。
人と感動を共有できること。」(倉本聰『北の人名録』新潮社、二四七頁)
いつまでも感動できる自分でありたいと思う。
どこまでも素直な自分でありたいと思う。
これをもって、学生時代の煤払い、「完」
ーー終わりは常にはじまり」ーー