『倉本聰私論』_「4.告白」(13/21)
「倉本聰私論 ー『北の国から』のささやきー」
「第二章 倉本聰『北の国から』をさぐる」
「セリフが生き生きしていて、一対一のやりとりの場面なんかすごくうまい。(中略)追いつめられた一人の人間が、極限状況で本心を吐露する場面なんてのは、彼(倉本聰)の独壇場みたいなところがある。」(34)
『北の国から』には、幾つもの告白の場面がある。いずれも感動的な場面である。その素地をなしているのは、深い愛情で結ばれた人と人との絆である。また、そこには人をみつめる確かな目が息づいている。
五郎親子の間で交わされる告白は、その典型である。
告白の場面での私の関心は、いつもきまって聴き手のあり様にある。
あたたかな人柄が醸しだす自由な場、ささいなことにも耳を傾ける真摯な態度。相手の心のままを黙って受け容れる包容力。
人はこのような聴き手を前にしたとき、はじめてすなおな気持ちになる。心を許す気になる。他人(ひと)に心の内を話すことは、自らの心の内をのぞき自省することにつながる。
「はじめに聴き手ありき」である。
私のなかで主役の座を占めるのは、きまって聴き手の存在である。
聴き手は話し手の心の痛みを聴く。共感的な態度でただ聴く。聴き手は話し手の内なる叫びを聴く。我が身にひきよせてただ聴く。聴き手は話し手の心のうずきを聴く。受容しつつただ聴く。大切なことは、話し手の今、ここでの気持ちであり、過去や未来のそれではない。
安っぽいことばは、けっして口にしない。自分の内なることばだけが力をもつ。一般論をふりかざしたお説教はしない。一般論はあくまで一般のものであり、個のものではない。力をもって相手をねじ伏せること、知をもって相手を制することはしない。事実に目を向けて、相手にそっと寄り添う。善悪の判断は下さない。いや、下せないのである。
聴き手は「する存在」ではなく、ただ「ある存在」なのである。
『北の国から ’89 帰郷』には、好対照をなす二つの場面の描写がある。「傷害事件」を起こした純に「対する井関」と、純と「向き合う五郎」のそれぞれを描いた場面である。井関、五郎のそれぞれを描いた場面である。井関、五郎、両者のとる態度の差異は、その結果において決定的な相違となる。
警察・表(深夜)
井関と雪子にともなわれ、うなだれた純が出てくる。
井関家・居間
純。井関、雪子。
煙草にゆっくり火をつける井関。
間。
井関「(ポツリ)相手が命に別状なくてよかった。一歩まちがってたら殺人犯だ今頃。わかるか?」
純 「ーー」
間。
井関「純」
純 「ーー」
井関「おれは今まで黙って見ていた。大人としてお前を扱いたかったからな。だけどーー」
純 「ーー」
井関「いつからお前は不良になったンだ」
純。
雪子。
井関「深夜出歩いてバイク乗りまわして、まじめな人間のやることじゃない」
純。
井関「まして人様を傷つけるなンて」
純 「ーー」
間。
井関「その赤い髪を鏡で見てみろ。その髪で富良野にお前帰れるのか」
純 「ーー」
井関「その髪見たらおやじさんどう思う」
純 「ーー」
井関「何も知らずにお前に期待して、一人でがんばってるおやじさんどう思う」
純 「ーー」
井関「そういうことを考えないのか」
純 「ーー」
純。
純「(かすれて)けんかの原因は、ーーきかないンですか」
雪子「純」
純 「けんかの原因はきいてくれないの」
井関「原因とか何とかそういう問題かね」
純 「ーー」
井関「今度のけんかの原因は何だとか、そんな次元の問題じゃないだろう」
純 「ーー」
井関「お前がいつからこうなったのか。どうして不良になっちまったのか」
純 「(低く)おれは不良じゃない!」
雪子。
井関。
井関「自分で思っても世間から見れば」
純 「人を傷つけたのはたしかに悪いけどーーほかには何も悪いことしてない」
間。
井関「断言するのか」
純 「おれは不良じゃない」
純の目からホロッと涙がこぼれる。
雪子。
井関。
純、スッと立ち玄関へ。
雪子「(立つ)純!」
同・表
雪子とび出す。
走り、向こうの石の電柱に、ガンガンこぶしを叩きつけている純。
走り寄る雪子。
雪子「純、わかったから!」
ボロボロ泣きながら、全身の力でこぶしを石柱に叩きつける純。
純 「(小さく)おれは不良じゃない。ーーおれは不良じゃない」
こぶしが切れて血が飛び散っている。
雪子「わかったから、やめて。おばさんわかったから」
純 「おれは不良じゃないーーおれは不良じゃないーー」
音楽ーー静かにイン。(35)
反感は反感をかい、反発は反発を招く。声高に子どもの頭を押さえつけることによる最善の結果は、後になにも残さないことでしかありえないのである。「人を傷つけた」ことに対する自省という根幹は棚に上げられ、切実な自分自身の問題として認識されることはない。二人の間には埋めるべくもない溝が生じ、ことばによって受けた傷のみが一人歩きをはじめる。
それに対し、五郎は。
風呂
中で、入っている五郎の水音。
焚き口お純。
五郎「(中から)螢どうした。」
純 「二階に行ったみたい」
五郎「うん」
間。
純 「ぬるくない?」
五郎「いい湯だアー!」
長い間。
純。
純 「父さん」
五郎「あ?」
純。
純 「ぼく早くいおうと思ってたンだけどーー東京でちょっと、事件起こしたンだ」
間。
五郎「どんな」
間。
純 「けんかして人に、けがさしたンだ」
間。
純 「たいしたことなくて済んだみたいだけど」
間。
五郎「どうしてけんかしたンだ」
純。
ーー右手のこぶしをゆっくり開閉する。
純 「大事なものをそいつにとられたから」
五郎「ーーそうか」
純。
間。
五郎「それは、他人をけがさすくらい、お前にとって大事なものだったのか」
純 「ああーー(涙がつきあげる)」
五郎「それなら仕方ないじゃないか」
純 「ーー」
五郎「男にはだれだって、何といわれたって、戦わなきゃならん時がある」
純 「ーーああ」
純の頬を涙がボロボロ流れる。
純、懸命にその涙に耐えて、
純 「父さん」
五郎「ーーああ」
純 「それにボクまだこれもいってないけど、東京で三べんも職をかえたンだ」
五郎「ーー」
純 「永つづきしなくてーー三べんもかえた」
間。
五郎「オレは昔六ぺんーーいや、七へんかわった」
純 「ーー」
五郎「東京にいる間に七へんかわった」
純 「ーー」
五郎「これは家系だ。気にするな」
純 「ーーああ」
間。
五郎「学校は行ってるのか」
純 「学校はちゃんと行ってる」
五郎「ならいいじゃないか」
純 「ーー」
純。
間。(36)
この場面は、入浴中の五郎と風呂の焚きつけををする純という構図のもとに設定されて
おり、二人の間には物理的な壁がある。二人を隔てるこの壁は、二人の“伝え合い”の手段を“ことば”だけに限定する。
他の告白の場面と比較したとき、聴き手(五郎)のことば数が多いのはそのためであろう。しかし、基本的には他の告白の場面と軌を一にしている。
まっ先にけんかの原因をたずねる五郎。問いただすこと、追いつめることをしない五郎。「対する井関」に対して、「向き合う五郎」。五郎には純を信じて一任しておく度量がある。自ら告白する気になった純を受けとめるだけの胆力がある。
是非を問うことは、自らの良心において行われたとき、はじめて意味をもつ。開かれた場こそがそれを可能にする。
東京でのあれもこれもをひと抱えにして帰郷した純にとって、故郷とは、また家庭とはまさにその場であった。あたたかな陽だまりのなかに身をおいた純は、去来するさまざまなことを思っただろう。それは自らをみつめるときであり、自己を問う時間であったことだろう。それが五郎への告白という形で結実したのである。
告白後の純の様子を示す記述はないが、父親に受容されたことは、“自省の場”への呼び水となったことだろう。ここに「わかる人」のいることの意義があり、人の不思議さがる。
「“わかる”ということを一層正確に言い表わすには、それは“知ること”と“感じる”という客観的な経験と主観的な経験に分けることが出来るだろうが、その二つを同時に一つの単語で表わすために、ここでは“わかる”という語を使用することにしたいのだ。」(37)
西江雅之いうところの“わかる”である。
“わかる”ことのおよそは“感じる”ことにあると思う。ことに日本人間での“伝え合い”における“わかる”ことの深浅は、“感じる”程度の如何によって左右される。
一を知り十を感じる豊かな感性をもちあわせた人々。人情の機微に触れながら日々を暮らす人たち。倉本聰は、感じること、察することに長けた人物を作品の中心に据える。
それは『北の国から』とて例外ではない。
主だった登場人物たちは、“気配り”をする人々ではなく、“心配り”をする人たちである。“気づかい”をする人々ではなく、“心づかい”をする人たちである。“気をつかう”人々ではなく、“心をつかう”人たちである。そして、感じ、察することによって相手のことを理解した人々は、事情の大きさに目をみはり、沈黙するのである。わかった人たちは、けっしてわかったようなことは口にしない。ことばを失くすほどのわかり方でなければ、わかったことにはならない、といわんばかりのわかり方である。
頭で理解するのではなく、腹の底からわかること。倉本聰のわかり方である。
二階
きき耳たてている純と螢。
居間
五郎「まァ茶でも飲めよ。酒は出さんぜ」
杵次「五郎」
五郎「ああ」
杵次「あの野郎、感づきやがった」
五郎「ーーあの野郎って」
杵次「馬よ」
五郎「ーー」
杵次「今朝早く業者がつれにくるってンで、ゆんべ御馳走食わしてやったンだ。そしたらあの野郎ーー。察したらしい」
五郎。
杵次「今朝トラックが来て、馬小屋から引き出したら、ーー入口で急に動かなくなって、ーーおれの肩に、首をこう、
ーー幾度も幾度もこすりつけやがった」
ーー幾度も幾度もこすりつけやがった」
五郎「ーー」
杵次「見たらな」
五郎「ーー」
杵次「涙を流してやがんのよ」
五郎「ーー」
杵次「こんな大つぶのーー。こんな涙をな」
二階(インサート)
純と螢。
居間
杵次。
杵次「十八年間オラといっしょに、ーーそれこそ苦労さして用がなくなってーー」
五郎「ーー」
杵次「オラにいわせりゃ女房みたいなあいつを」
五郎「ーー」
間。
杵次「それからふいにあの野郎自分からポコポコ歩いてふみ板踏んでーートラックの荷台にあがってったもンだ」
五郎「ーー」
間。
杵次。
杵次「あいつだけがオラと、ーー苦労をともにした」
五郎「ーー」
間。
杵次「あいつがオラに何いいたかったか」
五郎「ーー」
間。
杵次「信じてたオラにーー。何いいたかったか」
とつぜん杵次の目に涙が吹き出す。
五郎。
音楽ーーテーマ曲、静かにイン。B・G。
杵次。
とつぜん立ちあがる。一升びん下げて外へ出る。
五郎「とっつあん」(38)
杵次とその馬は、深いところで響きあっていた。
馬のものわかりのよさもすばらしければ、杵次のわかり方もすばらしい。杵次の話にじっと耳を傾ける五郎もすばらしければ、「目に涙をためて」聴きいる純や螢の感じ方もすばらしい。幾重にも重なりあったわかりあいの世界。しなやかな心をもった者たちによって織りなされた美しい関係。自他の区別さえあいまいな一つに溶けあった世界。
わかることとは是でもなければ非でもない。是非を超えた世界で分かちあうこと。お互いがお互いの哀しみをみすえ、それをまっすぐに受けとめあうこと。認めあうこと。畏れを抱くこと。
私のいう、人間を見つめる確かな目とは、この一点に収束されていくものなのである。