「倉本(聰)文学は『間(ま)の文学』である」


倉本聰のシナリオの特徴は「ーー」、「間(ま)」にある。倉本文学は「間(ま)の文学」である、とよくいわれる。確かにこの特徴は、他のシナリオライターの作品と並べればひと目でわかるほど際立ったものである。多くのシナリオライターは、倉本聰の書く「ーー」や「間」に相当する大部分を読者にあずけ、直接シナリオに書きこむことをしない。

 倉本聡の数々の作品の演出を手がけた日本テレビのディレクター石橋冠の「ーー」、「間」についての考えを載せておきたいと思う。
 「“間”とか『ーー』は、倉本さんの脚本にはじめて出くわした時、ある種のカルチャーショックみたいな、ああこういうのもあったのかという鮮烈な記憶ってありますね。ぼくは最初、これは、俳優や演出者に対する不信感なのかなと思ったりもしたんです。つまり従来の脚本にはない、ひとつの作品である、あの作法というのはあくまで演ずる者、演出する者に対する、作家側の多分におしつけがましい要求に思えて、それは結局不信感なのかなと思っていました。けれども、最近になって、『昨日、悲別で』をやったとき、やっと、『ああ、あれ(「ーー」や「間」)は、ひとつの倉本さんのぬきさしならない文体なのだ』と思った。つまり、パーフェクトを求めているのね。かつて、倉本さん、ニッポン放送にいて、ラジオドラマのディレクターやってましたから音に対してとぎすまされた感性を身につけておられる。。音にたいする感性が、あのような“間”とか「ーー」に現われた。つまり、僕はあの“間”を一種の音ととらえるのだけれど、(後略)」(49)
 「山田太一さんは、すてきな散文詩の作家だと思うけれど、その対極に、倉本さんがいる。倉本さんのシナリオは韻文詩の文体で書かれていて、あの“間”は、なにものをもってしても埋めきれない詩集の余白のように思ってしまうことがあります。そう思うと一種納得のいく瞬間がある。」(50)
 「さっき、詩の余白の部分が“間”といったけれど、音楽でいうと、ブレイクというか、リズムを整えたり、転調したりする瞬間みたいなところがあり、ふたつ重ねて考えてみると、“間”というのは、ものすごくパワフルなもので、あながち、物理的に“間”と解釈し得ないものがありますね。要するに、詩集をもらったようなもので、(後略)」(51)
 「“間”とか『ーー』の中に、いかにイメージとしての力が内包されているか、次に押し出すリズムが要求されているかを考えると、(演出が)とめどなく難しくなってきます。もともとドラマに正解は無いようなものだけれど、気が狂いそうになることがありますね。」(52)

「言われるあらゆる言葉はどれも結局たがいに似たようなものであり、沈黙はそれぞれ皆違う。」(48) 沈黙は「心の真実を映し出す」ものであり、「全面的に個性的」なものである。沈黙は「無」ではなく「空」であり、「偉大なる暗闇」なのである。

「マ」や沈黙は、倉本聰の大きな特徴をなすものである。倉本聰の「ぬきさしならない文体」であり、生命線なのである。

(註)
(48)マーテルリンク『貧者の寶』(片山敏彦譯、新潮社、一九五三年)15頁。
(51) 石橋冠(日本テレビ・ディレクター)、杉田成道(フジテレビ・ディレクター)「(対話)倉本脚本との格闘〔撮影の現場から〕」北海学園北海道から編集室『倉本聰研究』理論社)161頁。

「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
「第一章 倉本聰のシナリオをさぐる」
「3. 間(ま)・沈黙の文学として」(07/21)より。