『倉本聰私論』_「おわりに」(21/21)


「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」

「おわりに」(21/21)
 某国立大学・工学部に入学した。高校を卒業したその年、十八歳の春であった。エネルギー工学を専攻した。文学にはまったく興味がなかった。高校ではボールばかり蹴っていた。文学とはおよそ遠い世界にいた。
 二十一歳の夏、本を読むことをおぼえた。読むことの楽しさを知った。夢中で読んだ。と、ともに、大学への足取りはしだいに重くなっていった。
 本に読まれることを知った。読まれることの怖さを身をもって体験した。いろいろな世界、さまざまな考え方が、頭の中を無秩序にかけめぐった。混乱をきたした。それはあたかも十二色の水彩絵の具が一時(いっとき)にぶちまかれ、溶け合い、まっ黒になったかのようであった。身動きがとれなかった。苦しかった。虚ろな時間だけがむなしく過ぎていった。一時に大量に取りこまれたものを消化するには、それなりの時間を待つ必要があった。
 以後、性懲りもなく読み続けた。
 大学から身を退(ひ)き受験勉強をはじめたのは、二十三歳を迎えた年の晩秋のことであった。 
 そして、二十三歳の春。早稲田大学・第二文学部に入学した。
 書くことにはまったく興味がなかった。翌年日本文学を専修した。書くこととはおよそ遠い世界にいた。
 早稲田の杜での五年あまりを暮らした二十九歳の夏、遅ればせながら、卒業論文の準備にとりかかった。ようやく重い腰を上げた。書くことをしだいにおぼえていった。
 一人前にももの書きのつらさを大いに味わった。もの書きの楽しさを少し呼吸した。もの書きの喜びをたっぷりと浴びた。
 論文の冷ややかさに身をすくめた。論文のすげなさがやるせなかった。「文と文の接続」と「文末表現」のやっかいさ加減に右往左往した。原稿用紙の升目を一文字ずつ埋めることのしんどさに、目は白黒しっぱなしであった。
 ここにおよんではじめて、読む者のそれなりの責任ということに思いがいたった。読みの難しさにいすくまった。深い読みの味わいをかみしめた。作品の周辺を知ることの楽しさにひたった。周辺を知ることの大切さが身にしみた。
 「語釈、解釈、鑑賞、批評という過程(読み)に支えられて、はじめて作物は作品になる」
ーー清水茂先生(早稲田大学・日本近代文学)のいわれたことばが、妙に耳に痛かった。
 一九九0年一二月八日。卒業論文提出十日前。ない頭を悩ませた。出すべきか、出さぬべきか。それが問題であった。枚数はあった。が、とても納得のゆくものではなかった。先は見えていた。出すということは、どこかでケリをつけるということ、諦めるということ。少なくとも自分の納得のゆくところで諦めたかった。心は両極に揺れた。が、結局、提出を諦めた。卒業論文を長かった学生時代の墓標としたかった。二十代を不器用ながらも、確かにつめこみ、優しく葬ってやりたかった。三十代への道標にしたかった。出発点にしたかった。そのためにも時間が欲しかった。はやる気持ちだけは抑えたかった。寝かせておく時間を稼ぎたかった。諦めた背景には、こんな私の頭があった。
 一九九一年三月。下書き脱稿。ものが形をなすことの喜びを満喫した。
 一九九一年九月。ここにささやかな卒業論文が完成をみた。ものが形をとったことの喜びに胸を躍らせた。私にとっては長い道のりであった。持ち重りのするものであった。実にうれしかった。
 あの時点で提出を諦めたことの正しさを、つくづく思う。やはり、「諦めること」は「明らめること」であった。
 さて、さて、お上のご裁きは?
 神のみぞ知るということか。
 つくづく十年遅れの自分を感じる。ひょとするとそれ以上なのかもしれない。しかし、それはそれでよしとすることにしよう。これはこれでよしとすることにしよう。人生に遅速はないのだから。やったか、やらなかっただけが問題なのだから、とご都合よろしく手前勝手に決めこんでる。
 実はやったか、やらなかったのかさえも大した問題なのかもしれない。
 「人の頭からわいてくるのは、虱くらいのものである」
と言ってのける人がいる。 
 そうなのかもしれない。
 倉本聰は真夏の太陽のような人であった。
 時代を先駆けることは、基本にもどること。
 まっすぐに射しこむ日差しは眩しかった。
 無為にして自然であること。自然(じねん)にして法爾であること。
 真夏の太陽は大きかった。痛かった。
 二十代の煤払いは終わった。
 どれだけの煤を払いのけ、どれだけの煤が残ったのか、私にはわからないが、少々身軽になった自分を感じる。すこし風通しのよくなった自分を想う。
 学生時代は立ち止まって考えた時代であった。まず、三十にして立とうと思う。そして、三十代を歩きながら考えてゆこうと思う。
 「稚気(バカ)」、「ばか」を大きくふりかざして、心を「クリン・アンド・クリア」に保ちつつ、「偉大なる平凡人」を目指して、不惑の四十に向かって、ただ一歩、ただ一歩ずつ。

 「共に笑いころげ、肩叩き合って叫び合い、見つめ合ったまま互いの目の中にあふれてくる涙を確認し合う、この人生の最高の行為。
 人と感動を共有できること。」(倉本聰『北の人名録』新潮社、二四七頁)
 いつまでも感動できる自分でありたいと思う。
 どこまでも素直な自分でありたいと思う。

 これをもって、学生時代の煤払い。
 「完」

ーー終わりは常にはじまり」ーー