『倉本聰私論』_「活字化をおえて」(22/21)


生存中の著者の作品は認めない、という暗黙の了解に背を向けて書きました。受理してもらえるかどうかが問題でした。「卒論指導」はありませんでした。なにも教えてくれない大学でした。「指導」するのも、されるのも嫌いな私にとっては、居心地のよい大学でした。

当時 雲英(きら)末雄先生(日本近世文学)が学部長をされていました。同郷のよしみということもあってか、なかってか、「あなたも苦労したでしょうから」とのことで、あっさりと受理していただきました。その後早速お礼状を書きました。そして、中島国彦先生(日本近代文学)に主査をお願いすることになりました。

「卒業論文」提出後の面接で、
「安心して読むことができました」
「引用文を結論にするのはよくないですね」
との感想を、中島国彦先生からいただいたことを覚えています。「安心して読むことができました」とは、およそ日本語としての体裁が整っている、極論におよんでいない、というほどの意味だと受けとめています。また、仰せの通りで、確かに引用文を結論にするのはよくありません。返却された卒業論文には、何頁かに傍線や大きな丸が鉛筆で書きこまれていました。

2015/08/28 TWEET「作文」で、
文章を書くうえで厄介なことは、文と文の接続と文末表現です。文末決定性は日本語の特徴ですから、当然といえば当然のことなのかもしれません。
と書きました。

今回、活字化するにあたって、多くの文末表現に手を入れました。そして、当時推敲の際に挿入した、今となっては目障りな語句のほとんどを削除しました。また、若さにまかせて書いた大仰な表現を改めました。

私の「卒業論文」は、「論文」ではなく「鑑賞文」であることを、今回の活字化を通して痛感しました。論文と呼ぶにはか弱い表現が散見されました。引用文が異様に多く、私見が異常に少ないことを実感しました。しかし、ブログ上に載せるには「鑑賞文」の方が都合がよく、複雑な気持ちでいます。

倉本聰さんへの「言伝(ことづて)」として「卒業論文」を書きました。製本して提出する前に、原稿を全コピーし、卒業論文用二分冊と、コピーした「言伝」用の二分冊の計四冊を製本していただきました。いまだに「言伝」は、手元にあります。今回の活字化を期に、二十余年を経た「言伝」を、倉本先生の元へ届ける手立てを考えています。読んでいただこうとはゆめゆめ思っていません。お届けできればそれでよく、長年来の夢は、それで完結します。

注文した、
高橋延清『どろ亀さん、最後のはなし―夢はぐくむ富良野の森づくり』新思索社
が、昨日届きました。

また、数日中には、
高橋延清『樹海に生きて―どろ亀さんと森の仲間たち』朝日新聞社
が届くことと思います。学生時代に読んだ本です。

悲願の「卒業論文『倉本聰私論』の活字化」を終えるにあたって、「どろ亀さん」の本を読見ながら、余韻に、余情にひたろうと思っています。

漱石の「則天去私」
(「塾・ひのくるま」のHPより)
学生時代、
「雨が降ったら雨が降ったと書けばいい。
余計な形容をするから文章が駄目になる」
と、漱石先生は仰られているとのお話をうかがいました。
「『則天去私』は生き方の問題ではなく、文章を書くための作法である」
との解釈もおうかがいいたしました。
早稲田大学の清水茂先生の日本近代文学での講義でのことです。
清水茂先生の厚みのある心地よい声を今懐かしく思い出します。

「則天去私」を標榜して、性懲りもなく今後も書き続けます。それが私の修練です。