『倉本聰私論』_「2. 別れ」(11/21)


「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
「第二章 倉本聰『北の国から』をさぐる」

「2. 別れ」(11/21)
「人と人とが別れるっていうこと。それは本当に大変な出来事よ」(6)、「おばさんもこれまでいくつかの別れを、つらい形で経験してきて」ーー。(7)
 別れの季節はつらい。そして、それはときに残酷でさえある。
 『北の国から』には、いくつも別れの場面が描かれ、そしてそれらは劇的に構成されている。
 男女の別れがあり、また故郷との別れがある。東京との別れがあり、東京の先生との訣別がある。廃屋、丸太小屋、分校との別れがあり、「一九九0年」との別れがある。さらには、馬との別れの描写があり、ボクシングとの別れの描出がある。親離れ、子離れといった別れもあれば、また、死別という別離もある。
 この節でのテーマは、「別れ」である。
 偶然に左右されがちな出会いに対して、別れは必然的に人を訪う。別れの際には濃密な時間が流れ、それぞれが個性的である。別れは互いの人間を如実に語り、相互の関係を雄弁に物語る。出会いに比し、別れが丹念に描かれる理由である。
 『北の国から』には、多くの別れの場面が描かれている。
 倉本聰は、ドラマ臭さをを払拭するために、「事件そのもの」は書かずに、「事件の始まりと終わりを書くという枷を(自からに)課した」というが、「枷」の真意ははたしてこれだけなのであろうか。私には、ことに流されることなく、人に迫り、人を描くための「枷」であるような気がしてならない。描きすぎることへの弊、ふくみの創出、「終り」にむけての時間の凝縮による演出効果の高まり等々、「枷」の効果は大きい。「始まり」のない「事件」はないが、その過程は、「終わり」の描写しだいで補足可能である。このように考えたとき、倉本聰のこの「枷」は十分に納得がいく。

富良野駅ホーム
  発車のベルとアナウンス。
  純の顔。
  デッキに立った令子。
  五郎の顔。
  すこし離れている雪子の顔。
  令子、純に手を出す。
  純ーー手を出す。
  握手。
 令子「頼んだわよしっかり、螢のこと」
  うなずく純。
  ーーけん命に涙をおさえている。
  雪子。
  ベルふいにやみ、ドアが閉まる。
  純の顔。
  一切の音消えてなくなる。
  五郎。
  令子。
  純。
  列車、ーー動きだす。
  凍結したように動かない純と五郎。
  しだいにスピードを増し、ホームをはなれる列車。
  遠くなる。(8)

 別れの場面の大部分は、ト書で占められている。ともすれば安っぽくなりがちな場面における倉本聰の勝因は、多用された体言止め、助詞の省略。極力抑えられた感情、抑制のきいた台詞。「マ」、沈黙の中での感情の交感。ト書に託された万感。静寂のとりまき。はりつめた時の流れ。さらには、巧みに仕組まれた場面構成にあると考えられる。
 「この人(倉本聰)の脚本の特徴は何といっても理詰めの構成の巧みさにある。構成が完璧だという点では映画の橋本忍氏と双璧だ。私(石堂淑朗)みたいにザルみたいな脚本しか書けぬ人間には驚異である。」(9)
 隙のないきめ細やかな構成。幾重にも重なった手のこんだ仕掛け。ものごとへの集中。その有機的なつながり。これらを前にして、我々の感情は、倉本聰の手中に完全に掌握されてしまうのである。
 別れの場面は、『北の国から』の高みをなすものである。
 本編(『北の国から 前編』、『北の国から 後編』)におけるそれらは一話一話の結び、もしくは小段落の終わりに配され、令子の死とその後をもって幕が閉じられている。また、一話完結のスペシャル版(『北の国から ’83 冬』、『北の国から ’84 夏』、『北の国から ’87 初恋』、『北の国から ’89 帰郷』)でのそれらには、各作品の結末部にその座が用意されている。そして、各所に散りばめられた決して少なくない出来事は、別れの場面を足がかりにして、終局にむかって(別れの場面が、作品のエピローグとなっている場合にはそれにむかって)一気呵成にまとまりをつける。その躍動感にあふれた運びと、哀調を帯びた空間、息つく暇をあたえないスピード感と静まりかえった時間との対照。さらには、ひとつひとつの点を一本の線で結び、ダイナミックにたぐりよせ、一気にまとめあげる倉本聰の手さばきはみごとである。
 また、別れは常に思いの外である。
 子ども恋しさに突然来富した令子。娘のパジャマを「しっかり」胸に抱く母。パジャマのにおいから敏感に母を感じるとる螢ーーパジャマのにおいを通しての確かな親娘の交感ーー退化した五感の最たるものである嗅覚に目をつけ、においにすべてを託した倉本聰の手柄である。パジャマのにおいにさえ母を感じざるをえなかった螢の母乞いは、読む者を圧倒する。
 また、今生のお別れといわんばかりに令子の乗る汽車を追い「延々と」「川っぷち」を、涙を流れるままに走る懸命な螢。帰宅後の嗚咽。眠る螢の顔にかかるラベンダーの花束、「目じりから頰をぬらしている涙のあと」。
 さらには、『北の国から ’87 初恋』における、純が納屋の外に見た「もういちど立ちどまってふり返ったらしい」れいの足跡ーー倉本聰は、れいの純との別れを雪原をカンバスにみごとに描いた。雪上にきざまれた足跡はことばを俟たない。ことばは一蹴され、雲散し霧消する。ことばの介在を許さない力がこの足跡にはある。
 そして、父と螢とつらい別れをした純は、トラックの車中で、「荒っぽい顔をした」「無愛想」な運転手に、

走る車内
  純。
  そのイヤホンが突然抜かれる。
 純  「ハ?」
  運転手を見る。
 純  「すみません、きこえませんでした」
  運転手、フロントグラスの前に置かれた封筒をあごで指す。
 純  「ハ?」
 運転手「しまっとけ」
 純  「ーー何ですか」
 運転手「金だ。いらんっていうのにおやじが置いてった。しまっとけ」
 純  「あ、いやそれは」
 運転手「いいから、お前が記念にとっとけ」
 純  「いえ、アノ」
 運転手「抜いてみな。ピン札に泥がついている。お前のおやじの手についてた泥だろう」
  純。
 運転手「オレは受取れん。お前の宝にしろ。貴重なピン札だ。一生とっとけ」
  純。
  ーー。
  恐る恐る封筒をとり、中からソッと札を抜き出す。
  二枚のピン札。
  ま新しい泥がついている。
  純の顔。
  音楽ーーテーマ曲、静かに入る。B・G。
  純の目からドッと涙が吹き出す。
  音楽ーー

エンドマーク(10)

 エピソードの豊富さとその意外性による悲しさ、哀しみの増幅。倉本聰の意表をつく展開でのだめ押しは、数々の別れの場面を我々の脳裏に焼きつけて離れない場面に仕立てている。登場人物を自在に操る倉本聰の手腕にはうならされるばかりである。
 『北の国から』には、三人の死の描写がある。杵次の死、令子の死、そして大里の妻の死の描写である。(大里の妻は、大里の身代わりに死んだ、とのとらえ方を私はしている。)
 三人には共通項がある。
 杵次は、ヘナマズルイ(“ズルイ”の最上級。ちなみに“ズルイ”の比較級は“ナマズルイ”である)ことで有名であった。令子は“あやまち”を犯すことで、離婚の原因をつくり、大里は「きらわれ者」を地でいっていた。
 これらの三人を、倉本聰は死に追いやったのである。
 倉本聰は「悪人」書けない、という。
 「悪人のつもりで最初は書くのですけどね。つまり悪役というのはつくるんですけど、悪人の一分の理というやつを少ししつこく書きすぎちゃうのですね。つまり悪人の言い分も聞いてやろうというところが多すぎちゃうのですね。」(11)
 「『それがボクの欠点なんですねェ。悪者を書こうと思うけど、書いていると、その人を弁護する部分がどんどん増えてきて…。』(中略)『どうもボクは感情移入しやすいタイプでして…』」(12)
 倉本聰は三人を死に追いやることによって、三人を救ったのである。三人の優しさを描き、人間であることの哀しさを書くことによって、三人を「弁護」しながら救ったのである。
 「いろいろ許せんこともあったンだろうけど、ーー令子も、もう、きれいになっちゃったンだしね」(倉本、前掲『北の国から 後編』二九一頁)
 死によって此岸でのすべてが許され、「きれい」になってしまうのである。此岸が彼岸までもちこまれることはない。死によってすべてが清算されるのである。
 倉本聰の死生観の顕われである。
 「倉本さんは人間についても冷たく対立する関係を描きませんね。憎悪で傷つけ合うのではなく、憎しみを悲しみに変えていって対立感情を調和させてしまいます。」(13)
 全く同感である。人は哀しみの囚われの身である。“北の国”の住民、さらには倉本聰の作品に登場する人物たちは、人間であることの哀しみをしかとみつめ、お互いがその哀しみの部分において共感し合う、まさにそうい人々なのである。
 作中での対人関係は、また読者と作中人物との関係でもある。登場人物とふれあったとき我々の感じるものは、同情や憐憫の情ではなく、同じ人間に由来する当人と同種の悲しさである。同じ地平に立っている同じ人間であることに由来するどしようもない哀しみである。
 許すとか許さないとか、認めるだの、認めないだのを超えたところでの哀しさへの共感ーー倉本聰は「規格外れ」の人々を哀しみでくるむことによって、彼らを私たちと同じ土俵の上で七転八倒させるのである。
 “北の国”には、いい別れがあった。 
 いい別れ方のできる人々がいた。
 倉本聰は別れを神聖な儀式にまで高めた。
 “北の国”とは、神聖なことを神聖に行うことのできるすてきな人々の息づく地である。

  さまざまな雲の姿。
  その雲をバックにこのドラマに関係したすべての人びとの名がアイウエオ順でゆっくりと流れるーー。

エンドマーク(14)
 
 「あの番組の初めや終りにスタッフキャストの名前を出すあれ。(15) ーー本編の最終回での倉本聰のクレジットタイトルへの注文である。
 「しかしねアンチャン(倉本聰)イヤ先生、実際問題プロデューサーにとってタイトル程頭の痛いものはないわけでして」、「まずその順番。どの役者をトップに持って来て誰をラストに持ってくるか、これを決めるのが一大事業。出演交渉をマネージャーとするとき、ギャラとタイトルでまず大もめになる」(16)
「『前略おふくろ様』パートIIのラストに、主題歌にのせてパートIパートII、番組に関係した全ての人間を、スタッフもキャストも全部ひっくるめてアイウエオ順に流した」(17)、「それを見ながら僕はその時、これこそタイトルだ、本当のタイトルだ!何かその『前略』に関った二年の、あらゆる苦労やいやな想い出が体中から溶けて流れ出、そうして只闘ってきた戦友たちとの連帯のみがふつふつと蘇り、目頭を熱くしたものなのであります。」(18)
 番組に関係したすべての人々への平等の感謝、また作品との惜別。いかにも倉本聰らしいお別れの仕方だと思う。
 雲に託された詩情と静かに流れるタイトルクレジット。その中で「戦友たち」に取り巻かれた「倉本聰」の小さな文字を見つけたときの感動は今も鮮やかである。
 小さな文字は、ひときわ輝いていた。ひときわやさしかった。
 これこそ、倉本聰の「別れ」の真価なのである。